守城の名将:袁崇煥:第3章:遼東の章①
〇1621年:袁崇煥、遼東へ
遼東に到着した袁崇煥は、冷たい風に顔をしかめながらも、これから始まる大変な任務(仕事)に心を決めていました。それまで住んでいた福建での生活とはガラリと変わり、遼東の空気は彼にとってまだ慣れないものでした。
そんな中で、彼を出迎えたのは孫承宗という男でした。孫承宗は、袁崇煥と同じように戦場で名前を知られた人物で、遼東という土地での知識や経験がとても豊富でした。
「はじめまして、袁将軍。私は孫承宗と申します」
孫承宗は礼儀正しく頭を下げました。袁崇煥はその丁寧な態度に敬意を払い、同じように挨拶を返しました。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です、孫将軍。遼東に来てまだ間もないですが、今後ともご指導いただけると嬉しいです」
孫承宗はにこやかに笑いました。
「こちらこそ、お手伝いできることがあれば何でもお申し付けください」
少しの間、沈黙が流れると、袁崇煥は言いました。
「さて、まずは昨年のサルフの戦いについてお話を伺いたいと思います。あの敗北がどうして起こったのか、その理由をしっかり見極めることが、私たちの今後の戦いの勝敗を決めることになると考えています」
孫承宗は眉をひそめ、しばらく考え込んだ後、真剣な表情で答えました。
「確かに、サルフの戦いは私たちにとって、とても悔しい敗北でした。原因としては、兵士たちの協力が足りなかったこと、指揮官たちの間で情報がうまく伝わっていなかったこと、そして敵である女真族の馬に乗った兵士たちへの対策が不十分だったことが挙げられます。彼らは素早く、そして圧倒的な力で私たちを打ち破ったのです」
袁崇煥は黙って聞いていましたが、やがて低い声で言いました。
「その女真族の恐ろしさについても、きちんと対策を考えなければなりません。あの速さと強さには、他の民族にはない特別な訓練や技術があるのでしょうか?」
孫承宗はうなずきながら、さらに話を続けました。
「はい。女真族の戦士たちは、馬に乗る技術が非常に高く、その動きはまるで一つになったかのようです。また、彼らの武器もとても切れ味が鋭く、鋼鉄のように強いことが、戦場での恐ろしさをさらに増やしています」
その話を聞き、袁崇煥は鋭い目で孫承宗を見ました。
「なるほど。その情報はとても貴重です。私も今後、女真族に対してどのように戦うべきか、じっくり考えなければなりません」
孫承宗は袁崇煥の深い洞察力(物事を見抜く力)に感心し、軽く笑みを浮かべました。
「さすがです、袁将軍。あなたのような優れた戦略家(作戦を考える人)がこの地に来られたことを、私たちは心から歓迎しています」
その言葉に、袁崇煥は軽くうなずくと、真剣な顔つきで言いました。
「恐れ入ります。私もまだ学ぶべきことが多いと感じています。今後ともよろしくお願い申し上げます」
二人の間に、静かな決意が流れるのを感じました。
______________
1621年:北京での訴えと新たな同盟
1621年の北京の冬は、しんと冷え込んでいました。
朝廷の大広間には、豪華な服を着た役人たちがずらりと並んでいます。しかし、その中に、周りとは少し違う、ひときわ目立つ男が一人いました。
その名は袁崇煥。
広東という南の地方の出身です。試験に合格して役人になり、今は北の端にある遼東という戦場で活躍する、武術も知識も兼ね備えた男です。顔つきはきつく、眉間には深いしわがあります。声も低くて渋い(しぶい)です。
彼は静かに一歩、前へ出ました。
「遼東は、今にも崩れそうです。 満洲――いや、後金の軍が、鉄の波のように押し寄せてきています。 今、手を打たなければ、北京までもが、火に包まれてしまいますよ」
ザワザワと、朝廷の偉い役人たちがざわめきました。
「そ、そんなことあるか!あの遼東なんて、端っこの一部にすぎない!皇帝のいる場所が奪われるなんて…」
「お黙りください。そのような甘い考えではいけません」 袁崇煥はぐいっと前へ出て、床に剣を突き立てました。
「戦場に立ったこともない者が、机の上で国のことをあれこれ言うべきではありません。 遼陽も、広寧も、すでに敵の手に落ちつつあります。 このままでは、山海関さえ破られるのは時間の問題です」
役人たちは息を飲みました。 そのとき、一人の年老いた役人がスッと立ち上がりました。
「おっしゃる通りですな。袁将軍の言葉には道理があります。 あの土地を守るには、ただの鉄では足りません。 外国の新しい大砲――紅夷大砲を取り入れるべきでしょう」
声をかけたのは、徐光啓です。 彼は天文学や農業の知識、そして西洋の知識にも詳しい、役人の中でも特に変わった才能を持つ偉い人でした。
「徐殿、紅夷大砲は手に入りますでしょうか?」 袁崇煥がゆっくりと尋ねました。
