守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章⑥
◯1624年
北京の春風は、遼東よりもいくぶん穏やかだった。
袁崇煥は、馬車の窓を細く開け、街並みをじっと見つめた。
隣には、ふくれっ面の妻・黄青桂が腕を組んで座っている。
「……着いたぞ」
短く言い放つと、青桂はそっぽを向いた。
「どうせまた、私の意見なんか無視して強引に決めたんでしょう」
彼女は広東の名家出身で、気が強く、口も達者だった。
「……黙って北京に来たのも、朝廷に呼ばれたからだ。お前を守るためでもある」
「へえ、守ってくださるんですって。ありがたやありがたや」
袁崇煥は返事をせず、車を降りた。
北京の邸宅は、こぢんまりとしていたが、遼東の軍営よりははるかに暮らしやすかった。青桂は「炊事女がいない」「台所が寒い」など文句を並べつつも、どこかうれしそうだった。
「ここならまあ、骨くらいは埋めてもいいかしらね……って、ちょっと聞いてるの?」
「すぐ戻る。宮中へ呼ばれている」
「出張ばっかり!」
「俺は軍人だ。……飯は炊けるな?」
「ええもう、将軍さまのお炊事係ですとも!」
皮肉たっぷりの言葉を背に、袁崇煥は馬にまたがった。
宮中の回廊を歩いていると、見覚えのある姿が目に入った。
上質な薄絹をまとった女将軍。清楚で、背筋の通ったその姿は、まるで梅の枝のように凜としていた。
「……秦将軍、お久しゅうございます」
袁崇煥は、歩を止めて恭しく頭を下げた。
「袁将軍……まあ、ご無事で何よりでございます」
秦良玉は、忠州出身。幼き頃より武芸を修め、夫の戦死後は自ら軍を率い、敵軍を相手に幾度も勝利をおさめた名将である。
今年で五十歳を迎えていたが、その姿は若武者も及ばぬほど清らかで、気品に満ちていた。
「将軍も、どうかお変わりなく……」
「ええ。弟の邦屏も、ようやく傷が癒えまして。ふたたび訓練を始めております」
「それは何よりでございます。いずれ、またご助力をお願いすることになるかと」
「承知しております。……遼東のご様子は、いかがですか?」
「厳しい状況でございます。敵軍は巧妙に動き、兵糧の確保にも苦しんでおります」
「そう……。では、私どもも心して備えましょう」
彼女の声は柔らかく、落ち着いていた。けれどその奥には、長年の戦場で鍛えられた意思がしっかりと感じられた。
「火器の導入については、徐光啓先生と話を進めております。紅夷大砲を主力とする新編制を考えております」
「徐先生と……それは心強いお話ですね」
「将軍。今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます」
秦良玉は、静かにうなずいた。
「こちらこそ……皆さまをお守りするのが、私の務めでございます」
その言葉に、袁崇煥は深く、心から頭を下げた。
そしてその夜、邸宅に戻った袁崇煥は、ふてくされた妻に茶を淹れながらぼそっとつぶやいた。
「——やはり、秦将軍は立派な方だな」
「ふーん? また美人に見とれてきたの?」
「……見とれるなら、お前にする」
「……なっ……何それ、急に真顔で言わないでよ!」
その後、湯気のたつ茶の香りとともに、ふたりの静かな夜が過ぎていった。
◯1624年
その夜、北京の空は澄んでいた。
袁崇煥の屋敷の中庭に、鉄の薬缶がかすかに音を立てて湯を沸かしていた。
座敷には、客人がふたり。
ひとりは、淡い緑の絹をまとった女将軍。
もうひとりは、陽気な表情で酒の器を傾ける細身の男。
「秦将軍、ようこそお越しくださいました」
袁崇煥は静かに頭を下げた。
目の前にいるのは、秦良玉。
かつて四川の忠州で白杆軍を率い、幾度も勝利を収めた名将である。
白杆とは「トリネコの木」の意。粘りとしなりを持つ木で作った白木の槍を意味していた。
彼女は、かつて兄・秦邦屏を失い、さらには最愛の夫・馬千乗をも戦で亡くした。
だが、その悲しみを背負ったまま、今も毅然と軍を率いている。
その眼差しには、哀しみを昇華した静かな強さがあった。
「こちらこそ、お招きいただき光栄です、袁将軍」
彼女は、品よく茶に口をつける。
隣の秦民屏は、姉とは対照的ににこやかで明るい男だ。
傷痕の残る左腕を気にしながらも、軽口を飛ばすのを忘れない。
「いやあ、北京ってのは広いですなあ! 姉上、迷子にならなくてよかった!」
「民屏。はしたないですわよ」
良玉は小さくたしなめた。
「姉上はいつもお堅い! いやあ、将軍どの、今日はいい夜だ。南方の匪賊の話、して差し上げましょうか」
「……お願いします」
袁崇煥は真剣な顔で身を乗り出す。
袁崇煥と秦民屏は酒を酌み交わしながら、心ゆくまで語り合った。
「貴殿か私かのどちらかが、戚継光将軍の再来と言われるようになると嬉しいですなあ!あひゃひゃ!」
そして、秦民屏は眠り込んでしまった。
秦良玉は「自由すぎる弟で申し訳ありません」と言いつつ、ポツリと話し始める。
「南では、また反乱の兆しが強まってます。苗族や洞蛮の動きが活発ですな。どこも飢えと税の重さで、民が剣を取ってる」
「遼東も危機です。北の満州族は、すでに朝鮮に手を伸ばし始めています。彼らの軍は、統制があり、動きも早い。油断すれば、関内まで攻め込まれます」
