守城の名将:袁崇煥:第4章:寧遠の章①
◯1625年
風が鳴っていました。
遼西の野をわたる冬の風は、骨にまでしみ込むような冷たさでした。
「……まただな。権力争いの臭いがする。」
ぽつりと呟いた男の名は、袁崇煥。南方の広東出身。科挙に合格した頭の良い人でありながら、文ではなく武に生きる道を選んだ珍しい男です。冷たいようでいて、心には熱さを秘めています。戦場での判断はとても正確で、最前線の兵にも恐れられ、そして慕われていました。
その袁崇煥が眉間にしわを寄せていました。目の前で、うろうろと部屋を行ったり来たりしている男が一人。
「はあぁぁ……やってらんないよねぇ……」
ぐずぐずと泣きそうな顔をしていたのは、宦官の高第です。もとは皇帝の身の回りを世話する役職でしたが、なぜかいま、軍事の中心にまで口を出しています。位はありますが、度胸はありません。目の前の風が怖いと叫ぶような、そんな男でした。
「だ、だからさあ……遼西は諦めて、山海関に兵を集めようよ。ほら、安全第一って言うじゃないですか?」
「安全第一、そのような場所はここにはありません……。」
袁崇煥は目を閉じました。低く、静かに言葉を吐きました。
「山海関は確かに大切な関所です。だが、それだけで国は守れません。寧遠、錦州、右屯――この三つを手放せば、後は坂を転がるように崩れていくでしょう。良い将を選び防衛に努めれば問題ありません」
「えええ!? でも、後金の連中、めちゃくちゃ強いんだよ!? でっかい馬に乗って、弓をバンバン撃ってくるし!」
「だから戦うのです。臆病風に吹かれては国は守れません」
袁崇煥はひと睨みしました。口調は変えず、ただ冷たいものでした。
「敵が強ければ、こちらはもっと強くなるだけです。……進むことはあっても、退くことは戦の作戦にないのですから。」
「で、でもさあ~!」
「守将を拝命している私はここで死にます。撤退はしません」
「ええええ~!」
そこへひょっこり顔を出したのが、趙率教でした。関中の出身で、元は地方の武官でしたが、その度胸と知恵を買われて袁崇煥に引き立てられました。彼は陽気でよく喋る面白いおじさんで、兵の間でも人気があります。
「おっと、おっと。お偉い方々でお話中でしたか~?」
「お前、いつからそこにいた?」
「さっき、お餅を食べてたら耳に入ってきまして。で、高様がまた泣いてるんで、ちょっくら来ましたわけです。」
「泣いてなど……!」
「泣いてるじゃないですか!」
「ううう……だって、だってぇ……」
趙率教は大袈裟に肩をすくめました。
「ほらほら、袁殿。高様をいじめちゃいけませんよ。彼、繊細なんですから。見てくださいよ、この震えるまつげ! 感情の繊細さは、もはや詩人ですよ!」
「感情の繊細さはここでは役に立たん。」
袁崇煥は立ち上がり、地図の上に指を置きました。
「俺は寧遠に残る。ここには、訓練を積んだ兵がいる。大砲も置いた。ここを捨ててまで山海関に下がる理由はない。」
その言葉に、趙率教は目を見開きました。
「やっぱり、閣下ァ~! 俺、そういうとこ、惚れちゃいます!」
「やかましい。次の作戦会議までには準備を終わらせてくれ」
「もちろんですとも! いつだって真面目ですよ、私は!」
高第はまだぶつぶつ言っていたものの、袁崇煥は聞く耳を持っていませんでした。
外は、雪が降る気配がありました。
ですが、袁崇煥の眼差しは変わらず燃えていました。
それは、ただ戦うだけの者では持てない、真の「将軍」の眼差しでした。
◯1626年
冷たい風が、寧遠の城壁を揺らしていました。雪が舞い、空は暗く、戦の気配が立ち込めています。
「これが最後の決断か……。」
袁崇煥は、重い表情を浮かべながら地図を見つめていました。寧遠は、遼西を守る大切な場所です。敵が迫り、外からも中からも圧力がかかる中、どうしても退くべきなのでしょうか?
