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守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章③

◯西暦:1606年(明・万暦三十四年)


 「この試験、正直、簡単に受かるとは思っていない。」


 袁崇煥えん・すうかんは、顔をしかめながら言った。その目には、確固たる決意と、ほんの少しの不安が交じっている。彼は20歳。年齢にしては大きな志を持ち、科挙かきょという、みん王朝の官僚になるための難関試験に挑もうとしていた。


 隣でその様子を見守っているのは、彼の弟である袁崇煜えん・すういく。袁崇煜は少しおどけた顔をして、袁崇煥の表情を見つめていた。


 「兄貴、そんなに難しい試験なんだな。俺みたいな無器用な奴には絶対に無理だ。」

 袁崇煜は、気楽な顔をして言った。その目の前に広がる試験の大変さを、どこか楽しげに捉えているようにも見える。


 「兄貴みたいな奴に分かるか?試験というのは、ただ学問を問うものじゃない。もっと深いものがある。」

 袁崇煥は冷静に答えると、目線を前に向けた。

 「科挙は、ただの知識の試験じゃない。試験を受けるためには、まずその制度を理解しなければならない。」


 「制度?」

 袁崇煜は首をかしげる。

 「つまり、どういうことだ?」


 袁崇煥は少し間をおいた後、ゆっくりと言葉を続けた。


 「科挙には、規則や試験の内容が厳密に決められている。受験者は、まずは『四書五経ししょごけい』を完璧に覚えなければならない。」

 「四書五経?」

 「『論語ろんご』『孟子もうし』『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』、これが四書だ。そして五経は、儒教の教えをまとめた書物だ。」

 袁崇煥は冷徹に話す。その言葉の中には、彼自身の覚悟が込められている。


 「なるほど、そんなに難しいのか…」

 袁崇煜は、しばらく考えてから、ふと思いついたように言った。

 「じゃあ、なんで兄貴みたいな奴がそんな試験に挑戦するんだ?」


 袁崇煥は少しだけ目を細めて、袁崇煜を見た。

 「俺は、これを突破しなければ、夢を叶えることはできないからだ。」

 その言葉には、何か強い意志がこもっている。

 「だが、この試験はただの知識を問うだけじゃない。才能や運も関わる。実際に試験の内容は、その年によって変わることもあるからな。」

 「そんなに変わるのか?」

 袁崇煜は驚いたように目を丸くした。

 「つまり、運試しみたいなもんだってことか?」


 「運だけじゃない。」

 袁崇煥は冷たく言った。

 「運とともに、日々の努力と徹底した準備が必要だ。それでも、合格できるとは限らない。」

 「うーん、それはきついな。」

 袁崇煜はおどけて笑った。

 「じゃあ、兄貴はそれを乗り越える自信があるのか?」


 「自信じゃない。決意だ。」

 袁崇煥は毅然と言った。目の奥には確かな覚悟が宿っている。


 「なるほど。兄貴はやっぱりそういう男だな。」

 袁崇煜はくすっと笑う。

 「でも、難しい試験だってことはよく分かった。じゃあ、兄貴の合格をかけて、俺は一緒に戦ってやるよ。」

 「戦う?」

 袁崇煥は少し眉をひそめた。

 「兄貴に何ができるんだ?」


 「俺?俺は、試験の結果を聞きに行く役だ。合格したら、ちゃんと祝ってやるよ。」

 袁崇煜は肩をすくめて、少しドヤ顔をした。

 「兄貴が合格するまで、俺は応援するだけさ。大したことじゃないけどな。」


 「兄貴がいなきゃ、こんなに楽しむこともできない。」

 袁崇煥は少しだけ笑って言った。

 「試験は厳しいが、俺は必ず乗り越えてみせる。」

 その言葉に、袁崇煜は真面目な顔をして頷いた。



◯西暦:1610年(明・万暦三十八年)


 春、都・北京の風はまだ冷たく、灰色の空が石畳を静かに照らしておりました。


 袁崇煥えん・すうかん、24歳。南方は広東かんとん省の出身で、若き秀才として知られております。幼くして経書を読みこなし、郷試きょうしには見事合格。ついに都での会試かいしに挑んだ年でございます。


 しかし、その結果は──不合格でございました。


 「……落ちたのか、兄貴。」


 声をかけたのは、袁崇煥の弟、袁崇煜えん・すういくでございました。彼は袁崇煥の幼少期からの付き合いで、学問にはあまり興味を示さず、むしろ腕っぷしの強さに自信を持つタイプの若者でした。今日も無邪気に笑いながら、袁崇煥の肩を叩いています。