良玉は、静かにうなずいた。
「南も北も、火の粉が飛んでいるのですね……。では、我らも覚悟せねばなりません」
袁崇煥は、一瞬だけ目を閉じた。
北京の邸宅は、どこか静かすぎる。
嵐の前の、妙な落ち着きがあった。
「いずれ、白杆軍とご一緒することもあるかと存じます」
「ええ。命じていただければ、いつでも参ります」
「ありがたく存じます。——秦将軍」
「はい」
「貴女がいてくだされば、私は……安心できます」
良玉は、少し頬を赤らめ、茶碗のふちを見つめた。
その横で、寝たフリをやめた、秦民屏がにやにやしていた。
「おやおや、これはもしや、恋の火花では……?」
「黙っていなさい、民屏。奥さまに失礼でしょう。さあ、帰りますよ!」
良玉は小声で言い放ち、そっと茶をひとすすりすると席を立った。
袁崇煥は、言葉を返さず、ただ湯気の向こうに目を細めていた。
その夜、風はまだ穏やかだった。
だが、戦の鼓動は、確かに遠くから近づいていた。
◯1624年
招かれざる訪問者のように、北風が窓をたたいていました。遼東の軍議室には、薪の火も追いつかないほどの寒さが入り込んでいました。
ですが、その中でひときわ鋭い目を光らせている男がいました。袁崇煥、遼東の守りを任されたばかりの若い将軍です。南の広東出身の彼は、南国の温かさを心に抱きつつも、今は冷たい戦いの真ん中にいました。
彼の周りには、信頼できる部下たちが集まっています。
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・軍議の始まり
「――始めよう。」
低く響くその声が、広間に漂う緊張を切り裂きました。
「本日は、遼東防衛の今後について話し合う。南方で反乱を起こしている勢力もいるが、何より問題なのは――北の満州族だな。」
袁崇煥の視線が、会議に出席している将軍たちを一人ずつなぞりました。
最初に静かに声を上げたのは、祖大寿です。五十に近いベテランの将軍で、皮肉屋です。
「閣下、恐れながら申し上げます。遼東の状況は、日に日に厳しくなっていますよ。
北の満州族の動きは今は静かですが、それは嵐の前の静けさです。彼らが南に攻めてくれば、寧遠の城壁も、まるで風前の灯火のように危ういでしょうな。まあ、我々がそんなに頼りないわけではないですがね。」
その言葉に、袁崇煥は少し間を置いてうなずきました。
「わかっています。ですが、我々が準備を固めれば、敵の勢いも弱まるはずです。」
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将軍たちの意見
そこへ、ひょいと口を挟んだのは趙率教です。細身で小柄な、面白いおじさんです。
「し、しかし、閣下……私の知る限り、あの満州族の連中は、たとえこちらが準備を固めたところで……いざとなれば、勢いで城を飲み込んでしまうかもしれませんぞ。いやぁ、考えるだけでお腹が痛くなってきましたな!」
どこか浮き足立った声に、満桂が元気いっぱいに口を挟みました。彼はハイテンションで破天荒な性格の将軍です。
「おい趙殿、そんな弱気なことを言っちゃあ、士気が下がっちまうぜ!
いざとなりゃ俺が敵の鼻っ面に一発ぶちかます! 城門だろうが、敵の腹だろうが、鉄槌で黙らせてやりますよ! ドッカンとね!」
彼の大声に、重苦しかった空気が少しだけ和らぎました。
「……黙らせるなら鉄槌よりも大砲だな。しかし、口からの空砲は感心しない。」
袁崇煥の鋭い目が、満桂を射抜きました。
「ですが、今必要なのは勝てる見込みのある作戦だ。見栄や勢いではない。確実な準備なのだ。」
ピシャリと言い切ったその声に、満桂も照れくさそうに肩をすくめました。
「す、すんません、閣下。つい調子に乗りました!」
袁崇煥は彼を咎めるでもなく、視線を再び全体に向けました。
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・新たな戦略
「――よろしい。ここで決めよう。私の作戦はこうだ。」
一同が息を飲みました。
「北方には新しく防柵を築き、満州族の南下を防ぐ。
南方で反乱を起こしている勢力は、速やかに鎮圧する。」
その言葉に、何可綱が、重たい皮の外套を着たまま、震える声で尋ねました。彼は気弱でいつも腹ペコな補給担当です。
「あ、あの……防柵を築く資材や、南方へ向かう兵の食料は……だ、大丈夫でしょうか? 私、今からでもお腹が空いてきました……ぐぅ……」
袁崇煥はちらりと何可綱を見ました。
「心配するな。食料は私が確保する。お前はただ、命令通りに動け。」
「はっ、死ぬ気で運びます!」何可綱は少しだけ顔色を良くしました。
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・覚悟の火
「――今こそ、勝機をつかむ時だ。」
誰もが黙りました。
袁崇煥はそのまま窓辺へと歩み、冷たい風を顔に受けました。
寧遠の空は曇っていましたが、彼の眼差しは遠く晴れていました。
「この戦い、私が終わらせる。……遼東を、民を、守るために。」
部下たちは、その背中を見つめながら、それぞれの覚悟を固めていきました。
その日、寧遠の城に、戦いののろしが静かに上がろうとしていました――。




