守城の名将:袁崇煥:第4章:寧遠の章⑨
◯1627年:【寧錦の戦い──一六二七年・初秋】
空がまるで血を流したように真っ赤に染まっていました。その空の下──遼東の守りの拠点、寧遠城の西門では、何人かの将軍たちが静かに集まっていました。
________________________________
・袁崇煥と仲間たち
中にひときわ目を引く黒い服の男がいました。名前は袁崇煥。かつては役人の試験に合格した文人でしたが、今や明という国を背負う将軍です。
黙って上着の襟を正した袁崇煥は、集まったみんなを見渡すと、ぽつりつぶやきました。
「……追撃は、しなかったな」
すぐに答えたのは、ひときわ大きな体をした将軍──満桂。彼はハイテンションで破天荒な性格ですが、この時はどこか落ち着いた声でした。
「はい!敵の退却は予想外でしたからね!無理に追えば、隠れた兵にやられる危険があります!寧遠での戦いは熾烈でした。ここは兵を休ませて、明日には態勢を立て直すべきですよ!」
「……そうか」
袁崇煥は短く答えましたが、その目は西の曇り空の向こうを見据えていました。そこには、敵──後金の影がまだ、消えてはいませんでした。
「閣下、兵糧と傷ついた兵士の世話は、私にお任せください。ぐぅ~」
静かに頭を下げたのは、気弱でいつも腹ペコな補給担当の何可綱です。実は、能力が高く今や袁崇煥軍の中で重要な役割を任されています。
「……いつも任せてすまないな、何可綱。」
「いえ、戦は人がいてこそ。勝った後こそ、兵を守らねばなりません。そしてお腹いっぱいになったからこそ、兵たちも安心できるでしょう。」
「──それができる将が、俺には必要だ」
袁崇煥のその言葉に、一瞬、沈黙が流れました。
その空気を破ったのは、軽やかな足音と──妙に明るい声でした。
「閣下ぁ〜!戦果、持ってきたっス!」
場違いなまでに元気なその声の主は、趙率教。彼は面白いおじさんで、小柄ですが素早く、性格は軽いですが、袁崇煥が若い中でも特に目をかけている人物でした。
「後金軍、今回はちょっとビビった感じっスね!たぶん反省したかもです!いや、マジで!」
「……その内容、文に起こせるのか?」
「えっ、それが……なんとも……そこは何可綱殿に……」
何可綱がため息まじりに口をはさみました。
「あ、あ、あ、はい。私が書きましょう。趙殿、内容を口頭で伝えてください。とほほ。」
「さっすが何可綱殿、頼りになる〜!」
趙率教はぴょんと跳ねるように何可綱殿のそばへ寄っていき、状況を喋り始めました。
________________________________
・希望の炎
その時、門番の一人が駆け寄ってきて、大声で叫びました。
「閣下!錦州より、祖大寿将軍、ただいま帰還されました!」
「──やっと来たか。……生きていてくれたか」
袁崇煥の低く静かな声に、みんながほっと息をつきました。
すると、満桂がふと問いかけました。
「閣下。この勝ち……どれほどの意味があるのでしょうか」
一瞬、風が止まったように思えました。
彼はぱっと見こそ破天荒ですが、実はとても頭のいい男。だからこそ──この一戦に、本当に価値があったのかと、率直に尋ねたのです。
「──今は、ただの小勝ちだ」
袁崇煥ははっきりとそう答えました。
「だが、この小さな火が絶えなければ、いつかは『国を護った』と呼ばれる。……その日まで、俺は剣を置かない」
満桂は、ゆっくりと頭を下げました。
「ならば、次の一戦も。この命、お預けしましょう!ひやっほ~!」
祖大寿もまた、おごそかに言いました。
「我ら、閣下の背を支えます。倒れるならば我らの方に。」
「……ありがとう」
袁崇煥は、仲間たちに短く礼を言い、そして遠くを見つめました。
その先には、後金の領地が広がっています。強大な敵。けれども、今日この日の小さな勝ちは──確かにそこに火を灯しました。
赤く燃えた空は、やがて深い青色へと変わり、静かに夜が落ちました。
