守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章⑦
◯1624年(天啓四年)
・寧遠の雪、裏切りの夜
冬の遼東は、骨まで凍えるほど冷たい場所でした。北風が軍営の壁を激しく叩きつけ、真っ白な雪が静かな夜の闇にカサカサと音を立てていました。
そんな夜、寧遠城で、まさかの裏切りが起きたのです。
「殿! 大変です! 徐璉が……!」
雪を踏みしめて駆け込んできたのは、若い斥候兵でした。顔は真っ青で、目は大きく見開かれています。まるで雪よりも白い顔です。
「誰がだ?」
寧遠城の総指揮官、袁崇煥は、書類からゆっくりと顔を上げました。彼の瞳はまるで氷のように冷たく光っています。
袁崇煥は、かつて遼陽を奪われた明の軍を立て直し、北の守りを任された、頼れる指揮官です。
「徐璉が……自分の部下を率いて、衙門(役所のこと)を包囲している、と。」
斥候兵は喉を鳴らして答えました。
袁崇煥は静かに立ち上がり、腰に差した剣に手をかけました。表情は変わらず、怒りも驚きもありません。ただその動きは、獲物を狙う猛禽類のように静かで鋭いものでした。
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・将軍たちの反応
その時、雪を蹴って駆け込んできたのは――
「おい、崇煥どの! 冗談だろ! あれ、訓練かなんかか!?」
趙率教が大声で騒がしくやってきました。趙率教は背が低く、面白いおじさんですが、戦場での判断力は素晴らしいものです。
「冗談で兵を動かすバカがいたら、会ってみたいものだな。」
袁崇煥は低い声で言い、目線だけで趙率教の騒ぎをぴたりと止めました。
続いて現れたのは、大柄な男――
「ほぉ……ついにクーデターってわけか。いやぁ〜燃えるな。俺、こういうの嫌いじゃないんだよ!」
満桂でした。彼はハイテンションで破天荒な性格の将軍です。
「満桂、静かにしろ。今夜は遊びの時間じゃない。」
祖大寿が静かに口を開きました。祖大寿は背が高く痩せている(長身痩躯)で、計算高い知恵のある将軍(智将)です。すべてを考えてから言葉を選ぶ男です。
「徐璉の狙いは城の支配だ。だが、民も兵士たちも彼にはついてこない。勝てるのは今夜、ただ一度きりだ。」
「んじゃ、俺たちが今夜をぶち壊してやればいいんだろ?」
満桂がにやりと笑いました。
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・出撃と鎮圧
その時、駆け足で現れたのは、気弱でいつも腹ペコな補給担当、**何可綱**でした。
「ひ、ひぃ……袁殿! 夜襲だなんて……! お、お腹が空いては力が……ぐぅ……」
何可綱は不安そうに、お腹をさすりながら言いました。
「あわてるな。翌朝までには鎮圧させる。朝飯の準備でもしておけ」
袁崇煥が目を細めて言いました。
「満桂!先鋒は任せる。反乱者どもを蹴散らせ!」
その言葉に満桂の目が一瞬で輝きました。
「望むところです!」
夜が明ける前、満桂は家丁と呼ばれる私兵たちを引き連れて雪を蹴りました。
「突撃ぃーッ!! 裏切り者に正義の鉄槌をッ!!」
雪が割れ、門が砕けました。満桂の軍は稲妻のように走り抜け、徐璉の部隊はたまらず逃げ散ったのです。
ついに袁崇煥の衙門(役所)は守られました。
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・夜明け
夜が明ける頃には、寧遠の空はまた静かになっていました。
「くだらない騒ぎだったな。」
袁崇煥は返り血を拭いながらつぶやきました。
「でもまぁ、スリルはありましたな! なあ、崇煥どの!」
趙率教が調子のいい声で笑います。
「スリルは後金軍との戦いで十分に味わえるさ」
祖大寿がぼそりと返しました。
袁崇煥は静かに空を仰ぎました。
雪の舞う空の下、その眼差しには誰にも言えぬ孤独と覚悟がにじんでいました。
――戦は、まだ終わらない。
〇1625年
・寧遠の火雷
寧遠――白銀の霧が城壁を包む、まだ寒い朝でした。
袁崇煥は、城壁の上に立ち、黙って海を見ていました。氷のように冷たい風が、彼の頬を刺します。けれど、その目はじっと先を見据えていました。
袁崇煥は明の将軍であり、遼東にある寧遠城の守りを任された男です。後金という強敵と向かい合い、冷徹で無口な性格ですが、心の奥には民衆を思う熱い炎が燃えています。だから、彼は戦い続けているのです。
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・新しい武器の到着
「おーい、崇煥どの! 西の門に、変な奴らが来ましたぞ!」
そう叫びながら走ってきたのは趙率教でした。趙率教はお調子者の将。口が軽くてよく喋りますが、戦が始まれば命知らずの勇士に変わります。
「変な奴……?」
袁崇煥が尋ねます。
「ほら、あの! 背が高くて、鼻が高くて、髭も巻いてて……なんか、でっかい木の箱を持ってきた!」
「……ついに来たか。」
袁崇煥の声が低くなります。
「ポルトガルの火砲だ。」
西門の外に並んだ異国の兵士たち。変わった服を着て、見たことのない銃器を持っています。そして――
「おい、これ何だ!? こんな鉄の筒、どうやって撃つんだ!?」
満桂が叫びました。満桂はハイテンションで破天荒な性格の将軍です。
「弾を込めて、火をつける。お前でも扱える。ただし、逆向きに撃つなよ。」
「うおお、こえええ!でも面白れええ!」
