守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章③
◯1621年
とんでもないおじさんがいた。
その名は――毛文龍。
山東の生まれ。いつも甲冑に身を包み、ひげをワッサワサに生やしていた。
「拙者ァ、戦を愛してるッ!」
戦場でそう叫びながら、飛び跳ねるように敵陣へ突っ込んでいく男だった。
剣も槍も火薬も使いこなし、口より先に拳が出る、超こわもて将軍。
でも――。
意外とやさしい。
村人におにぎりを分けたり、子どもにはあめ玉をくれたりもする。
だから、兵士からも、村人からも、けっこう人気があった。
さて、そんな毛文龍が活躍したのは、1621年(てんけい元年のこと。
東北の大地が、戦にゆれていた。
女真族の王、ヌルハチが大軍を率いて、明の城をバッタバッタと攻め落としていたのだ。
ついにその年、明の大事な土地である遼陽府が落ちてしまった。
「ぎゃー! ヌルハチのやろう、来たーっ!」
「おっかねぇ! 逃げろー!」
村人も兵士も大混乱。
それをまとめようとしたのが、広寧巡撫・王化貞というお役人。
そして、彼のもとで前線をまかされたのが、毛文龍だった。
「おう、ワシに左都督をやらせる気か。ええだろう、やったる!」
毛文龍はうなずくと、遼東半島の村々へ向かった。
焼かれた家。泣いてる子ども。困ってるじいちゃん、ばあちゃん。
「よーしよし、おまえら泣くな。わしが戻したる、ぜーんぶ!」
お米を配り、村を修理し、兵士を鍛え、民の心をまとめていった。
そして夏――。
ヌルハチ軍に奪われていた鴨緑江の下流を、見事に奪回した。
「うおおおおおっ! これぞ毛文龍! わっはっは!」
「将軍、鼻がふくらんでますぅ~」
横で騒いでいるのは、配下の尚可喜。
この人、陽気でおしゃべり。だけど、槍の腕はピカイチ。
「んもー、将軍~。また米炊きすぎましたよー! 今日のおにぎり、二〇〇個でーす!」
「多いわ!」
「愛情ですー!」
もう一人、渋い顔でしゃべるのは耿仲明。
無口だけど、弓の名手で、実は詩人。
「将軍、敵は……また来ます。」
「うむ。詩にでも読んでおけ。」
「――風に消ゆる、我が勇姿かな……」
「おまえ、それ、負けるときの句やないか!!」
さらにもう一人。おっちょこちょいな元海賊、孔有徳もいた。
「船……壊しました!」
「なんでやねん!!」
そんな感じで、仲間たちはみんなクセ者。だけど、心は一つだった。
ところが――。
年末、ヌルハチ軍が再び攻めてきた。
王化貞の軍は総崩れ。命からがら逃げ出す者もいた。
そのとき、毛文龍は決断した。
「王化貞? 知らん。わしはわしの道をゆく。」
つまり――国を裏切り、主君に逆らったのだ。
そして毛文龍は、部下を連れて海へ向かった。
向かった先は、朝鮮の平安道沖にある小さな島、椵島や身弥島。
いわば、亡命だ。
だけど、それだけではなかった。
「ここで力をためる。再び奴らを、たたき潰すためにな!」
「おおーっ!」
「でも、イカが怖いですー!」
「イカは敵じゃねぇ!」
こうして、戦うために逃れた男たちは、海の向こうで牙をといでいた。
毛文龍――それは、逃げずに立ち向かう、熱血おじさん将軍の名だった。
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1622年――遼東の将軍、立ち上がる
天啓二年、西暦1622年のこと。
遼東の空は、あいかわらず鉛色で、どんよりと暗いままだ。北から吹く風はとても冷たく、兵士たちの肌を刺し、唇は紫色になり、手はかじかんで動かない。寒さに耐えられなくなった若い兵士たちは、城門のすみっこに身を寄せ合い、お互いの体温を分け合っていた。
