守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章⑤
◯1622年・冬
――遼東、前線基地にて。
薪のはぜる音が、ぴちりと響いた。
石づくりの部屋には冷たい風がしみこみ、部屋の中にいても吐く息は白かった。炉に手をかざしたまま、ひとりの男が黙っていた。
その男こそ――袁崇煥。南方・広東省の出身で、もとは科挙に合格した秀才の文官。
しかし戦乱の世に身を投じ、いまや明王朝きっての防衛戦略家。北辺の最前線で、女真族率いる後金と戦っていた。
――彼のとなりには、もう一人の“南国の風”がいた。
「ねえ!また考えごとしてるでしょ!あたしが入れたお茶、もう三杯目なんですけど!?しかも、さめてるんですけど!?」
どたどたと入ってきたのは、明るい声とともにやってきた若い女。
黄青桂。袁崇煥の妻で、広東の町・東莞から遠くはなれて、夫とともにこの遼東までついてきた、気の強い、でも情の深い女性だ。
「……茶が冷えたのは、風のせいだ。」
袁崇煥は炉から目を離さず、ぽつりとつぶやいた。
「はいはい出ました!我ここにあらず!的な将軍せりふ~!風のせいって、なにそれ?風は悪くないよ!むしろ、吹かれてるのは私たち!」
黄青桂はぷりぷり怒りながらも、またお茶を入れに立った。
「……ここは寒い。広州の冬なんて、春のまちがいかと思ったほどだった。」
「はあ!?何その詩人トーク!?こっちは毎朝、井戸の氷を割って水くんでるんだけど!しかも、お湯が出ると思ってたのに!……北ってすごいわね!」
その言葉に、袁崇煥はふっと小さく笑った。戦場では決して見せない、やわらかい笑みだった。
「……お前は、よくやってる。」
「でしょ? でしょ? でもさ、聞いてよ!この辺のごはん、冷めるのが早すぎ!茶碗によそったと思ったら、もう固まってるのよ!?広州では、ほっかほかをのんびり食べられたのに~。」
「北京からここまで、馬で十日。」
「え?ごはんの話してたのに、いきなり距離の話!?地理講座始まっちゃったんですけど!?」
「……故郷が遠くなるほど、人は少しずつ鋼になる。」
「また出たー!将軍のポエム!でもまあ……あたしも、ちょっとは強くなったかもね。」
黄青桂は笑って、ふわっと布団に飛びこんだ。
「東莞の家がなつかしいわ……細い川の音、柑橘のにおい。静かで、あったかかったなあ。」
「蝉の声。祖父が育てた竹林。」
「うん、それそれ。こっちじゃ全部カチカチに凍ってる。竹も、野菜も、空気も。」
袁崇煥は、炉の火に薪をひとつ足した。
ぱちん、と乾いた音がして、炎がもうひとつ赤く燃え上がる。
「……だが、ここを守らねばならん。」
その一言に、黄青桂は布団の中で静かになった。
やがて、ちょこっと顔だけ出して、ぽそりとつぶやいた。
「ねえ……あんた、かっこいいのはわかったけどさ。もうちょっと笑ってよ?」
袁崇煥は無言のまま、自分の茶碗をとると、彼女の湯呑みに注いだ。
「お前が笑えば、寒さはしのげる。」
「もーっ!そういうのズルいってば!」
ふたりの笑い声が、静かな夜の遼東に、かすかに響いた。
――北の大地に吹く風は冷たい。だがその部屋には、炉の火と、ふたりのぬくもりが、しっかり灯っていた。
◯1623年・遼東
バリバリと、北風が窓をたたいていました。遼東の軍議室には、薪の火も追いつかないほどの寒さが入り込んでいました。
ですが、その中でひときわ鋭い目を光らせている男がいました。袁崇煥、遼東の守りを任されたばかりの若い将軍です。南の広東出身の彼は、南国の温かさを心に抱きつつも、今は厳しい戦いの真ん中にいました。
そのそばに座っているのは、経験豊富な将軍・祖大寿。そしてもうひとり、有能な副将・趙率教です。三人で、これからの戦いをどう進めるか、大切な話し合いの真っ最中でした。
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最前線の将軍たち
「――さて、まずは、あの《サルフ(さるふ)の戦い》から話をしましょう。」
袁崇煥が静かに口を開きました。
《サルフの戦い》とは、三年前の1620年に起こった悲しい戦いです。明の大軍が、満洲のヌルハチ(ぬ・るはち)が率いる後金軍に大敗した、悪夢のような出来事でした。
「うむ。あの戦いで我々明の力は地に落ちましたよ。正面からぶつかって、あれだけの兵がやられたんですからね。ヌルハチのやつ、ただ者じゃないですよ、全く。」と、祖大寿が、苦々しい顔でうなずきました。彼は皮肉屋なので、言葉にも少しとげがあります。
