守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章②
◯西暦:1596年(明・万暦二十四年)
広東省東莞県の街角に、袁崇煥がひとり立っていた。17歳の少年でありながら、その目は冷徹で、周囲の喧騒には全く動じない。彼の周りにいる者たちは、彼の異常なまでの集中力と静かな自信に圧倒されていた。
「おい、兄貴、すごいじゃないか。ついに合格したんだな。」
声をかけたのは、弟の袁崇煜だった。崇煜は、兄に比べると性格はおおらかで、どこか抜けたところがあったが、素直で愛されるタイプだった。兄を尊敬している一方で、その冷徹な態度には少し戸惑いを感じているようだった。
「ああ、合格した。だが、まだ始まりに過ぎない。」
袁崇煥は静かに答え、目を見開いたまま遠くを見つめた。その視線の先には、次の目標がすでに存在していた。
「兄貴、感動に打ち震えないのかい?合格したってのに、まるで何もなかったかのように。」
弟の崇煜は、兄の態度に驚きつつも、どこか楽しげに言った。彼には、兄の冷徹な部分が謎めいていて、それが面白くもあった。
「喜んでいる場合じゃない。これからが本番だ。」
袁崇煥はそう言い、真剣な顔つきで弟を見た。まるで試験が終わった今こそ、次の戦いが始まるような目だった。
「これからどうするんだ?」
「次は科挙だ。だが、その前にもうひとつ試練が待っている。」
「かきょ……? 兄貴、それっていったいどういう試験なんだ?」
袁崇煥は、ふっと微笑んだ。弟にしては珍しく、真面目な目つきだった。
「よし、教えてやる。科挙というのは、役人になるための試験だ。だが一度で終わるものじゃない。いくつかの段階があるんだ。」
崇煜は目を丸くして聞き入った。兄の口からこうして丁寧に説明されるのは、珍しいことだった。
「まず、最初が院試。これは地方で受ける試験で、これに受かると『秀才』と呼ばれる身分になれる。」
「しゅうさい……。兄貴はもうそれに受かったんだよな?」
「そうだ。今日のは、その院試だった。」
「へぇ、すごいな……。で、その次は?」
「その次が郷試。これは省ごとに行われる試験で、三年に一度しかない。合格すれば『挙人』になれる。」
「三年に一度!? そんなの、うっかり風邪ひいたら終わりじゃないか。」
崇煜は素直に驚いた顔をした。袁崇煥はうなずきながら、続けた。
「だから万全の準備がいる。さらにその次が、京で行われる会試と殿試だ。会試に受かると『貢士』になり、殿試で選ばれると『進士』になる。」
「それが……最後か?」
「ああ。進士になれば、皇帝の前で試され、官僚の道が開かれる。」
「すげえな。そんな試験を受けるって、兄貴、正気かよ……。」
袁崇煥は、短く笑った。
「正気じゃなければ、こんな道を選ばない。」
その言葉には、あきれるほど真っ直ぐな信念が宿っていた。
「お前、ほんとにお前だな。でも、それが兄貴の強さなんだろうな。俺が言うのもなんだけど。」
弟の崇煜は笑いながら肩をすくめた。彼にとって、兄の冷徹さは遠い星のように感じることがあった。それでも、彼はいつも兄を支え、尊敬していた。
「その試練ってのは、郷試のことか?」
「いや、もっと身近なものさ。」
「え、なに?」
袁崇煥は少しだけ表情を緩めて、弟を見た。
「父上に、学費の相談をすることだ。」
崇煜は一瞬呆気に取られて、それから大笑いした。
「兄貴、それは一番むずかしい試験だな。」
兄弟の笑い声が、夕暮れの街角に小さく響いた。その道の先に見える未来が、どれほど険しくとも、袁崇煥にはそれを乗り越える力があると、誰もが信じて疑わなかった。