そのとき、ズン、ズンと重たい足音が雪を踏んで近づいてきた。
「……どうした。火が消えているぞ。」
低くて落ち着いた声だった。声の主は、袁崇煥。広東出身の文官だが、今では遼東を守るための中心人物とされている将軍だ。
冷たい風が吹き荒れる中、彼はまるで鋼のようにまっすぐ立っていた。着ている黒い毛皮のコートが風になびき、まるで一匹の孤高の狼のような雰囲気をまとっている。
「あっ、し、失礼しましたっ、殿!……その、火打ち石が湿っていて……なかなか火が……」
慌てて頭を下げたのは、まだ20歳にも満たない若い兵士だった。彼は唇を噛みしめ、顔は真っ青だ。
袁崇煥は何も言わず、腰の袋から自分の火打ち石を取り出すと、乾いた草を包み、静かに火を打ちつけた。
パチ、パチ――と火花が散り、やがて温かいオレンジ色の炎が揺らめいた。
「これでしのげ。兵にとって、寒さは、敵だ。」
「は、はいっ!ありがとうございますっ!やっぱり殿は、違いますね!」
感動した若い兵士が敬礼すると、仲間たちも次々と火を囲み、パッと顔を明るくした。
「すげぇ……」 「『火の将軍』って噂は本当だったんだな……!」
袁崇煥はその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。普段は無表情な彼が、珍しく笑った――ように見えた。
ここは山海関。遼東と中国の真ん中(中原)をつなぐ、とても大切な場所だ。もしここを敵に突破されたら、敵の軍隊は一気に都の北京を脅かすことになる。
「山海関の守りが、すべての鍵となる。」
かつてそう話したのは、袁崇煥の先生であり、目上の人でもある立派な宰相・**孫承宗**だった。彼もまた、明という国が終わりに向かっている混乱の中で、清潔な心と志を保つ数少ない政治家だった。
袁崇煥は、その孫承宗から命令を受け、壊れかけていた山海関の守りを立て直していた。
城壁にはヒビが入り、兵士たちの食べ物(兵糧)は底をつき、兵士たちのやる気も低かった。それでも袁崇煥は決して諦めなかった。
「……まず、食うがいい。話はそれからだ。」
そう言って、彼は自ら馬に乗り、冷たい風の中を駆け巡って必要な物を集めに走り回った。
ある日、彼の部下の将軍、祖大寿が、冷たい風の中をゆっくりと歩いてやってきた。
祖大寿は、このとき43歳。経験豊富な将軍で、遼東の駐留軍を任され、何度も戦場を経験してきた。その目つきは落ち着いて鋭く、言葉の端々からは、若者とは思えないほどの重みがあった。
「殿……あちこちで、『火の将軍』が来たと噂されていますよ。……火打ち石の話です。女子供まで真似しているとか。」
「……くだらん噂だ。」
そう言って袁崇煥はクルリと踵を返した。しかし、その背中には、どこか誇らしげな様子がにじんでいた。
祖大寿はその背中を見つめ、そっと目を細めた。
――この若者には、もう自分が何か教えることはないかもしれません。しかし、最後まで支えよう。私はまだ、戦場に立てるのですから。
そうして、遼東の守りの線は少しずつ、しかし確実に築き直されていった。
山海関は、後に「明を守る最後の盾」となる。しかしその未来を、今知っている人はまだ誰もいなかった。
◯1622年
朝焼けが、戦で黒ずんだ城壁を、ほんのりと赤く染めていた。
ここは明王朝の北の果て――遼東。吹きすさぶ冷たい風の中、火薬と血の匂いが、今日も消えることはなかった。
そんな最前線の砦に、一人の男がやってきた。
「はははっ、どうもどうも! 趙率教、只今到着いたしましたぜ!」
