守城の名将:袁崇煥:第4章:寧遠の章④
◯1626年 寧遠攻防の終幕
ヌルハチ(ぬるはち)――後金という国を作った人であり、満洲民族をまとめる偉大なリーダーです。その厳しく光る目は、遠く海のかなたを睨んでいました。
「覚華島を落とす!」
そこは、遼東の沖にぽつんと浮かぶ小さな島でした。ですが、明の水軍基地があると知った後金軍は、その攻略を最初の目標にしました。
――そして、だまし討ち(奇襲)は見事に成功します。
島にいた明軍は、準備もできないまま火に包まれ、砦も船もあっという間に灰になりました。
「ふははは、見たか! 明の牙をへし折ったぞ!」
ホンタイジが叫びます。彼はヌルハチの八男で、落ち着いていて賢い将軍として知られていましたが、この時ばかりは興奮を隠しませんでした。
「兄上、これで寧遠も私たちの手に落ちるでしょう。」
隣で槍を掲げたのは、ダイシャン。ヌルハチの次男で、大胆な将軍です。さらに、明るい声で応じたのは三男のマングルタイ。
「次は俺に任せてくれ、父上!」
兵士たちはどっと笑い、戦う気持ち(士気)は空をも突き破るほどでした。
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・紅夷大砲の威力
ですが――戦いは、そう簡単には終わりませんでした。
寧遠。それは遼東の守りの線において、最も重要な砦の一つでした。そこを守るのは、明軍の火砲の将軍――袁崇煥です。
「敵は来るぞ。訓練を怠るな。」
彼は西洋から取り入れた巨大な大砲――紅夷大砲を城壁にずらりと並べ、兵士たちに毎日、大砲の配備をさせていました。
そして、風が唸り、雪が舞うある日――後金軍がついに城の近くに現れます。
「突撃だあぁっ!!」
ダイシャンの怒鳴り声(怒声)が響きます。先頭に立つのは、馬に乗ったマングルタイ。彼の馬が蹄を鳴らし、雪の平野を駆け抜けた、そのとき――
――ズドォォン!!!
地面が割れるような大きな音が空気を裂きました。
それは紅夷大砲。放たれた砲弾が後金軍の突撃隊に直撃します。人も馬も吹き飛び、戦いの列は大きく乱れました。
「……これほどの火力の大砲をこれだけ正確に命中させるだと……!?」
ヌルハチ(ぬるはち)が顔をゆがめます。ですが、ベテランの将軍はひるみません。
「進め! 進めぇい!! 奴らの砲弾は残りわずか!満洲の勇気を見せるのだ!!」
その声に合わせ、兵士たちは再び城に向けて走り出しました。ですが――明軍の大砲攻撃はとても激しく、正確でした。砲弾はまるで獣のように吠え、後金軍を容赦なく吹き飛ばしていきます。
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・ヌルハチの撤退
そして、そのとき――
ヌルハチ自身が砲弾の破片を受け、馬から崩れ落ちました。
「父上!!」
ホンタイジ(ほんたいじ)が駆け寄り、父の体を支えます。雪の上に滴るのは、誰の血とも知れぬ赤。
「……このままでは、兵も将も持たぬ。」
ヌルハチは苦しげに言葉を絞り出しました。
「……撤退する。」
一瞬、誰もが自分の耳を疑いました。ダイシャンが顔をしかめ、マングルタイは唇を噛みました。ですが、誰も反対できませんでした。
彼らも分かっていたのです。これ以上進めば、ただ無駄に死ぬことになることを。
「これは敗北ではない……次に勝つための、退きだ。」
その夜、後金軍は静かにキャンプ地(野営地)を片付け、盛京へと引き揚げ(撤収)を始めました。
ヌルハチにとって、人生で初めての、そして唯一の敗北でした。
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・袁崇煥の読み
一方、寧遠の城壁に立ち、敵の退却を見送った男。