しかしその下で、明の希望だけは──まだ、静かに燃えていたのでした。
________________________________
◯1627年【新たなる帝──1627年・秋】
まだ夜の闇が深く、紫禁城に霧が静かに流れる早朝のことです。白い石畳の廊下には、かすかな足音だけが響いていました。
歩いていたのは、一人の若い青年です。
________________________________
・新しい皇帝の誕生
朱由検──後に崇禎帝と呼ばれる男です。彼は、前の皇帝である天啓帝の弟にあたり、まだ17歳という若さでこの広い宮殿の王様の座を継いだばかりでした。
見た目は少し弱そうに見えたかもしれません。ですがその瞳は怯えてなどいませんでした。むしろ、内側で燃える冷たい炎のような決意を宿していました。
「……魏忠賢」
ぽつりと、彼が呟いたそのとき、背後から声が響きました。
「おや、陛下。そんなところで独り言とは。ご機嫌斜めですか?」
振り返ると、そこには偉い宦官の**魏忠賢**が立っていました。ふっくらした頬、ぬめっとした目。長い年月をかけて前の皇帝に可愛がられ、宮廷の裏で権力を振るってきた男です。
「魏よ。お前の悪い評判が、最近どこからともなく耳に入る」
「ほう?それは光栄でございますな。忠義の務めをあちこちで――」
「忠義?ははっ、笑わせるな」
朱由検は振り返り、その目は剣のように鋭く光っていました。
「都で噂される密告文。大臣たちが次々に姿を消した理由を、知らぬとでも?」
「……陛下、証拠はございますか?」
「要らん」
若い皇帝はぴたりと答えました。
「お前の顔こそ、証拠だ」
魏忠賢の顔にわずかにひきつりが走りました。
「すぐに会議を開いて、お前を罰し、職を解く」
「若すぎますな、陛下。世の中は理屈では動かぬのです。人が動かすのですぞ?」
「知っている。だから、お前を処断する」
その冷たい言葉に、廊下の空気が凍りつきました。
数日後。
政府の会議で魏忠賢への罪を追及する文章が読み上げられました。役人たちは凍りついたように黙り込んでいましたが、魏忠賢ただ一人が、言い訳をしゃべり続けていました。
しかし、魏忠賢は、鳳陽へ左遷されることになります。
「左遷なわけがない、俺は途中で殺される。嫌だ!嫌だ!」
鳳陽へ左遷される途中に逮捕の知らせを聞き、阜城で仲間と共に首を吊って自殺したとされています。その後、彼の遺体は磔にされ、首は晒し者にされました。また、彼の一族も処刑され、財産は国に没収されました。
________________________________
・袁崇煥の懸念
場所は変わって、遼東の袁崇煥の陣営です。
「やったー!ついにあいつが倒れたぞ!」
突然、お腹を空かせた様子の**何可綱**が大声を上げました。
「魏忠賢が自殺した!その時代は終わったんだ!」
袁崇煥は、魏忠賢が亡くなったという知らせに、喜びの色は見せませんでした。
「宦官の根は、一度抜いただけじゃ消えない」
彼は都に呼ばれ、新しい皇帝から密かに意見を求められていました。
「陛下は正しい決断をされた。しかし、ここからが本当の戦いだ」
「でも、魏忠賢はもういないじゃないですか……?」
「いるさ。あいつが築いた“人脈”が、今も政治をむしばんでいる」
「うわあ、政治ってめんどくさいっスね」
これは趙率教の声でした。
「……それでも戦は続いている。北では後金、南では飢饉と盗賊が暴れている。国が崩れかけているのだ」
その言葉に、全員が息をのみました。
「じゃあ、閣下。俺たち、どうすればいいんスか?」
趙率教が尋ねました。
袁崇煥は短く答えました。
「まず、死ぬな。生きて、立って、戦え」
その声はかすかに震えていました。
ですが、それは恐れからではありませんでした。
──それは、覚悟の音でした。
________________________________
◯1627年(明朝・崇禎年間)
