守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章⑧
〇1625年・遼東
――北国の、凍てついた空に火花が散りました。
寧遠――それは明の最前線にある、命を懸けた砦です。
石で築かれた高い城壁の上を、冷たい風が吹き抜けていきます。まるで刀のような風です。兵士たちの顔に突き刺さり、皮膚を裂くかのようでした。
ここに生きる者は、生きるために闘います。
そして、死にゆく者もまた、祖国のために戦うのです。
その寧遠を預かる将軍の名は、袁崇煥。
南方の広東出身で、もとは文官でした。若くして科挙に合格し、朝廷の役人として名を上げた男です。
しかし今は――鉄の鎧に身を包む、戦の人。
兵たちは、彼を「鉄血の守将」と呼びました。
その日、崇煥は城壁の上で、風に吹かれながら大砲の砲身を見つめていました。まるで獣のように黒光りする砲――。
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・新しい武器と迫る敵
「……いけるか?」
呟いた声に、すぐさま応えたのは、がっしりした大男でした。
祖大寿。この寧遠を共に守る副将で、明軍きっての猛将です。
「はっ! もちろんですとも! この紅毛の大砲で、後金どもを吹き飛ばしてやりましょう! しかし、こんな化け物、本当に使いこなせるんですかねぇ?」
紅毛とは、オランダのこと。遠く西洋から手に入れたこの大砲は、当時の最先端兵器でした。
「この鉄の獣で、奴らの牙を砕いてやりますぜ!」
「……獣じゃない。これは、道具だ。」
崇煥は小さく答えました。その目は、遥か北の空を睨んでいました。
そこには――後金の皇帝、ヌルハチがいます。
満洲に勢力を広げる騎馬民族・女真族。そのリーダーが、ヌルハチでした。明に反旗を翻し、数々の城を落としてきた強い敵です。
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・思いがけない知らせ
「将軍、徹夜はまずいっスよ! また寝てないんでしょ!」
声をかけたのは、副官の**趙率教**です。まだ若く、明るい性格で、兵たちの間でも人気者ですが、面白いおじさんでもあります。
「……静かにしてろ。」
「ひえっ、ごめんなさーい! あっ、じゃあせめてこれをどうぞ!」
彼は懐から、干し柿を取り出しました。
「北京から届いたばかりのヤツです! 甘くて、うまいですよ!」
その時でした。
風に乗って、紙がひらりと舞いました。
「将軍、手紙が届きましたっ!」
駆け寄ってきたのは、内政を担当する文官の何可綱です。気弱でいつも腹ペコな補給担当で、細身でいかにも真面目そうな顔でしたが、今は何かに動揺しています。
「誰からだ。」
「そ、それが……奥様からです。で……でして、その……私も、奥様も。お、お腹が……ぐぅ……。」
何可綱は不安そうにお腹をさすります。
「……もったいぶるな。何があった。」
「ご子息が……お生まれになりましたっ!」
その瞬間――。
「やったァァァァーーーっっ!!!」
祖大寿が叫び、砲声のごとき声が天に響きました。
「男だぞォォ!! 将軍に、男の子が産まれたァ!!」
「うおおおおおおおお!!」
城壁の上にいた兵士たちが一斉に叫び、旗を振り、槍を天に突き上げます。まるで祭のような騒ぎです。
ですが、その真ん中にいるはずの男――崇煥だけが、黙っていました。
「……将軍? 泣いてんスか?」
趙率教が、恐る恐る覗き込みました。
「名を……決めねばな。」
「おっ、いよいよ命名っすね!」
「よーし、俺なら袁・爆裂とか、袁・火龍とか……」
「黙れ。」
「ひえぇ……。」
崇煥は、手紙をそっと握りしめ、空を見上げました。
凍てつく風の中、白い雲の向こうには、黒い軍勢が潜んでいます。
