守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章⑦
◯1619年(万暦〈ばんれき〉47年)
・アブダリ・フチャの戦い
今からおよそ400年くらい前の1619年、空はまるで大きな鉛の板をかぶせたように、ずっしりと曇っていました。春の風が北の広い土地を走り抜け、まだ冷たさを残す草を揺らしていました。
その風の中に立つ一人の男がいました。
彼の名はヌルハチ。女真族のリーダーで、後に「清」という国を作る「後金」という新しい国の王様です。
ヌルハチは若い頃からたくさんの戦いを重ね、少しずつ力を広げてきました。そして今、ついに巨大な中国の帝国、明に対して、真正面から戦いを挑もうとしていたのです。
しかし、敵はとても強大でした。
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・明の将軍、劉綎
明軍の指揮を執っていたのは、劉綎という武将でした。彼は中国の南方での戦いで名前を上げていた、とても強い将軍です。
長いあごひげに、どこか明るい笑顔を浮かべた顔つき。しかし、その実力は本物でした。
「さあて…この山道の向こうには、ヌルハチの城があるって話だ。行くぞお前ら、敵の首を取って勝利を祝おう!」
劉綎がそう叫ぶと、そばにいた副官の周金が、調子よく笑いながら馬を並べました。
「へっへ、敵の首の数で隊ごとのご褒美が決まるってんなら、うちの隊が一番に決まってるってもんですよ!」
しかし、その背後で、劉綎の目は険しく細められていました。
北の空をじっと見つめます。
…何かが来る。
武士としての本能がそう告げていたのです。
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・ヌルハチの息子たちの活躍
一方、その北の方。
ヌルハチは自分の本陣に立ち、鋭い目で戦場の地図をじっと見ていました。
「ダイシャン(次男)──お前に正面を任せる。わかっているな?」
「はい、父上」
ダイシャンは真面目な性格で、父親からの信頼も厚い息子でした。兄弟の中でも特に指揮能力に優れていて、兵士たちのやる気も高かったのです。
その弟、ホンタイジはまだ若かったのですが、早くも軍を動かす才能が光っていました。
「兄貴、俺に側面を任せてくれよ。戦いの血が騒いできたぜ!」
笑いながら剣を背負うホンタイジに、ダイシャンは肩をすくめて答えました。
「無茶するなよ。お前が突っ込んで死んだら、父上に怒られるのは俺なんだからな」
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・運命の激突と劉綎の死
そして──運命の日。
3月4日。アブダリという広い平地で、両方の軍隊はついに激しくぶつかり合いました。
ヌルハチは、三つの方向から敵を囲む作戦をとりました。
正面はダイシャンの軍。
側面からはホンタイジが馬に乗った兵隊を率いて回り込み、
そしてベテランの将軍、費英東──通称フルハンが後ろから追い討ちをかけました。
「なっ、三方向から囲まれただと!?バ、バカな…!」
劉綎は顔色を変えました。
副官の周金が血相を変えて駆け寄ります。
「し、司令官殿!どうしましょう!?このままじゃ…!」
「…ここまでか」
劉綎は空を仰ぎ見ました。そこには、ただ灰色の雲が流れているだけでした。
彼はその数時間後、敵の槍に倒れ、命を落としました。
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・朝鮮軍の降伏
その頃、戦場の南では、朝鮮軍が別の部隊としてフチャという村に駐屯していました。
指揮していたのは、朝鮮の将軍、姜弘立です。彼は文武両道の名将で、冷静に戦いを考える人でした。
「弓隊、前進!鳥銃隊は後ろ!長い槍で前を固めろ!」
「おうっシャー!任せてください!」
部下の一人が威勢よく叫び、隊列を整えました。
しかし──突然、強い風が吹きました。
鳥銃(火縄銃)の火薬の煙が風に巻き上げられ、戦場が真っ白にかすんでしまいました。
「うわっ、前が見えねぇ!」
その一瞬を、ホンタイジは見逃しませんでした。
選りすぐりの馬に乗った兵隊が、白い煙を突き抜けて、朝鮮軍の最前線をめちゃくちゃに踏みつけました。
視界が戻った時には、もう前線は崩れ、隊列は乱れていました。
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夜になると、姜弘立の本隊5千人は、完全に孤立してしまいました。
そこへ、ヌルハチ軍から使者が来ました。
「将軍、これ以上は無駄死にです。降伏することをお決めください」
静かに告げられた言葉に、姜弘立はしばらく目を閉じ…
やがて、唇をかみしめながら、降伏することを決意しました。
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・明軍の壊滅
この知らせを聞いた、明軍の生き残りたちはひどく落ち込みました。
李如柏──遼東を支えてきた有名な将軍の一人──は、怒りと絶望に震えながら叫びました。
「朝鮮までが…!」
やがて、彼らの多くは自ら命を絶ってしまいました。
こうして、明の東北戦線を守ってきた東南路軍は、完全に壊滅したのです。
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・戦いの結果とヌルハチの視線