「逃げたな。」
それは――袁崇煥です。
その背に控えるのは、配下の将軍――祖大寿、満桂、趙率教、そして何可綱。
「これは大勝利ですな! やったー!」
「いいえ、違います。」
袁崇煥は静かに首を振りました。
「奴は……また来る。」
その声は、真冬の風よりも冷たく、城の石壁よりも重かったのです――。
◯1626年
満洲の広大な大地を背に、ヌルハチ(ぬるはち)は静かに温泉の湯気に包まれていました。かつては「女真」族を束ねる偉大なリーダーとして、強風のように勢いよく進軍した男です。しかし今、彼の体はたくさんの戦いでできた傷に苦しみ、疲れと痛みによろめいていました。
温泉の湯は、冬の冷え切った肌を優しく包み込み、あたりには湯けむりが立ちのぼります。部屋の障子から差し込む薄明かりが、揺れる湯気に踊るように映し出されます。静かさ(静寂)が支配するこの空間で、ヌルハチ(ぬるはち)の瞳は遠く、まだ見ぬ未来をじっと見据えていました。
「これが、俺の運命か……」 低くつぶやくその声は、どこか諦めにも似た悲しみを帯びていました。
そばには、細やかに気遣う侍女が控えています。やわらかな白い肌と澄んだ瞳で、彼の苦しそうな顔を見つめていました。 「大汗、どうか無理なさらずに……」 その声には優しさと不安が混じっていました。
ですが、ヌルハチ(ぬるはち)は静かに首を振り、かすかな笑みを浮かべます。 「心配いらない。もうすぐ、きっと良くなる。」 言葉とは裏腹に、彼の体は日に日に弱くなり、力を失っていきました。
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・ヌルハチの死と遺言
数か月後、冷たい冬の風が吹きすさぶ瀋陽の城壁の奥で、ヌルハチはゆっくりと目を閉じました。 長い戦いの日々を終え、彼の息は静かに消えていきました。
その知らせが広まると、女真族の仲間たちは言葉を失いました。彼らの胸には深い悲しみ(喪失感)が広がり、しばらく静かになりました。
「これで、我らの大汗も終わりか……」 重い空気の中、忠実な家臣たちはつぶやき、別れを受け入れました。
ヌルハチは後継者を指名せず、諸王の合議で決める伝統がありました。長男や次男が候補から外れる中、ホンタイジは四大ベイレとして軍事・政治で実績を上げ、多くの支持を集めました。
特に、有力な兄ダイシャンの支持が決め手となり、彼が次のハン(君主)となる合意が形成されました。さらに、ホンタイジの生母がヌルハチの正妃という高い身分であったことも、彼の地位を後押しした一因と考えられています。これらの複合的な要因により、ホンタイジはヌルハチの後を継ぐことができました。
「必ず、あの袁崇煥を倒せ。」
父からの遺言には、激しい怒りと燃えるような決意が込められていました。
ホンタイジ(ほんたいじ)は深くうなずき、拳を握りしめます。 「お任せください、父上。」
彼は新しい大汗としての重い責任を胸に刻み、父の願い(遺志)を受け継ぐために、戦い(いくさ)を始める決意を固めました。
これから彼が歩む道は、父が築いた土地を守り、明軍との激しい戦いに挑む厳しいものでした。しかし、燃え盛る戦う気持ちがホンタイジ(ほんたいじ)の背中を押していました。
◯1626年 寧遠の守将、次の一手へ
袁崇煥は、戦いの終わりを告げる使者の声を聞いたとき、ようやく背筋の力を抜きました。張り詰めていた心が、ふっと緩む――ですが、それでも彼のまなざしには、鋭い光が残っていました。
「269の首か……」
戦場に散った命は数字に変わり、冷たい戦果として記録されました。ですがそれは、ただの数字ではありませんでした。遼東を守るため、寧遠という最前線の城を死守した結果でした。これらの戦果はすぐさま北京へ送られ、民の士気を鼓舞する象徴となりました。