◯西暦:1600年(明・万暦二十八年)
「よし決めた!」
17歳の袁崇煥は、静かな声で言った。彼の目はどこか遠くを見つめているが、その目に宿る光は決して揺らぐことはなかった。まるで、数世代先の未来をすでに見据えているかのような鋭さだった。
「おいおい、急にどうしたんだ? なんだか、怖いくらいだぞ。」
弟の袁崇煜は眉をひそめ、戸惑いながら声をかけた。袁崇煥の冷徹さに慣れているとはいえ、この静けさには少し驚いていた。彼には分かっていた。今日の袁崇煥はただ者ではないと。
「軍事だ。名将になる。」
短く、しかししっかりとした決意の言葉が、袁崇煥の口から発せられた。袁崇煜はその言葉に少し息を飲んだ。あまりにも突然過ぎた。
「軍事? 兄貴が?」
袁崇煜は少し笑ったが、すぐにその笑みを隠した。袁崇煥がどれほどの決意を持っているか、彼は知っていた。だが、軍事の指導者として名を挙げるなんて、誰が予想しただろうか。
「孫武、諸葛亮、徐達、劉基、戚継光――」
袁崇煥はその名を一つ一つ、思い出すように呟いた。どれも歴史に名を刻んだ人物だ。その名の響きに、彼の決意がさらに強まる。
「彼らのようになりたい。」
「兄貴、すげぇな。」
袁崇煜は呆れたように笑い、肩をすくめた。しかし、彼の目はどこか感心しているようにも見えた。袁崇煥がこの決断をしたことに、心から驚いているわけではなかった。むしろ、彼の中でこれが当然の選択だったのだろう。
「でも、どうしてそんなに早く決めたんだ? だって、あの名将たちだって、みんな何十年も戦い続けたんだぞ。」
「だからだ。」
袁崇煥は一瞬だけ視線を下ろし、その後、真っ直ぐに袁崇煜を見た。
「俺には時間がない。すべてをかけて、戦いの中で学び、勝ち抜く。これが俺の選択だ。」
その言葉には、計り知れない覚悟が込められていた。どこまでも冷徹で、どこまでも確信に満ちた決意。それが、袁崇煥の特徴だった。
「兄貴がそれを言うなら、きっとやるんだろうな。」
袁崇煜はにっこりと笑った。だが、その背後には少しの不安が見え隠れしていた。袁崇煥の情熱を支えたいと思う一方で、彼がその熱意にどこまで耐えられるのか、少し心配でもあった。
「今からが始まりだ。名将たちに追いつくため、俺はすべてを学び、すべてを得る。」
袁崇煥の目には、すでに戦場の光景が浮かんでいるかのようだった。彼は名将のように戦い、名将のように指導し、名将のように生きる覚悟を決めた。
◯西暦:1600年(明・万暦二十八年)
袁崇煥は、遠くを見つめながら静かな声で言った。
「俺の家族のことを、どう思う?」
弟の袁崇煜は目を見開き、突然の問いに少し戸惑った。彼は自分の思っていることを素直に言う兄を好ましく思っているが、この問いには答えにくいものがあった。
「どうって……兄貴、家族にはいろいろあるだろうけど、どうして急にそんな話を?」
袁崇煥はゆっくりと目を閉じ、深く息をついた。
「父・仁は、俺たちに儒学を重んじる生き方を教えてくれた。質素で厳しい男だったが、愛情もあったと思う。ただ、父は役人としての務めに忙しく、俺たちと過ごす時間は多くなかった。母は真面目で堅実だが、家の中では感情をあまり表に出さなかった。」
袁崇煥は視線を弟に向け、続けた。
「だが、そんな両親でも、俺には十分じゃなかった。父も母も、俺の抱える苦しみや決意を完全には理解できなかったのかもしれない。だからこそ、俺は自分の道を自分で切り開くしかなかった。」
弟の袁崇煜は黙ってその話を聞いていた。兄の言葉には、家族への愛情と同時に、どこか冷たい現実を受け入れた覚悟がにじんでいた。