 「……ああ。落ちた。」


 袁崇煥は静かにうなずきました。声に感情はありません。しかし、その奥には、まるで鉄を打つような冷たい怒りが潜んでおります。


 「いやあ、都会の試験はやっぱり難しいんだなぁ。オレだったら一行目で寝るね、間違いなく!」


 「問題は……そこじゃない。」


 袁は壁にもたれ、静かに目を閉じました。思考の深海に沈みこむように、言葉をひねり出します。


 「……歴代の科挙制度、つまりとうそうと比べて、みんの制度は変質している。」


 「ほう……何が違うんだ?」


 袁崇煜は不器用に包子ぱおずを頬張りながら質問を投げかけました。


 「文章の技巧ばかりを重視している。ことわりよりもふみ。学問というより、書道大会の様相を呈している。」


 「つまり……文字のうまいヤツが勝つと?」


 「それだけじゃない。」


 袁の声が鋭くなりました。


 「時の試験官の好みに合わせる必要がある。つまり……相性と、運だ。」


 「相性と運! それ、試験じゃなくて恋愛じゃん!」


 袁崇煜は大きな声で笑いながら言いましたが、その言葉は袁崇煥の胸に響きました。


 「ふざけてる場合じゃない。」


 袁崇煥は肩を震わせて立ち上がりました。


 「学問とは真理を求めるものだ。だが今の制度は、それを歪めている。策問さくもんは定型句の繰り返し、独創も実学もない。ただの『作文』に成り下がっている。」


 「おいおい、怒るのはいいけど、そんなに文句言っていいの?そんな矛盾だらけの試験なのに合格しなきゃなんでしょ?」


 「そうだな。俺にはこころざしがある。しかし、スタートラインが遠いな」


 「爺さんになるまで試験を続ける人もいるんだよね」


 「老而不休ろうじふきゅうといってな、「年をとっても休まない」という意味で、年齢を重ねてもなお執念深く科挙を受け続ける連中も多い」


 「……イヤだよ。兄貴が70代で合格して翌年天寿を全うするとかは」


 袁は小さく笑いました。それでも、笑みの奥には、炎が揺れておりました。


 「そんなに時間をかけていられないな。なぜなら、このままじゃ、国の未来は危ういからだ。

 そんな時に、上に立つ者が、現実を知らぬ詩文家だけでは、国は動かん。」


 「じゃあ、兄貴はどうする? 試験、もう一回? それとも詩人になる?」


 袁は空を見上げました。


 「次も受ける。しかし、それだけじゃ終わらない。学問のための学問には……限界がある。これからは、じつを求める道を模索する。」


 「おお、それってつまり……腹が減らない学問?」


 「……そうだ。餓死しない学問だ。」


 ふたりはしばし沈黙しました。風が、北から吹き抜けました。


 まだ雪解けの冷気をはらんだ風です。




◯ 西暦:1610年(明・万暦三十八年)


 北京の空は、曇り。


 灰色の雲が、街をどんよりと覆っていました。


 袁崇煥えん・すうかん、二十四歳。広東かんとん省東莞とうかん出身の青年です。幼少より聡明そうめいで知られ、郷試きょうしを難なく突破した逸材でした。


 しかし、会試かいしは違いました。あれほど磨いた学問も、紙の上に置いた瞬間、ただの文字にしかなりませんでした。


 その日も彼は、机に向かっておりました。


 筆は止まり、目は虚空を見つめています。


 部屋は静かでした。


 「……意味がないな。」


 彼はぽつりとつぶやきました。


 そこへ、のっそりと入ってきたのは、袁崇煥の弟、袁崇煜えん・すういくでございました。彼は袁崇煥の弟ながら、学問にはあまり興味を示さず、むしろ腕っぷしの強さに自信を持つタイプの若者でした。今日も無邪気に笑いながら、袁崇煥の肩を叩いています。


 「おいおい、どうしたの。試験問題の字が読めなくなる呪いでもかかった?」


 「そうだ。だから道士になって呪いを解いてくれ」


 「兄貴がボケつっこみをするなんて!この世の終わりかい?」


 袁崇煜はキョンシーのマネをしつつ近づいて、袁崇煥の前に腰を下ろしました。


 「勉強はしてるんだろ? それでも足りねえのか?」


 「いや……もう、十分なんだ。」


 袁は筆を置き、手を組みました。


 「科挙に受かるだけの力は、もうある。だが、部屋に閉じこもって文字を書き続けるだけでは……何も変わらない。」


 「なにが変わらないって?」


 「……俺自身が。」


 袁の声は低く、しかし芯が通っておりました。


 「学問は武器だ。だが、その武器が実際の世の中でどう使えるかは、机の上じゃわからない。」


 「つまり……外に出るってことか?」


 「そうだ。放浪する。北も、南も、東も、西も。」


 「うおお、急に侠客きょうかくみたいなこと言い出したぞ!」


 袁崇煜は大げさに立ち上がって腕を振り回しました。


 「北はどこ? 南は? いっそ月まで行こうぜ!」


 「満州まんしゅうだ。北の地で、この国を狙っている異民族の動きを見たい。風はいつも北から吹く。あの寒さの意味を知りたい。」


 「ロマンチックに言ってるけど、寒さはただの寒さだぞ?」


 「南は石柱せきちゅう山。雲南うんなんの秘境。異族と交易する者たちがいる。」


 「おお……それって食い物うまい?」


 「そして、東は日本にほん。」


 「にっぽん!? あそこ、刀を持った人たちがいつも喧嘩してるんじゃないのか?」


 「……だから行きたい。学問の通じぬ地で、何が人を動かしているのか……それを見てみたい。」


 「試験の話は!? 会試はどうするんだ?」


 「次の年に受ける。旅の途中でも、筆は取る。」


 「うわ、かっこいい。詩人かよ。いや詩人か。いや浪人か?」


 袁崇煜は頭を抱えながらも笑っていました。


 袁崇煥はゆっくりと立ち上がりました。


 そして、窓を開けました。


 冷たい風が部屋に流れこみ、紙がふわりと舞いあがります。


 「崇煜すういく。」


 「ん?」


 「一緒に来るか?」


 「……俺、今、饅頭蒸してる。」


 「なら、饅頭と一緒に来い。」


 袁崇煥の顔に、わずかな笑みが浮かびました。


 その笑みには、試験に落ちた男の弱さも、未来をにらむ者の強さも、どちらも宿っておりました。

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