ですが、彼は迷いませんでした。冷たい眼差しで、自分の運命を決めようとしていました。
「やはり、ヤツは逃げようとしているのか?我らにまで撤退しろとはな。」
袁崇煥は、隣で立ち尽くしている何可綱を見ました。何可綱は、これまで何度も袁崇煥に仕えてきた忠実な部下です。真面目で冷静ですが、やや優柔不断なところもあります。それに、気弱でいつも腹ペコな補給担当です。しかし、そんな彼も、この危機的な状況では迷いのない顔をしていました。
「殿、撤退しろというのは、高第です。奴はただの宦官です。戦を知らない……ぐぅ……。」
何可綱は、お腹を鳴らしながら言いました。
「知っている。それでも、あいつが何を言おうと、俺は撤退しない。」
袁崇煥の声は冷たく響きました。まるで鉄のように硬い決意を秘めているようでした。
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その時、門の外から、ゆっくりと歩み寄る足音が聞こえました。袁崇煥はその方向を見て、眉をひそめました。
「高第か……。」
高第。宦官でありながら、宮中での政治的な力を持つ男です。しかし、戦のことがわからない彼が戦の状況に口を出すことが、袁崇煥には許せませんでした。
「おお、これは驚いた。袁崇煥殿は、未だに立てこもっているのか?」
高第の声は、軽くて威厳がありませんでした。見た目は偉そうにしていますが、その目はどこか怯えているように見えます。
「高第、アナタの言う通りにはならん。俺は撤退しない。」
高第は、何度も手を振ってみせました。まるで、気に入らない状況を無視しようとするかのように。
「お前、まだそんなことを言っているのか? 広寧を失った今、関外(万里の長城の外側)を守ることはできない。兵を関内に戻すのが一番だ。」
「……だから言ったでしょう。撤退は兵法にない。」
袁崇煥は短く答え、顔を高第から外しました。ふっと深いため息をつき、また地図に目を落としました。
「俺は守将(守りの将軍)として、寧遠を守る。それが俺の命だ。撤退すれば、すべてが崩れる。」
「しかし……。」
「撤退するのは、裏切り者だ。」
静かな怒りが、袁崇煥の言葉に込められていました。何可綱はその言葉を聞いて、目を細めました。
「殿、あまり無理をなさると……お、お腹が空いて倒れてしまいます……。」
「無理ではない、これは義だ。」
袁崇煥は立ち上がり、窓の外を見ました。雪がさらに強くなってきています。ですが、その冷たい目には、迷いがありませんでした。
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高第は、袁崇煥の決意を見て、しばらく黙っていました。その後、一つ大きなため息をついてから、重い口を開きました。
「そうか……ならば、あとはお前の責任だな。」
「理解している。私の責任だ。」
袁崇煥はただ一言答えると、再び静かな決意を顔に浮かべました。
高第は、そのまま部屋を出て行こうとしました。ですが、廊下で立ち止まり、振り返りました。
「どうせ、この戦は無理だと俺は思うがな。お前がどうするか、見物だよ。」
高第の言葉は皮肉に満ちていました。ですが、袁崇煥はその言葉に一切耳を貸しませんでした。
「……早く逃げるがよろしかろう。」
冷徹な一言でした。
その背中を見送った後、何可綱がもう一度、静かに口を開きました。
「殿、本当に大丈夫ですか? お腹が空いて倒れないでくださいね……ぐぅ……。」
「大丈夫だ。俺は、ここで死ぬ覚悟だ。」
袁崇煥の顔には、揺るぎない決意が宿っていました。それは、軍を率いる者としての誇りと、守るべきものを守るための強さだったのです。
そして、彼の手が軽く拳を握りました。
戦の前に、すべてを決めたのでした。
◯1626年
・寧遠の戦い前夜
寒風が吹き荒れる寧遠の城壁。その中で、一人の男が立っていました。
