表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/42

守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章⑦

◯1619年(万暦〈ばんれき〉47年)


・アブダリ・フチャの戦い


今からおよそ400年くらい前の1619年、空はまるで大きな鉛の板をかぶせたように、ずっしりと曇っていました。春の風が北の広い土地を走り抜け、まだ冷たさを残す草を揺らしていました。


その風の中に立つ一人の男がいました。


彼の名はヌルハチ。女真族のリーダーで、後に「清」という国を作る「後金」という新しい国の王様です。


ヌルハチは若い頃からたくさんの戦いを重ね、少しずつ力を広げてきました。そして今、ついに巨大な中国の帝国、みんに対して、真正面から戦いを挑もうとしていたのです。


しかし、敵はとても強大でした。


________________________________


・明の将軍、劉綎りゅう・てい


明軍の指揮を執っていたのは、劉綎りゅう・ていという武将でした。彼は中国の南方での戦いで名前を上げていた、とても強い将軍です。


長いあごひげに、どこか明るい笑顔を浮かべた顔つき。しかし、その実力は本物でした。


「さあて…この山道の向こうには、ヌルハチの城があるって話だ。行くぞお前ら、敵の首を取って勝利を祝おう!」


劉綎がそう叫ぶと、そばにいた副官の周金しゅう・きんが、調子よく笑いながら馬を並べました。


「へっへ、敵の首の数で隊ごとのご褒美が決まるってんなら、うちの隊が一番に決まってるってもんですよ!」


しかし、その背後で、劉綎の目は険しく細められていました。


北の空をじっと見つめます。


…何かが来る。


武士としての本能がそう告げていたのです。


________________________________


・ヌルハチの息子たちの活躍


一方、その北の方。


ヌルハチは自分の本陣に立ち、鋭い目で戦場の地図をじっと見ていました。


「ダイシャン(次男)──お前に正面を任せる。わかっているな?」


「はい、父上」


ダイシャンは真面目な性格で、父親からの信頼も厚い息子でした。兄弟の中でも特に指揮能力に優れていて、兵士たちのやる気も高かったのです。


その弟、ホンタイジはまだ若かったのですが、早くも軍を動かす才能が光っていました。


「兄貴、俺に側面を任せてくれよ。戦いの血が騒いできたぜ!」


笑いながら剣を背負うホンタイジに、ダイシャンは肩をすくめて答えました。


「無茶するなよ。お前が突っ込んで死んだら、父上に怒られるのは俺なんだからな」


________________________________


・運命の激突と劉綎の死


そして──運命の日。


3月4日。アブダリという広い平地で、両方の軍隊はついに激しくぶつかり合いました。


ヌルハチは、三つの方向から敵を囲む作戦をとりました。


正面はダイシャンの軍。


側面からはホンタイジが馬に乗った兵隊を率いて回り込み、


そしてベテランの将軍、費英東ひえいとう──通称フルハンが後ろから追い討ちをかけました。


「なっ、三方向から囲まれただと!?バ、バカな…!」


劉綎は顔色を変えました。


副官の周金が血相を変えて駆け寄ります。


「し、司令官殿!どうしましょう!?このままじゃ…!」


「…ここまでか」


劉綎は空を仰ぎ見ました。そこには、ただ灰色の雲が流れているだけでした。


彼はその数時間後、敵の槍に倒れ、命を落としました。


________________________________


・朝鮮軍の降伏


その頃、戦場の南では、朝鮮軍が別の部隊としてフチャという村に駐屯していました。


指揮していたのは、朝鮮の将軍、姜弘立きょう・こうりつです。彼は文武両道の名将で、冷静に戦いを考える人でした。


「弓隊、前進!鳥銃隊は後ろ!長い槍で前を固めろ!」


「おうっシャー!任せてください!」


部下の一人が威勢よく叫び、隊列を整えました。


しかし──突然、強い風が吹きました。


鳥銃(火縄銃)の火薬の煙が風に巻き上げられ、戦場が真っ白にかすんでしまいました。


「うわっ、前が見えねぇ!」


その一瞬を、ホンタイジは見逃しませんでした。


選りすぐりの馬に乗った兵隊が、白い煙を突き抜けて、朝鮮軍の最前線をめちゃくちゃに踏みつけました。


視界が戻った時には、もう前線は崩れ、隊列は乱れていました。


________________________________


夜になると、姜弘立の本隊5千人は、完全に孤立してしまいました。


そこへ、ヌルハチ軍から使者が来ました。


「将軍、これ以上は無駄死にです。降伏することをお決めください」


静かに告げられた言葉に、姜弘立はしばらく目を閉じ…


やがて、唇をかみしめながら、降伏することを決意しました。


________________________________


・明軍の壊滅


この知らせを聞いた、明軍の生き残りたちはひどく落ち込みました。


李如柏り・じょはく──遼東を支えてきた有名な将軍の一人──は、怒りと絶望に震えながら叫びました。


「朝鮮までが…!」


やがて、彼らの多くは自ら命を絶ってしまいました。


こうして、明の東北戦線を守ってきた東南路軍は、完全に壊滅したのです。


________________________________


・戦いの結果とヌルハチの視線


アブダリ・フチャの戦い。


それは、ただの一つの戦いではありませんでした。


