守城の名将:袁崇煥:第4章:寧遠の章⑤
◯1626年 寧遠の奇跡 〜袁崇煥、孤高の決断〜
今からずいぶん昔、中国では**明**という国がありました。冬の空気はキーンと冷たく、北風が顔を刺すように吹く、そんな季節のことです。
そこに突然、ヌルハチという、北の強い民族(女真族)のリーダーが大勢の兵隊を引き連れてやってきました。彼が作った後金という国は、明にとってとても恐ろしい存在だったのです。
その日、ヌルハチはついに明のお城、寧遠を攻めました。大砲が火を噴き、鉄の矢が空を飛び交い、戦場はあっという間に大変なことになりました。
しかし、そこに立ちはだかったのが、袁崇煥という若き明の将軍でした。彼は、みんなと国を守るために命をかける男だったのです。
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「敵が近づいてる!砲兵、準備しろ!」
冷たい風を切り裂いて、怒鳴り声が響きます。袁崇煥は落ち着いた目で前線を見つめ、敵の動きを読んでいました。
「撃て!」
その声と同時に、お城の壁の上から大砲が一斉に火を噴きました。驚いた後金軍は足を止め、そこを明の兵隊が狙いすまして反撃し、押し返します。
ヌルハチはたまらず退却を命じました。
この戦いは、寧遠の戦いと呼ばれています。この日、袁崇煥は見事に、北で一番強い敵を追い返したのです。
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戦いが終わったあとも、袁崇煥の顔は全く緩みませんでした。勝った喜びよりも、「これで本当に終わるのかな?」という不安が心の中に渦巻いていたのです。
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・北京での報告
数日後、袁崇煥は都の北京へ向かい、明の皇帝、天啓帝の前に立ちました。
「ヌルハチの軍を追い返したそうだな。よくやったぞ、袁崇煥」
皇帝の声は喜びに満ちていました。しかし、袁崇煥は軽く頭を下げただけで、表情を変えずにこう答えました。
「陛下、敵は退きました。しかし、ヌルハチが死んだ後、その息子、ホンタイジが跡を継ぐでしょう。彼は父に劣らない猛者、決して油断はなりません」
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袁崇煥は、一通の手紙を皇帝の前に差し出しました。
「これは、徐光啓殿への協力要請です」
徐光啓は、学者であり、天文学者であり、戦争のことや科学にも詳しい、まさに何でもできるすごい人でした。彼の力こそ今必要だと、袁崇煥は考えたのです。
皇帝は少し顔をしかめました。「徐光啓…彼は役人だが、戦いの役に立つのか?」
しかし、袁崇煥の声は、迷いなくはっきりしていました。
「彼しかいない。戦いは武力だけじゃない、知恵も武器になる」
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新たな仲間たち
数日後、厚手の服を着た徐光啓が、袁崇煥のもとを訪ねてきました。
「お招きいただき、光栄です。ヌルハチが倒れたとは聞きましたが…」
徐光啓は穏やかに笑いました。しかし、袁崇煥は一言、静かに言いました。
「戦いは、まだ終わってません」
その目は、燃えるように鋭かったです。
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そこに、顔に傷のある強面の男、祖大寿がやって来ました。彼は袁崇煥の部下です。
「ホンタイジは親の葬儀も放っておいてリベンジ戦ですか? そりゃあ、たまげた。お互い、休む暇もありませんな」
祖大寿は皮肉っぽく言いました。
すると、ものすごい勢いでやってきたのが、**満桂**です。彼はいつもハイテンションで、ちょっと変わった性格です。
「おおおお! 次はどこだ! どこへ攻め込むんだ! 俺の出番だろ! はっはっは!」
満桂は興奮して大声で笑いました。
そんな彼らを、ニコニコしながら見ているのが趙率教です。彼は面白いおじさんとして、みんなから慕われていました。