その中で、彼はぽつりと呟きました。
「文をもって世を正し、民の助けとなる子に……。」
そして、こう名付けました。
「――袁文弼。」
その声は小さかったですが、誰よりも確かに響きました。
砲声よりも、風のうなりよりも、まっすぐに、城の空へ刻まれたのです。
「いい名だなァ……いやァ、爆裂じゃなくてほんと良かったァ……」
「おい、お前。」
「へっ?」
「火龍という名前は、悪くはなかったぞ。お前が改名したらどうだ」
「そ、それはヤバいっス! 冗談ですってば、ほんと!」
「俺は冗談を言ってない。」
「ひええええっ!」
兵たちの笑い声が雪空に混じりながら――。
崇煥は、再び手紙を見つめました。
その中には、妻の優しい筆跡と、子の誕生を知らせる言葉がありました。
遠く離れた北京の空の下で、産声を上げた赤子の声が、たしかに、彼の胸に届いていました。
その音は、砲声にも負けませんでした。
それは、父となった男の、戦いの始まりでもあったのです。
◯1625年 寧遠の戦い前夜
北の地――遼東。
かつて、明の誇る盾であったその地は、今や火に包まれ、血に濡れていました。
瀋陽を奪われ、旅順を落とされ、老いた帝国は後金の黒い波に呑まれつつあります。
後金――それは、満洲に生まれた女真族の国家です。その皇帝・ヌルハチ(ぬるはち)は、八旗という軍の制度で色々な部族をまとめあげ、あっという間に北方のリーダーとなりました。
その強さに従い、戦場を駆け巡るのは―― 長男ダイシャン、次男ホンタイジ、勇将マングルタイたちです。
そして、彼らが次に狙うのは――明軍最後の砦、寧遠でした。
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最後の牙
「……来るぞ。奴らは、必ずここへ。」
低く、鋼のような声が響きます。
軍議の場に立つ男は、袁崇煥。 かつて科挙に合格した頭の良い人です。 ですが今は筆を剣に持ち替え、炎の前線を守る将としてここにいます。
きりっとした顔立ち。夜のように黒い服。 その目には、常に静かな闘志が燃えていました。
「寧遠は砦じゃない。ここは、“最後の牙”だ。――奴らを、ここで喰いちぎる。」
どん!
「おお〜、勇ましいお言葉ですな! しかし、満州騎兵は素早いですぞ。この大砲で噛み砕けるんですかね?」
大げさな拍手をしたのは、祖大寿です。 寧遠副将で、皮肉屋のベテラン将軍です。
「もうすぐ来るんでしょ? どんな奴らねんですかねぇ?」
元気よく身を乗り出したのは、趙率教。 若手士官で、面白いおじさんです。おしゃべりですが、頭の回転は抜群で、軍のムードメーカーでもあります。
「ふむふむ……砲弾と食料の残数を。しっかりメモしておかないと……ぐぅ……腹減ったなぁ」
そそくさとメモ帳を出したのは、何可綱です。 軍の記録官で、気弱でいつもお腹が空いている補給担当です。几帳面でまじめな好青年でもあります。
崇煥は、木札を地図の上に並べながら、一つずつ告げていきます。
「まず――ヌルハチ(ぬるはち)。」
地図の北、一番大きな札が置かれました。
「奴は、戦の中で生き延びた“獣”だ。年はとっても、いまだ猛き牙を隠さない。」
「け、獣!? オレたち食われるっスか!?」
趙がびくびくするのを無視して、崇煥は次の札を置きます。
「ダイシャン。ヌルハチの次男。落ち着いていて、軍を動かすのが上手い。戦場で奴の姿を見たら、囲まれると思え。」
「うへっ、それヤバいっスね! 囲碁みたいだ!」
「ホンタイジ。」
この名を告げたとき、崇煥の手が止まりました。
「……おそろしく、賢い。作戦と兵を同時に動かすことができる。やつが率いる戦場は……もはや死だ。」
「詩!? ロマンチストっスか?」
「いや、“死”だ。」
「ひえええっ!」