袁崇煥。彼はただの兵士ではありません。時には冷たい指揮官、時には情熱の塊のような男でした。目の前に迫る後金軍の脅威を前に、彼の心には迷いがありませんでした。
「一万の兵で守り切れるだろうか?俺が守るのは、この城と、ここに住む人々だ。」
冷たい空気の中、袁崇煥は一枚の布に手書きで血書をしたためました。そこに記したのは、彼自身の決意です。城壁を守る――命をかけて。
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・農民兵とスパイ
その時、後ろから小さな足音が聞こえました。
「将軍、何をしておられるんですか?」
満桂がやってきました。満桂は、袁崇煥の側近で、重い責任を担う兵士であり、また腕の良い戦術家です。ハイテンションで破天荒な性格で、ちょっとしたことで笑ってしまう癖があります。
「見ろ、これだ。」
袁崇煥は血書を満桂に差し出しました。満桂はそれを見て眉をひそめました。
「血書ですか……ちょっと怖いですね、殿。それにしても、どうして農民を巻き込むんです?」
「それが戦術だ。俺が後金軍ならば、農民の中に密偵や工作員を紛れ込ませる。」
満桂はうなずきながらも、少し表情を引き締めました。
「なるほど。後金軍は悪辣ですからね。でも、農民たちを敵に回すのはマズいですよ」
「彼らもこのままだと殺される。運が良くても北に連行される。死ぬよりは協力する道を選ぶさ。」
袁崇煥の言葉には揺るぎがありませんでした。そして、農民を兵として動員する決断を下します。
「農家を焼き払い、後金軍に使わせないようにしろ。兵士として鍛え上げ、守るんだ。」
その夜、農民たちが集められ、訓練が始まりました。彼らの目には恐怖が浮かんでいましたが、袁崇煥の指導の下、少しずつ戦の準備が整っていきました。
ですが、訓練の合間にも、袁崇煥はスパイの捜索を怠りませんでした。敵の影は常に身近に潜んでいます。彼の眼差しは鋭く、誰一人として隠れた者を逃すことはありませんでした。
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「軍民共に戦わせる……面倒だが、これも戦の一部だ。」
祖大寿が横から話しかけてきました。皮肉屋のベテラン将軍です。
「殿、それにしても、スパイ探しも大変ですね。しかし、後金軍の猛攻にどう対抗するのでしょうか?」
祖大寿は心配そうに尋ねました。
「援軍が来ると言い続けている。諦めるわけにはいかない。」
袁崇煥の言葉は冷徹で、ですがその背後には確かな信念がありました。
後金軍が押し寄せるその時、袁崇煥は驚くべき手段を取っていました。それは、家臣たちの反対を押し切ってポルトガルから最新式の大砲、「紅夷砲」を取り寄せ、城に設置することです。ポルトガルから取り寄せたこの大砲は、後金軍には未知の力を持つものであり、その威力は計り知れませんでした。
「これで、後金軍も一味違うだろう。」
祖大寿がにやりと笑いながら言いました。
「だが、楽になったと思っても油断はするなよ。後金軍は強敵だ。」
その言葉に、みんなが黙りました。ですが、袁崇煥の冷たい目には、一歩も引かない強い意志が宿っていました。
戦が始まると、後金軍の攻撃はすさまじいでだろう。しかし、明軍の徹底的な抵抗が後金軍を圧倒すると確信している。何度も何度も、後金軍は立ち向かいますが、次第にその数を減らしていく。
そして、ついに後金軍は退却しない。戦場にはたくさんの死体が散らばり、血の海となる。そんな光景が袁崇煥の思考で展開される。
「俺の脳内では勝った。しかし、戦とは予想を裏切るものだから始末が悪い。」
しかし、袁崇煥はその場に立ち尽くしていました。目の前に静かに広がる光景を、ただ黙って見守ります。
「しかし、戦はまだ始まっていない。俺たちが守らなければ、誰が守る?」
彼はまた、彼の未来に待ち受ける闇を見つめていました。