「ハッハッハ、満桂殿はいつも元気ですな。さて、今日の晩飯は何かな?」
趙率教が冗談を言うと、隅の方でお腹をさすっている男がいました。補給担当の何可綱です。彼はいつも気弱で、お腹を空かせているのです。
「ぐぅ…兵糧も大事ですけど、まずは僕のご飯が…ぐぅ」
何可綱が小さくつぶやきました。
袁崇煥はそんな彼らを一瞥し、静かに言いました。
「ホンタイジが動き出す前に、守りを固める必要がある」
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「……ならば、まず必要なのは火薬と食べ物ですな。砲兵隊を増やすことも」
徐光啓はすぐに理解しました。学者の頭脳が、将軍の決意に応えます。
「見積もりはすぐ出しましょう。ですが、お金のことが心配です」
袁崇煥は静かにうなずきました。
「民を守るためなら、苦しみも覚悟せねばなりますまい」
このとき、袁崇煥と徐光啓、そしてそこに集まった祖大寿、満桂、趙率教、何可綱も、同じ気持ちで一つになったのです。
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雪がまだ降っている北京の空。
しかし、その中で、新しい戦いの始まりが静かに、そして確実に動き出そうとしていました。
袁崇煥と徐光啓、そしてその仲間たち。この男たちが、時代を動かす風となっていくのです。
◯1626年 冬の北京
冬空は、ねずみ色。
重たい雲が、都を静かに覆っていた。
雪は降っていなかったが、空気には確かに氷の匂いが混じっていた。
それは、戦の匂いとも似ている――と、彼は思った。
門が静かに開く。
入ってきたのは、一人の男――袁崇煥である。
彼は明という国の将軍。
北の辺境――遼東の町を守るため、何年も戦ってきた。
つい先日には、かのヌルハチを討ち破ったばかりだ。
ヌルハチは、「後金」という新たな国を興し、明に牙をむいていた王。
彼の軍は強く、残忍で知られていた。
だが、寧遠の城で袁崇煥は奇跡を起こす。
砲と鉄壁の防備で敵を撃退し、ヌルハチに致命傷を負わせたのだ。
――英雄。
北京の町では、誰もがそう呼んだ。
だが、門をくぐる袁崇煥自身に、その誇りはなかった。
「……まだ、終わっておらん」
彼はそう呟いて、ふと足を止めた。
「だっ、だぁ……!」
不意に、家の奥から小さな声。
ぺたぺたと、足音が近づいてくる。
現れたのは、まだよちよち歩きの男の子――袁文弼である。
くりくりと大きな瞳で父を見上げ、手を伸ばしてきた。
「……文弼。大きくなったな」
思わず、袁崇煥の表情がゆるむ。
戦場では決して見せない、父の顔だった。
そこへ、もう一人の姿が現れる。
「おかえりなさいませ、あなた。」
そう言って笑ったのは、妻の黄青桂。
名家の出で、気品と才気を兼ねそなえた女性である。
料理も詩も得意でありながら、「私の武器はお鍋よ!」と笑う豪快さもある。
袁崇煥は、どんな戦よりも、彼女にだけは敵わなかった。
「……戻った。」
その声には疲れがにじんでいた。
だが、微かにやさしさもあった。
「はいはい、まずは手を洗ってちょうだい。
戦帰りの土まみれの手で文弼を抱っこされたら、
洗濯物が大変なことになるんだから!」
「……心得た。」
「それと、もう一つ!
今日はあなたの寧遠勝利を祝って――特製のごはん、用意してありますのよ!」
ふんわりと、台所から立ちのぼる湯気。
鴨の出汁と芋の甘さが、鼻をくすぐる。
「これは……芋団子の鴨スープか。」
「そうよ。お義母さま直伝よ。
勝ったときは、これ――それが我が家の家訓ですもの!」
「……すまん。」
袁崇煥は湯気の向こうで、そっと椀を見つめた。
それは、前線では決して味わえぬ温もり――家の味だった。
「いいことよねえ。北京じゅうが『袁さま、袁さま』って大騒ぎで。
あのヌルハチ(ぬるはち)を倒して、今やあなた、時の人よ?」
「……奴は死んだ。だが、すぐ次が来る。」
「次?」
「ホンタイジだ。ヌルハチの息子で、今や後金の新たな主となった男。
父よりも賢く、父よりも冷静だ。……油断すれば、次は京が燃える。」
そう言ったとき、袁崇煥の眼が鋭く光った。