「マングルタイ。腕っぷしが強いだけじゃない。鋭い目で隙を読む。一瞬の油断で、心臓を撃ち抜かれる。」
「どいつもこいつも、化け物じみてていやですな!」
祖大寿が、上を見上げて、ぼやきます。
ですが、崇煥の目は動きません。
その視線は、地図の奥――敵の進路を真っ直ぐ見つめています。
「奴らの強みは、連携(協力すること)だ。馬は速い。弓は深く射る。だが――決定的に、欠けているものがある。」
「け、欠けてるって……な、なんですか? お、お腹が空いてて頭が回りません……ぐぅ……」
プルプル震えながら、何可綱が問いました。
崇煥は、静かに、指を一本上に向けました。
「“壁”だ。」
「へ?」
「攻めて壊すことはできても、守るのは苦手だ。だから、こっちは“動かずに勝つ”。――この砦を、“壁”に変えるんだ。」
しん――と、場が静まり返りました。
焚き火の薪が、ぱち、と音を立てて弾けます。
「で、ですが、そんな理屈で勝てるんですか? 向こうは百戦錬磨ですよ?」
祖大寿が、ぽつりと問いました。
崇煥は、まっすぐ答えました。低く、熱く。
「勝てるか、じゃない。――勝つしか、ないだろうな。ヤツらを、火竜の生贄とする。」
その言葉に、趙率教が、ぐっと拳を握ります。
「だったら、やるしかないですな!」
祖大寿が、どん! と胸を叩きました。
「せいぜい慢心してくるがいい! サルフの戦いをひっくり返してやる!」
「あいつらは機動力で勝った。我らは動かざる事で勝つ!」
「敵の速きこと疾風のごとし。我らの動かざる事、城のごとし。侵略するやつ、火の餌食。敵の死して静かなる事、林のごとし!」
その場に、わずかな笑い声が広がります。
けれど、崇煥の視線は、ひたすらに冷たく北を射抜いていました。
風が吹きます。雪がちらつきます。
すべての静寂の中で――
彼の目だけが、もう“戦場”を見ていました。
◯1625年 北京・袁家の邸にて
夜更け。
窓の外では、細かい雪が静かに降っていた。
灯りの落ちた寝間で、ひとつ、赤子の産声が止む。
揺り籠の中で、産まれてまだ十日もたたぬ赤子が、小さな寝息を立てていた。
袁夫人は、その傍らに腰を下ろしていた。
まだ血の気の戻らぬ指先で、ゆるやかに、赤子の頬をなでる。
「……父様は、遠い北の地におられます」
誰に語るでもなく、そっとつぶやく声があった。
「寧遠……。地図では、ちいさく描かれておりました。けれど、そこには……国が懸かっているのですね」
夫――**袁崇煥**は、軍を率いて寧遠へ向かった。
遼東の最前線。今や、明の盾となるべき最後の砦である。
敵は、後金。
女真のヌルハチ(ぬるはち)率いる八旗軍。
その勢いは、山をも崩すと言われるほど。
瀋陽、旅順、撫順……。
あらゆる要地が、次々と落ちていった。
「……どうか、あなたは、無事でいてくださいませ」
袁夫人は、胸元をぎゅっと抱きしめた。
そこには、夫から送られた文があった。
『兵に動揺あり。だが、退くことなし』
『敵の足は速く、矢は深い。だが、我が心は壁となる』
それは、兵法でもなければ、軍令でもない。
一人の夫が、一人の妻にあてた、静かな誓いの言葉だった。
「私が怖いのは……あなたが、あなたらしさを捨ててしまうこと」
袁夫人は、そっと視線を赤子に落とした。
「あなたのまなざしは、戦場を見据えていました。でも私は、あの冬の日に見た、あたたかな目を忘れません」
赤子が、きゅうと小さく指を握った。
「……きっと、あなたに似ております。いつか、そう呼ぶ日が来るでしょう。『父様』と」
雪は降り続けている。
遠い北の地、寧遠では、いまにも戦の火蓋が切られようとしていた。
けれど――ここ北京には、ひとつの命が、あたたかく灯っていた。
そして母はただ、祈っていた。
国のために、家族のために、命をかける人の帰りを。
その人が、いつかこの子を抱いてくれる、その日を――。