ハキハキとした、まるで朝市のような声とともに、砦の木門を叩いたその男は、年は食っているが妙に元気いっぱいだ。すらりと背が高く、着慣れた鎧が、まるで体の一部のように馴染んでいる。
この男――趙率教。字は君用。もとは科挙――つまりお役人になるための超難関試験――を目指して、ひたすら本を読みふけっていた秀才だった。だが、戦乱の時代にあって、筆を剣に持ち替えた。生真面目で几帳面、だけど、胸の奥には熱い炎を秘めている――そんな、ちょっと変わったおじさんだった。
祖大寿が、あっけにとられたように目を丸くする。
「おうおう、なんだなんだ、いきなり元気な声が響いたぞ! え? 趙率教って名前? ははっ、なんだか酒の銘柄みてぇだな!」
「おや、そりゃ面白い! 確かにちょっと苦い口当たりかもしれませんがね、この『趙率教』、飲めば飲むほど味が出るってもんでさぁ!」
静かに、けれど確かに空気が変わった。
――低く、よく通るその声。
黒衣をまとい、外套を風に翻す、一人の男が姿を見せた。
「……あなたが、趙率教か。」
そう語りかけたのは、この砦の総指揮官。袁崇煥――広東出身の文官上がり。けれど、ただの学者ではなかった。北方戦線では「策の将」と呼ばれ、知恵と胆力で戦場を切り開く異色の軍人である。戦より政に長けていたが、どんな冷たい風にも、決して膝を折らぬ鋼のような意志を持っていた。
「はっ! その通り! 袁将軍にお目通りかない、光栄の至りですな! いやぁ、将軍の噂はかねがね! なかなかどうして、このくたびれた目でも光るものがありますぜ!」
趙率教が深く頭を下げる。
だが袁崇煥は、冷たく鋭い眼で、男の目をまっすぐに見つめ返した。
「……で? 俺のもとに来たい、という事ですか?」
「ええ、その通りで! 将軍のご采配、いつも拝見しておりますとも! いや、最近の若い衆は、どうも小手先ばかりでいけねぇ。戦ってのは、もっとこう、腹の底から湧き上がるようなもんじゃありませんか! ここなら、この老骨もまだまだ役に立ちそうですな!」
袁崇煥は眉一つ動かさない。
「口では何とでも言えます。」
「おっと、そりゃごもっとも! ですが、わたくしは口よりも体で語るタイプでしてな。この歳になっても、この体ときたら、まるで新しい酒を試すかのように、新しい戦場へ飛び込みたくてウズウズするもんですから!」
強く、まっすぐなまなざし。その目に宿るのは、命を賭ける覚悟――それが、嘘ではないことを、袁崇煥はすぐに見抜いた。
ふっ、と唇がわずかにゆがんだ。笑った、ようにも見えた。
けれど次の瞬間には、もういつもの無表情に戻っていた。
「……馬を用意してください。北の哨戒に連れていきます。生きて戻ったら、改めて話を聞きましょう。」
「へい! 御意! いやぁ、たまらんですな! こうして最前線に立たせてもらえるなんて、冥土の土産にもってこいだ! ハハハ!」
背筋を伸ばし、すぐさま馬の手綱を取る趙率教。
その背中を、近くの兵士たちが驚きの表情で見送った。
「えっ!? あの“北”って、あの北? マジかよ、そこ、幽霊出るってウワサの場所じゃん!」
「しかも狼と虎が一緒に出るとか出ないとか……! まだ嫁ももらってねえのに、死にたくねぇ~!」
わいわい騒ぐ兵たちをよそに、趙率教は微動だにせず、じっと馬の首筋をなでていた。時折、ニヤリと口角を上げるその顔には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
――そして、この老練な志士は、この日から、袁崇煥という男のもとで、生きるか死ぬかの道を歩きはじめたのである。
この二人の出会いが、やがて遼東の未来を大きく動かしていくことになるとは、まだ誰も知らなかった。