【荒れ狂う秋の都──反乱の足音】
紫禁城の空は高く晴れ渡っています。ですが、その澄んだ青空とは裏腹に、人々の暮らしは暗く、どんよりとした雲に覆われていました。
とくに陝西──今の中国西部の広い地域──では、ひどい干ばつが襲いかかっていました。畑はひび割れ、川は干上がり、食べるものがどこにもありません。
「このままじゃ、みんな飢えて死ぬだけだ!」
「だったら、役所の倉を襲って食べ物を奪おう!」
こうして、苦しむ農民たちが次々と武器を取り、反乱軍となって立ち上がりました。
その中に、後に明王朝を崩壊させることになる男がいました。名前は李自成。この時はまだ無名の若者でしたが、後に「闖王」として世の中を騒がせることになります。
________________________________
・報告と懸念
「──というわけで、あちこちで反乱が起きています」
重い声で報告したのは祖大寿。彼は皮肉屋ですが、この時は冷静沈着な武将で、戦場でも動じない強い男でした。黒い髭が顔によく似合っています。
「おまけに、今回は大きな反乱です。李自成という若者が、いきなり頭角を現して、村人たちをまとめ上げて反乱を起こさせました」
「ふむ、また一人、野心家が現れたか」
豪快そうに見えて、実は細心の注意を払う**満桂**が、椅子にどっかりと座って言いました。彼はハイテンションで破天荒な性格です。
「で、李という若者は何ができるんだ?」
「いや、けっこうしたたかなんですよ。話し上手で村人をまとめて、あっという間に反乱を起こさせてしまった」
「おぉ……やるじゃねえか、未来の悪党め」
そこにズカズカと入ってきたのは趙率教。彼は面白いおじさんで、陽気でお調子者ですが、剣の腕前は確かです。
「なぁに、こっちだって負けてられっかっての!な、閣下!」
「満州族がこの地を諦めて引きこもってくれればな、奴らの息の根を止めに行くさ」
困ったように笑ったのは袁崇煥。彼は明王朝きっての名将で、北の防衛を任された男です。寡黙ですが、人の痛みをよく知る将軍でした。
「閣下。我々にできる事はないんですか?」
「気持ちはわかるが、南の事は、あちらの将兵に任せるしかない。秦良玉殿や、李成梁殿のような信頼できる将軍もいる」
「民衆が反乱軍側に加担したら、どんな名将でも太刀打ちできないのではないでしょうか?」
「……その通り、だからこそ、正しい政治が行われる必要があるのさ」
「北京の政府の政治は果たして正しいでしょうか?オマエらちゃんとやれ~!って喝を入れる必要があるのでは?」
そのやりとりを聞くとなしに聞いていたのは、何可綱。彼は気弱でいつも腹ペコな補給担当です。
「いっその事、政府の役人どもを引っ張り出してきて、この地で最前線に立たせましょうよ。一兵士の苦しみがわかるように。飢えてもらいましょう。」
「まあまあ、そうしたいが無理なもんは無理。肩の力を抜きましょうよ、可綱殿。怒りすぎるとハゲちゃいますよ」
「ハゲるとしたら、栄養不足でですよね…とほほ」
「二人とも、ほどほどに。誰がどこで聞いているかもわからない」
袁崇煥が一つ、咳払い(せきばらい)をしました。
「李自成……あの男は、ただの賊では終わらないかもしれないな」
全員の顔が引き締まりました。
「彼の背後にあるのは、飢えと怒りと絶望です。それを力に変える者が出れば、国は揺らぎます」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
満桂が腕を組み尋ねました。
袁崇煥はゆっくり立ち上がり、厳しい目で答えました。
「我らは国を守る。人を守る。政治に踊らされず、ただひたすら民のために剣を振るうだけだ!」
「……閣下」
「そして何より──生き延びよ。死ねば、戦えぬ」
「かっこいい……」
趙率教が小さく呟きました。
こうして、李自成の名が都に知れ渡ったこの年、明王朝の運命は静かに、しかし確実に崩れ始めていたのでした。