「もちろんです。ただの鉄ではありません。火の神を呼ぶ大砲ですよ。遼東の城壁を埋め尽くすほど揃えてみせましょう」 そう言って、徐光啓はにっこり笑いました。
「それは頼もしいです。遼東の城に火を噴く龍の口を並べて、女真族に見せつけてやりましょう!」 袁崇煥がそう応じると、二人はニヤリと笑い合いました。
「満州の恐ろしい鳥たちを、燃え盛る炎で焼き尽くすか。やつらは朱雀の怒りを知ることになるでしょうね…」 徐光啓はクルリと振り返ると、他の役人たちに向き直りました。
それを見ていた袁崇煥は、胸を張り顔を上げました。
「大砲、砲弾、火薬全ての準備が必要です。徐殿にお任せします。 私は遼東を火の海にして、敵を迎え撃つ準備を進めます」
二人の目が合いました。 まるで北風の中で燃えるたいまつのように、同じ熱い思いがそこにはありました。
「やれやれ。いくらかかるやら、頭が痛いですな」 徐光啓は肩をすくめました。
「戦いは気持ちだけでは勝てません。…ですが、勝たなければ、人々が苦しみます」 袁崇煥はそれだけを言って、背を向けました。
その冬、明の国で、ある二人の間の強い同盟が静かに生まれたのです。
________________________________
1621年:遼東の守り、寧遠城
1621年、明という国は、今、大きな危機に直面していました。
東北の果てにいる女真族──中でも、その中でも特に強い力を持つ「後金」という集団をまとめたのが、ヌルハチという男です。かつてはただの一つの部族のリーダーにすぎなかったヌルハチは、今や何十万人もの馬に乗った軍隊を従え、明の北の地域を脅かしていました。
その頃、北京の東に広がる遼東地方では、明の守りを強くすることが急ぎの課題となっていました。そこへ現れたのが、袁崇煥という若い役人(武官)でした。彼は学問に優れた学者(儒者)でもありながら、剣も戦術も心得ている、まさに文武両道の人物でした。
そんな袁崇煥の前に立ちはだかったのは、すでに遼東の守りを任されていた、明の有名な将軍、孫承宗です。
孫承宗は、明の中央政府から派遣された偉い役人で、政治の手腕にも優れた人物でした。その実力は国中にも知られていました。ちなみに、孫承宗は、袁崇煥よりもかなり年長です。二人の年齢差は21歳ほど離れていました。
ある日、二人は山海関の軍隊の宿舎で顔を合わせました。山海関は、中国本土と満洲を隔てる、いわば「最後の門」です。
「どうだ、袁将軍。君の力で、この遼東を守れるか?」
孫承宗がそう言ったとき、その目はまるで武士の腕前を試すかのように鋭かったのです。
袁崇煥は、少しも動じませんでした。
「守ることはできます。しかし、問題はどれだけの間、それを持ちこたえられるかです」
その返答に、孫承宗は軽く目を見張りました。
「君の言うとおりだ。ヌルハチは、もはやただの野蛮な民族ではない。頭を使うことにも長けていて、人々の心をつかむ方法も知っている。準備万端でも、彼の軍が襲ってきたら、正直どうなるかわからない」
「だからこそ、負けられないのです」 袁崇煥の声には、一切の迷いがありませんでした。
こうして二人は、遼東の守りを固めるため、新しい防衛拠点を建設することになりました。これは、敵からの攻撃を防ぐ場所の事です。その一番大切な場所となるのが、寧遠城です。
寧遠城は、山海関から外へと突き出した、最前線の要塞です。城壁の高さは10メートルを超え、厚さも下の方で9メートル以上、上の方でも7メートルを超えるという、とても頑丈な城でした。東西南北に設けられた巨大な門が、四方をにらむようにそびえ立っています。
「これで、遼東の守りは大きく変わる」
孫承宗は、寧遠城の完成を見届けながら、そう言いました。しかしその表情には、どこか余裕を装ったようなものがありました。
「君の任務は、これで終わりではないぞ。戦いの準備を整えるだけでなく、その先を見なければならない」
袁崇煥は、何も言わずに城壁を見つめた後、ぽつりと言いました。
「これで完璧とは言えません。しかし、まずはこの地を守る。それが始まりです」
孫承宗は、思わず笑いました。
「君は冷静だな。だが、それこそが、今この国に必要な強さかもしれない」
そのとき、二人の目がふと交わりました。
言葉にはしませんでしたが、そこには「信頼」と呼ぶにふさわしい何かが生まれていました。
「守るだけではいけません」 袁崇煥が、静かに続けます。 「遼東を本当に安定させるには、何かを変えなければなりません」
「君のその言葉を、私は信じよう」 孫承宗は、力強くうなずきました。
「君と共に戦えること、それだけでも心強い」
「勝たなければ、この地は守れません」 袁崇煥のその言葉は、静かでありながら、鋼のような強い意志を宿していました。
そして、風が吹きました。遼東の空は重く曇っていましたが、その中にも、わずかな光が差し込んでいるように思えました。
やがて、寧遠城は女真族との戦いの中で、本当の強さを発揮することになります。ですがそれは、まだ先の話です──。