「それでも、兄貴は家族に感謝しろよ。父さんは、俺たちの教育に力を尽くしてくれたし、母さんも俺たちを支えてきた。完璧じゃなくても、俺はそれで十分だと思う。」
「……そうかもしれんが、俺は、家族の期待に応えるためだけに生きているわけじゃない。俺が戦い、強くなったのは、家族のためだけじゃなく、国家や民のためだ。父が残した儒学の教えも、俺にとっては羅針盤のようなものだったが、それを超えて自分の信念で歩んでいる。」
袁崇煥は、かすかに笑みを浮かべた。
「お前はいつもそうやって俺を励ましてくれるな。だから、俺はお前を信じている。兄弟である以上、これからも支え合っていこう。」
弟も小さくうなずき、二人の間にほんの少しの温かさが流れた。
◯西暦:1604年(明・万暦三十二年)
「ここまで来たら、もう後戻りはできねぇ。」
袁崇煥は、乾いた風に顔をしかめながらつぶやいた。目の前に広がるのは、山々を越えた先にある、名だたる郷試の会場。彼は、20歳になり、名声を得るためにこの試験に挑むことを決意したのだ。周囲には他の受験生が集まり、その中には村の者でも見かける顔がちらほらと見える。
「おい、兄貴、これからどうすんだ?試験だって、難しそうだし、村からも遠いしな。」
袁崇煥の弟、袁崇煜は、少し不安げな表情を浮かべて、兄に声をかけた。彼は、少しおっちょこちょいな性格だが、兄を心から尊敬しており、その目には心配の色が見え隠れしていた。
「余計な心配すんな。」
袁崇煥は短く言った。普段の冷静さとは裏腹に、その目には熱い決意が宿っていた。
「俺が合格するのは、もはや決まってる。」
「お前、ほんとに自信たっぷりだな。」
袁崇煜は少し驚きながらも、兄の圧倒的な自信に触れ、尊敬の念を込めて言った。
「自信じゃない、信念だ。」
袁崇煥は冷静に答えると、しばし黙った後、続けた。
「この試験に合格し、名を上げなければ、俺の目指す道は開けない。」
「へぇ、そんなにかよ。まぁ、試験って言ったって、俺たちにとってはただの通過点だろ?」
「お前は、何も分かってないな。」
袁崇煥は冷ややかに言ったが、その言葉には深い意味が込められていた。弟はその目を見て、少しだけ息を呑んだ。彼の言葉の中には、ただの自信ではなく、何か壮大な目標に向かって歩みを進める覚悟が感じられた。
試験の会場に着いた時、彼らはすでに多くの受験生に囲まれていた。周囲には緊張した面持ちの者たちが、筆を握りしめているのが見て取れる。
「さて、始めるか。」
袁崇煥はその場に立ち、心を落ち着けた。弟は少し心配そうな顔をしていたが、結局言葉をかけることはなかった。
試験が始まった。会場内は静まり返り、筆の音だけが響く。袁崇煥は、問題を解き進めながらも、自分の中に冷徹な思考を保ち続けた。
「やるべきことは決まっている。」
彼は、どんなに試験の内容が難しくても、ひたむきに解き進めていった。周囲が焦り始めても、彼はひとり冷静さを失わない。
時間が経過し、試験が終了した。受験生たちは一斉に試験結果を待ち、袁崇煥もその中にいた。彼の目には、合格を信じる気持ちが強く宿っていた。
数日後、結果が発表された。名前が呼ばれ、袁崇煥は顔を上げた。そこに書かれていたのは、彼の名前だった。
「俺が合格した。」
口に出して言うと、弟は顔を輝かせて大きな声をあげた。周囲の受験生たちはその結果を見て、驚きと歓声を上げる中、袁崇煥は一歩前に出て、誇らしげにその場を去った。
「これが、俺の第一歩だ。」
彼の心の中で、強い決意が揺るがなかった。