明の将軍である劉綎、李如柏、杜松、馬林──この戦線を守っていた主要な将軍たちが、すべてこの戦いでいなくなってしまいました。


後金の勢力は、この勝利によって一気に大きくなりました。


その夜。


ヌルハチは、赤々と燃えるかがり火の前で、一人でお酒を飲んでいました。


その目には、戦いの炎に焼かれた空が映っていました。


「…戦いとは、こうあるべきものだ」


誰にともなくつぶやいた声は、夜風にさらわれていきました。


そして彼の背後では、次の戦いに備えて、武器を磨く音が静かに響き渡っていたのです。


________________________________



◯1619年(万暦四十七年)──


新星しんせい現る!袁崇煥えん・すうかんの登場


今からおよそ400年くらい前の1619年、白い煙がゆっくりと空へ昇っていました。


ここは、中国の南にある福建ふっけんという場所です。


その城下町のはずれにある、兵士たちが寝泊まりする場所の片隅で、一人の男が静かにたばこの煙をくゆらせていました。


彼の名は、袁崇煥えん・すうかん


若いみんの役人(武官)です。学問も武術も得意な才能ある人で、戦いの道に進むことを決めた男でした。


顔つきは厳しいですが、心の奥には熱く燃える正義の炎が灯っていました。口数が少なく、感情をあまり表に出しませんが、秘めた思いは人一倍強いのです。


この日も彼は、机の上の報告書をじっと見ていました。山のように積まれた紙を、眉間にしわを寄せながら、一枚ずつ読み進めていました。


そんなとき──


「隊長〜〜〜〜っ!!大変なことになりましたぁああああ〜〜〜っ!!」


兵士たちの宿舎の門の向こうから、へとへとになった大きな声が聞こえてきました。


駆け込んできたのは、袁崇煥の副官です。


彼は小柄で臆病、そそっかしくてよくつまずくのですが、どこか憎めない性格で、兵士たちの間ではムードメーカーでもありました。


袁崇煥は、たばこの火をポンと指で弾いて消すと、静かに口を開きました。


「…何があった」


「ひええ…。ぬ、ヌルハチがっ…!サルフ(さるふ)でぇええ…!!」


息を切らしながら、副官は叫びました。


その様子に、袁崇煥は眉をわずかに動かしました。


「落ち着け」


短い一言でしたが、声は鋭く、静かに響きました。


副官はびくりと立ち止まり、ぺこりと頭を下げました。


「す、すいません…。えっと、ですね…サルフの戦いで、明軍が、ぐっちゃぐちゃに負けたんです!」


「…なんだと」


袁崇煥の目が、細く鋭くなりました。


________________________________


明の惨敗さんぱいと袁崇煥の決意


サルフ。それは、遼東りょうとうの北にある地名で、今の中国東北地方にあたります。


この地で、明の大軍が壊滅ひどくやられることしたという知らせは、遠く離れた福建の隅々にまで届いていました。


敵は、ヌルハチ。北方の異民族、女真族の王であり、新しく「後金」という国を立ち上げた、数々の戦いを経験してきた恐ろしい武将です。


年を取っても衰えを知らず、自ら馬に乗って最前線に立つという、とてつもない強さの持ち主でした。


サルフの戦いでは、明軍の四つの方面軍がバラバラに動き、互いに助け合うこともなく、完全に分断されてしまいました。


しかも、最初にやられたのは、かつて武勇を誇った明の偉大な将軍、楊鎬よう・こうが率いる本隊でした。


明軍は崩れ、後金軍に一方的に蹴散らされたのです。


袁崇煥は、何も言わずに空を見上げました。


「…俺がいたら、あんなみっともない真似は…しなかった」


唇をかみ、拳を固く握りしめます。


爪が手のひらに食い込み、うっすらと血がにじんでいました。


「た、隊長ぉ〜〜っ…!ちょっ、ちょっと!指ぃ、血が出てますよ〜〜!!」


副官が、涙目で自分の袖を差し出しました。


しかし、袁崇煥はそれを静かに払い、目を伏せたまま立ちつくしていました。


________________________________


遼東りょうとうへの旅立ち


──そして翌朝。


兵士たちの宿舎に、一人の使者(使いの者)が馬に乗って駆け込んできました。


「袁将軍!急な知らせでございます!遼東への赴任ふにんが、ついに決まりました!」


その声に、副官は驚きで仰天しました。


「へえええええええっ!?りょ、りょ、遼東って…あの、あのヌルハチのいる、あの遼東ですか!?えっ、ええ〜〜〜っ!!?」


袁崇煥は、そっと目を閉じ、空を見上げました。


東の空には、分厚い雲が垂れ込めていました。


風が、ひゅうと吹きます。まるで、戦いの匂いを運んでくるかのようでした。


「…俺は行く。準備しろ」


「へっ!?え、今ですか!?今って、あの、マジですか!?本当に遼東に行くんですか!?あんな恐ろしい所に〜〜!?」


袁崇煥の目は、真っすぐでした。


一点の曇りもなく、迷いなど、かけらもありませんでした。


「…俺が行かねば、誰が行く」


その言葉に、副官は思わず見上げました。


胸の奥が、キュンと熱くなりました。


「…隊長、カッコいいです…。」


こうして──


若き将軍・袁崇煥は、戦乱の地、遼東へと旅立ちます。


この時、彼の肩には、国の未来と、仲間たちの命が懸かっていました。


ですが──これは、ほんの始まりにすぎません。


このあと彼は、満桂まん・けい祖大寿そ・だいじゅ趙率教ちょう・そっきょう何可綱か・かこう李九成り・きゅうせいといった仲間たちと出会い、死闘しとうをくぐり抜けていくことになります。


そして、ヌルハチとの因縁の戦いが、いま幕を開けたのです──。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