このときの敵は、満洲を拠点とする女真族の強大な軍勢でした。リーダーはヌルハチ。かつて明の都・北京を目指して突き進んでいた、野望に満ちた王でした。
しかし――。
戦いの激しさは、ヌルハチの体に深い傷を残していました。彼は戦いの傷を癒やすため、満洲の温泉へと向かいました。温かい湯に浸かり、ゆっくりと体を休めようとしたのです。
けれども、傷の深さは想像以上でした。温泉に身を沈めても、痛みは引かず、体力は日に日に落ちていきました。やがてヌルハチは静かに息を引き取りました。その知らせは、満洲の部族に大きな衝撃を与えました。野望の王は、熱い戦火の中で力尽きたのです。
ヌルハチの死は、満洲の族長たちに新しい時代の始まりを告げていました。息子のホンタイジが後を継ぎ、より一層強力な勢力を築こうとしていたのです。
やがて都から使者が現れました。輿に乗ってやってきたその高官が、口にしたのは天啓帝からの言葉でした。
「お前の勝利は、我が国にとっても誇りである」
その言葉とともに、袁崇煥は右僉都御史という高い官職に昇進しました。この官位は名誉であると同時に、国を背負う者としての責任も意味していました。
ですが――。
「まだだ。まだ終わっちゃいない」
そうつぶやきながら、袁崇煥は地図を広げました。満洲の大軍は一時退きましたが、また戻ってくることは明らかでした。彼らの野望は消えていません。しかも今度は、ホンタイジのほかにも、ヌルハチの兄・ダイシャンや、親族のマングルタイらが連携し、さらに強力な布陣を整えてくるでしょう。
「失った土地を、ひとつずつ取り返す」
そう心に決めた袁崇煥は、次に守りの要となる錦州の強化に取りかかりました。錦州は寧遠の北西に位置し、遼西一帯を守る最前線となる場所です。
彼は職人たちを集め、城を築く準備を始めました。木材や石材をかき集め、周りには深いお堀を巡らせました。守りの戦いの鍵を握るこの都市は、まるで大きな盾のように変わっていきました。
そして、また一通の命令が届きました。
「天子の詔である。建設を助けるため、4万の援軍を与える」
これは天啓帝からの直接命令でした。都から送られてきた4万の兵は、ひとり残らず袁崇煥のもとに集結しました。
袁崇煥のもとには、個性豊かな仲間たちが集まっていました。
「へっ、4万か。どうせまた、ろくな訓練もしてねえ連中ばっかりだろ。ま、俺たちがなんとかしてやるしかないか?」
そうニヤリと笑ったのは、皮肉屋の祖大寿でした。
「うおおお!これで敵を木っ端微塵にできますね!早く戦わせてくださいよ、もうウズウズしてきちゃいました!」
と、ハイテンションで叫んだのは、破天荒な満桂。
「おや、兵が増えるのはいいが、飯は足りるのかねぇ?わしは腹が減ると力が出んからなぁ、ガハハ!」
と、冗談交じりに笑うのは、面白いおじさんこと趙率教。
その隣で、いつも腹ペコな補給担当の何可綱は、不安そうに顔を青くしていました。
「えっと……食料の確保が……その……また大変なことに……」
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「これでいい。これで戦える」
彼の顔に、初めて微笑が浮かびました。ですがそれは、気の抜けた安堵の笑みではありませんでした。前を向く者だけが持つ、強い決意の証でした。
「次は――錦州だ」
背後には、戦いで鍛え上げられた兵たちが、命令の言葉を待っていました。彼らの鎧が朝日に照らされ、ぎらりと光ります。まるで、次なる嵐を迎え撃つ覚悟を示すように。
袁崇煥は、その背に数えきれないほどの命と希望を背負いながら、再び戦いの道へと歩み出したのでした。