「ですが――」と、趙率教が落ち着いた声で続けました。彼は面白いおじさんで、時に場を和ませます。「ヌルハチ(ぬ・るはち)にチャンスを与えたのは、こちらの油断と、まあ、ちょっとした慢心でしょうな。我々がしっかり立て直さなければ、この遼東はすぐに後金の手に落ちてしまいますよ。」
袁崇煥は、焚き火の前で腕を組んだまま、ふっと目を閉じました。
「遼東は、北の門です。ここを奪われれば、都の北京までまっすぐ攻め込まれてしまう。……後金を止めるには、この地を命がけで守るしかありません。」
その言葉に、二人の将軍も黙ってうなずきました。
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皇帝と将軍たちの覚悟
「だけどな、袁どの。いくら作戦を考えても、新しい皇帝陛下がどう動くかですよ。」
祖大寿が、にやりと皮肉っぽく笑いました。
「天啓帝ですか……」袁崇煥は小さくつぶやきました。「兄の泰昌帝がすぐに亡くなられ、その跡を継いだ若い皇帝。これからの明を背負うには、重すぎる責任でしょうね。」
「ですが、我々が選べる道は、一つしかありません。」趙率教が口を挟みました。「皇帝の命令に従い、遼東を守り抜くのみですな。いやぁ、この歳になると、若い皇帝に振り回されるのも、また一興ですよ!」
「うむ。」祖大寿が、鼻で笑いました。
「皇帝の気まぐれに振り回されるのも、もはや慣れたもんですからね。諦めも肝心ということですかな。」
その言葉に、袁崇煥はほんの少しだけ笑いました。
「ならば、振り回される前に動きましょう。我々で、遼東を変える。軍の仕組みを見直し、民の心をつかみ、後金を迎え撃つ準備を整えるのです。」
「ふふっ、熱いこと言いますね、将軍は。この北の地を熱くさせるような。」祖大寿が言い、趙率教は大きくうなずきました。
「……熱くもなりますよ。女真族を真っ赤な炎で焼き尽くそうとしているんですからね。」
そう言って、袁崇煥は立ち上がりました。その目に、ひとすじの炎が灯っていました。
凍てつく遼東の地で、彼ら三人は静かに立ち上がりました。満洲の強い支配者・ヌルハチ(ぬ・るはち)に立ち向かうため、そして、明の未来を守るために。
外は凍るような風が吹いていましたが、軍議室の中には、熱い決意の火が、確かに燃えていました。
◯1623年
朝まだきの空に、灰色の雲が重たく垂れていた。
遼東の官舎の戸が、ぎい、と音を立てて開く。
「……戻ったぞ」
袁崇煥は軍服のまま、玄関の敷居をまたいだ。
頬はこけ、鋭い眼光には疲れがにじむ。
広東出身、東莞の町で育ち、進士を経て戦場に立ち続けたこの男は、北の風と鉄の匂いにまみれた人生を歩んでいる。
だが今日は、戦ではなく、家庭の話だった。
「……お帰りなさい、あなた」
ふわりと、香の匂い。
出迎えたのは妻の黄青桂。
南国育ちのやわらかい面差しに、今は少しだけ、紅が差している。
袁は黙ってうなずいた。
荷をおろす間もなく、彼女はそっと切り出す。
「……子が、できたようですの」
しばし、沈黙。
「……そうか」
短く、低い返事。
だが、その声にある微かな震えを、黄青桂は聞き逃さなかった。
「今、ちょうど知らせが来た。……北京へ出頭せよとのことだ」
袁は外套を脱ぎ、炉の前に腰を下ろした。
そしてしばらく火を見つめると、ぽつりと言った。
「お前も、いっしょに来い」
「えっ……」
思わず声が上ずる。
「北京へ移れ。ここの冬は……子に毒だ。
まして、後金の連中が、いつまた攻めてくるかわからん」
「でも、わたし、遼東の暮らしに慣れましたもの。
干し魚もありますし、鄰の奥さんとも仲良くしてますし……ね?」
黄青桂は必死で笑ってみせたが、袁は眉ひとつ動かさない。
「北京には医者もいる。屋根もしっかりしてる。……戦場に女と腹の子を置いておくのは、剣を鞘に収めぬのと同じだ」
「でも……だって……お洗濯の水が、北京は冷たいって聞きましたのよっ」
「なら湯を沸かせ」
「ひどいっ!」
ぷりぷりと怒りながらも、黄青桂は布団の中で荷物の算段を始めていた。
「そんなに心配してくださるなんて……あなた、実はとても優しいのね?」
「違う。お前が死んだら……俺が困る」
それは、武将の口から出るにはあまりに不器用な、愛の言葉だった。
しばらくして、彼女はため息をつきながらうなずいた。
「……わかりましたわ。
どうせなら、お馬さんがついてる立派な馬車をご用意くださいな。……それから、漬け物の壺も忘れずにっ」
「……もう一戦、始まったようだな」
袁はぼそりとつぶやいて、湯気の立つ茶碗を口に運んだ。
――こうして、遼東に残る妻と子の命を案じた男の、静かな戦いはまたひとつ、始まったのである。