彼は箸を置き、口を引き結んでつぶやいた。
「戦は……まだ終わっておらぬ。」
黄青桂の笑顔が、すこしだけ揺れた。
だが、すぐに立ち直る。
「……そうね。
でも、戦う前には、まずしっかり食べて、たっぷり寝て――それから考えましょう。」
「……ふっ。」
小さく笑った。
それは、戦場では見せぬ、父としての微笑みだった。
その夜――
北京の邸には、静かな灯りがともりつづけた。
英雄もまた、一人の父であり、夫であった。
だが、彼の心には、すでに次なる戦の鼓動が鳴っていたのである。
◯1626年 石柱の春風
春風が、重たげな雲を押しのけるように、石柱の山々を吹き抜けていた。
ここは四川省の奥地、山地に囲まれた土地である。そこを治めているのが、女丈夫として知られた秦良玉。かつては戦場を駆け抜けた名将であり、今は「石柱宣撫使」という役職に就いて、地元の人々の暮らしを守っている。
その日、五十二歳となった良玉は、屋敷の窓辺に立って遠くの山なみを見つめていた。山々の稜線には、まだかすかに雪が残っている。けれど春の陽気が、静かにそれを溶かし始めていた。
ふと、部屋の戸が勢いよく開いた。
「母上!」
入ってきたのは、良玉のひとり息子、馬祥麟。年は二十七。色白で背が高く、まだ少しあどけなさを残す顔立ちだが、その瞳には芯の強さが宿っていた。
「どうしたのですか、祥麟?」
良玉は振り向いて、穏やかに問いかける。
「母上! 袁崇煥将軍が、寧遠城で後金の軍を撃退したとの知らせが届きました!」
それを聞いた良玉の目が、ふっと細められる。
「そう……ようやく、明の将たちにも、光が見えてきたのですね」
袁崇煥は、明の名将である。遼東を襲う満洲の騎馬軍団――すなわち後金軍に対して、正面から戦いを挑み、いまや国の希望とされていた。その戦勝は、辺境の山奥にいる良玉たちにとっても、大きな意味を持つ。
「もし……叔父上がまだご存命でしたら、さぞお喜びだったでしょうね」
良玉はそう呟いた。
彼女の弟、秦民屏。忠勇無双の将であり、兄妹で幾多の戦をともにしてきた。しかし前年、戦乱の中で命を落としたばかりだった。
祥麟は、その言葉に神妙な顔をした後、急に元気な声を出した。
「母上! 僕も、立派な将軍になります! 袁将軍にも負けませんよ!」
良玉はふっと微笑み、その息子の顔を見つめた。
「ふふ……祥麟。あなたの志は立派です。でも、焦らず、一歩ずつ歩むことが大切ですよ」
「分かってます、母上。でも……ヌルハチは史上最強の将でした。それを倒した袁崇煥将軍は至高の武将です。その袁崇煥殿が叔父上と友人だとは誇らしい!私もその高みを目指したいのです」
「そうですね。でも袁崇煥殿は国の支柱。簡単に追いつくことはできません」
「しかし、母上は叔父上と共に袁崇煥殿とお会いした事があるとか?私邸にも招かれたそうではないですか?袁崇煥殿とはどのような事を話されていましたか?」
「袁崇煥殿は、民屏とばかり話しておられました。お酒が入り気が合ったのでしょう。戚継光様の兵法や軍制について語り合っていたようですね」
「私もその場に居たかった。せめて、かのお方に近づきたいのです。」
彼は拳を握って胸を張った。
良玉は、黙ってしばらく息子を見つめた後、近くの刀架から一振りの剣を手に取り、そっと彼に渡した。
「ならば、まずは剣だけでなく本も手にしなさい。そして、何よりも――心を鍛えることです。そもそも、袁崇煥殿は科挙に合格した進士ですよ。戦に勝つのは、ただ腕力が強い者ではありません。民を思い、正義を貫き、忍耐をもって困難に立ち向かう者こそが、真の勝者となるのです」
祥麟は、しっかりとその剣を受け取り、きりりと顔を引き締めた。
「はい、母上。剣の腕だけでなく、心も鍛えます!」
彼は言葉の通り、その日から毎朝の剣術、学問、兵法の修練を欠かさなくなった。まだ不器用なところもあったが、母・良玉の教えを胸に、まっすぐに、少しずつ将の器を育んでいく。
そして良玉は、静かに彼の背中を見つめながら、心の中でこう願っていた。
(願わくば、祥麟……お前が歩む戦の道が、やがて人々を守る光となりますように)
春の風が、石柱の山を、再び静かに撫でていた。