アブダリ・フチャの戦い。
それは、ただの一つの戦いではありませんでした。
明の将軍である劉綎、李如柏、杜松、馬林──この戦線を守っていた主要な将軍たちが、すべてこの戦いでいなくなってしまいました。
後金の勢力は、この勝利によって一気に大きくなりました。
その夜。
ヌルハチは、赤々と燃えるかがり火の前で、一人でお酒を飲んでいました。
その目には、戦いの炎に焼かれた空が映っていました。
「…戦いとは、こうあるべきものだ」
誰にともなくつぶやいた声は、夜風にさらわれていきました。
そして彼の背後では、次の戦いに備えて、武器を磨く音が静かに響き渡っていたのです。
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◯1619年(万暦四十七年)──
・新星現る!袁崇煥の登場
今からおよそ400年くらい前の1619年、白い煙がゆっくりと空へ昇っていました。
ここは、中国の南にある福建という場所です。
その城下町のはずれにある、兵士たちが寝泊まりする場所の片隅で、一人の男が静かにたばこの煙をくゆらせていました。
彼の名は、袁崇煥。
若い明の役人(武官)です。学問も武術も得意な才能ある人で、戦いの道に進むことを決めた男でした。
顔つきは厳しいですが、心の奥には熱く燃える正義の炎が灯っていました。口数が少なく、感情をあまり表に出しませんが、秘めた思いは人一倍強いのです。
この日も彼は、机の上の報告書をじっと見ていました。山のように積まれた紙を、眉間にしわを寄せながら、一枚ずつ読み進めていました。
そんなとき──
「隊長〜〜〜〜っ!!大変なことになりましたぁああああ〜〜〜っ!!」
兵士たちの宿舎の門の向こうから、へとへとになった大きな声が聞こえてきました。
駆け込んできたのは、袁崇煥の副官です。
彼は小柄で臆病、そそっかしくてよくつまずくのですが、どこか憎めない性格で、兵士たちの間ではムードメーカーでもありました。
袁崇煥は、たばこの火をポンと指で弾いて消すと、静かに口を開きました。
「…何があった」
「ひええ…。ぬ、ヌルハチがっ…!サルフ(さるふ)でぇええ…!!」
息を切らしながら、副官は叫びました。
その様子に、袁崇煥は眉をわずかに動かしました。
「落ち着け」
短い一言でしたが、声は鋭く、静かに響きました。
副官はびくりと立ち止まり、ぺこりと頭を下げました。
「す、すいません…。えっと、ですね…サルフの戦いで、明軍が、ぐっちゃぐちゃに負けたんです!」
「…なんだと」
袁崇煥の目が、細く鋭くなりました。
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明の惨敗と袁崇煥の決意
サルフ。それは、遼東の北にある地名で、今の中国東北地方にあたります。
この地で、明の大軍が壊滅したという知らせは、遠く離れた福建の隅々にまで届いていました。
敵は、ヌルハチ。北方の異民族、女真族の王であり、新しく「後金」という国を立ち上げた、数々の戦いを経験してきた恐ろしい武将です。
年を取っても衰えを知らず、自ら馬に乗って最前線に立つという、とてつもない強さの持ち主でした。
サルフの戦いでは、明軍の四つの方面軍がバラバラに動き、互いに助け合うこともなく、完全に分断されてしまいました。
しかも、最初にやられたのは、かつて武勇を誇った明の偉大な将軍、楊鎬が率いる本隊でした。
明軍は崩れ、後金軍に一方的に蹴散らされたのです。
袁崇煥は、何も言わずに空を見上げました。
「…俺がいたら、あんなみっともない真似は…しなかった」
唇をかみ、拳を固く握りしめます。
爪が手のひらに食い込み、うっすらと血がにじんでいました。
「た、隊長ぉ〜〜っ…!ちょっ、ちょっと!指ぃ、血が出てますよ〜〜!!」
副官が、涙目で自分の袖を差し出しました。
しかし、袁崇煥はそれを静かに払い、目を伏せたまま立ちつくしていました。
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遼東への旅立ち
──そして翌朝。
兵士たちの宿舎に、一人の使者(使いの者)が馬に乗って駆け込んできました。
「袁将軍!急な知らせでございます!遼東への赴任が、ついに決まりました!」
その声に、副官は驚きで仰天しました。
「へえええええええっ!?りょ、りょ、遼東って…あの、あのヌルハチのいる、あの遼東ですか!?えっ、ええ〜〜〜っ!!?」
袁崇煥は、そっと目を閉じ、空を見上げました。
東の空には、分厚い雲が垂れ込めていました。
風が、ひゅうと吹きます。まるで、戦いの匂いを運んでくるかのようでした。
「…俺は行く。準備しろ」
「へっ!?え、今ですか!?今って、あの、マジですか!?本当に遼東に行くんですか!?あんな恐ろしい所に〜〜!?」
袁崇煥の目は、真っすぐでした。
一点の曇りもなく、迷いなど、かけらもありませんでした。
「…俺が行かねば、誰が行く」
その言葉に、副官は思わず見上げました。
胸の奥が、キュンと熱くなりました。
「…隊長、カッコいいです…。」
こうして──
若き将軍・袁崇煥は、戦乱の地、遼東へと旅立ちます。
この時、彼の肩には、国の未来と、仲間たちの命が懸かっていました。
ですが──これは、ほんの始まりにすぎません。
このあと彼は、満桂、祖大寿、趙率教、何可綱、李九成といった仲間たちと出会い、死闘をくぐり抜けていくことになります。
そして、ヌルハチとの因縁の戦いが、いま幕を開けたのです──。