ハイテンションで声で笑ったのは満桂でした。
「それにしても崇煥どの。あんた、本当にこんな鉄の塊、城に置くつもりか?」
「置くだけじゃねぇ。撃つ。敵が来たら、粉ごと吹き飛ばす。」
「まじかよ……うちのばあちゃんが聞いたらびっくりして腰抜かすぜ。」
「そのばあちゃんのために、これを置くんだ。」
袁崇煥の声には熱がありました。
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・補給担当の苦労
そこへ、記録と文書の山を抱えた**何可綱**が、いつものように苦虫を噛みつぶした顔で現れました。何可綱は気弱でいつも腹ペコな補給担当です。
「崇煥さま、火砲四門、付属弾丸三百発。火薬五十樽。いずれも徐光啓殿よりの荷物です……ぐぅ……」
何可綱がお腹を鳴らしながら報告します。
「よくやった。西の砲台を増築しろ。重さに耐えられるよう基礎から固めろ。」
「基礎……またですか? 先月、三度目の修正でしたが……お腹が空いては力が出ません……。」
「砲身が沈むよりマシだろう。」
「はは……なるほど。砲弾が食べられるなら、飢え死にする気がしませんね。」
「これは食べられない。代わりに敵に喰らわせてやるのさ」
袁崇煥がそう言い放つと、何可綱も肩をすくめてうなずきました。
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・火砲の威力
その頃、祖大寿はすでに土工に指示を出していました。祖大寿は皮肉屋のベテラン将軍です。
「これで、火の力が手に入ったりましたな。」
「いや……火は使い方を誤れば、自分も焼ける。」
「だからお前に任せた。城も兵も。」
「心得ております。」
火雷――それは鉄の筒から黒い煙と炎を噴き出し、敵を撃ち払う呪術のようなもの。
ですが、それは同時に、操る者を焼き焦がす火種でもありました。
城下の兵士たちは息を呑み、袁崇煥を見守っています。
「火雷、発射準備!」
「はい!」
「点火!」
黒煙が立ち上がり、轟音が城壁に響き渡ります。弾丸は着弾点を更地に変えて、兵たちを震わせました。
「これが新しい時代の戦か……。」
袁崇煥は遠くを見つめながらつぶやきました。
寧遠の火雷――それは未来への小さな一歩でした。
◯1625年・黒龍江の夜
黒龍江――満洲の大地を流れる大河。その岸辺を、夜風がびゅうびゅうと鳴いて吹き抜けていた。
冷たい風が草をなびかせ、建州女真の軍営に張られた天幕を揺らす。
天幕の中、炎のように赤く灯る火は、まるで獣の目だった。
火の前に座るのは、ヌルハチ(ぬるはち)。
建州女真の大ハーンであり、後金という新たな国を興した王。
明という中国の大国に戦いを挑む、八旗という精鋭軍団の総帥だった。
「……潮目が来たな」
ヌルハチ(ぬるはち)が、低くつぶやいた。すでに六十を過ぎた老将であったが、その目には戦火のような光が宿っていた。
「明は老いた虎だ。牙も爪も、もう鈍っておろう」
すると、横にいた大男が笑った。
「よっしゃあ、ついにその時が来たか! 明の奴らをぶっ飛ばすってやつだな、父上!」
その男はダイシャン(だいしゃん)。ヌルハチの第二子。
力自慢で、戦場では誰よりも突っ込んでいく。猪突猛進な性格だが、仲間からの信頼は厚い。
「まあまあ、兄貴。熱くなるのはわかるけど……前に俺たちがサフルの戦いでどうなったか、もう忘れたんですかい?」
やれやれと肩をすくめたのは、マングルタイ(まんぐるたい)。ヌルハチの第四子。
調整役で、冷静な目を持ち、兄弟たちの暴走をよく止めている。
「サルフの時、敵をなめて突っ込んで、川で馬を溺れさせたのは誰でしたっけ? 明の奴ら、あの時はしぶとかったでしょう?」
「う……あれは、川の流れが強すぎただけだってば!勝ったからいいんだよ。」
ダイシャンはぷいと顔をそらしたが、耳が赤くなっていた。
すると、黙って地図を見つめていた男が、口を開いた。
「その通りだ。明は、まだ牙を抜かれてはいないでしょう。だが――噛ませぬよう仕掛ければいい」
その男はホンタイジ(ほんたいじ)。ヌルハチの第八子で、のちの清朝の皇帝となる男。
知略に優れ、冷静で抜け目のない性格。獰猛というより、知恵ある狐のようだった。
「兄上たちの勢いも頼もしいが、我らは策をもって敵を潰すべきだ。サルフの戦いから、何を学んだかが肝要だ」
そう言って、ホンタイジ(ほんたいじ)は地図を開いた。そこには、寧遠、錦州、広寧――明の城の位置と、夜襲の時刻まで細かく書かれていた。
「……おいおい、お前もう作戦立ててたのかよ」
マングルタイが呆れた声を出すと、ホンタイジはにやりと笑った。
「父上のご意志を読んだまでだ」
そのとき、ヌルハチが立ち上がった。
火の揺らめきが、彼の影を天幕の布に大きく映し出す。
「……五月だ。川の氷が溶け、馬も進める。ならば渡るぞ。寧遠を焼き、明の牙を折る。心臓を露わにして、止めを刺す」
「よっしゃあああ!!」
ダイシャンが拳を突き上げた。
マングルタイは、にこりと笑いながら言った。
「……今度こそ、ちゃんと飯を持って行ってくれよな、ホンタイジ」
「安心しろ。兵糧も策のうちだ」
ホンタイジは火に照らされた地図を指差す。
ヌルハチが一言、命じた。
「……旗を上げろ。風は、我らに吹いている」
天幕の外、風は止み、雪は静かに消えていた。
空には、冴え冴えと月が昇っている。
それは、明という老いた虎を討つための、嵐の前の静けさだった――。




