守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章⑥
◯1619年(万暦47年)
・明の大反撃!
春、雪が溶けて、氷が音を立てて崩れ落ちる季節です。戦いの太鼓の音が、大地を揺らし始めました。
中国の明という国は、ついに本気を出しました。敵は、ヌルハチ。彼は、満州の北に住む女真族を一つにまとめ、「後金」という新しい国を作った、野心あふれる男でした。
「10万人もの大軍を動かすんだ。失敗は許されないぞ」
そう言ったのは、明の軍隊のリーダーである楊鎬です。彼はもともと役人でしたが、軍全体の指揮を執ることになりました。鋭い目つきと口元は、戦い慣れた将軍とは違いましたが、その分、頭の回転はとても速かったのです。
楊鎬は、瀋陽という場所で、軍全体を指揮していました。
「で、で、リーダー!それで…それぞれの軍の準備は、ちゃんとしているのでしょうか…?」
腰の曲がった副官が、おどおどしながら尋ねてきました。
「準備ができてないなら、戦いなんて仕掛けないさ」
楊鎬は、表情を変えずに短く答えました。
でも、実は、それぞれの将軍たちのやる気や態度がバラバラで、なかなか足並みが揃わないという噂もありました。
________________________________
四方向からの包囲作戦
明の作戦は、四つの方向からヌルハチの軍を囲んで攻撃する「包囲攻撃」でした。目標は、ヌルハチの本拠地であり、後金の心臓部である「ヘトゥアラ」という場所です。
「北は、馬林だ」
楊鎬は、地図の上に指を置きました。
馬林は、開原という場所の総兵官(司令官)です。真面目で几帳面なベテランの将軍でした。彼は、ヌルハチと敵対するイェヘ部という部族の援軍とともに、開原を出発していました。
「私の部隊に任せてくれれば、すぐに敵を蹴散らしてきますよ!」
そう言った馬林でしたが、年のせいか、体はだいぶ弱っていました。それに、彼は慎重すぎて、動きが遅いという声も出ていました。
「西は、杜松だ」
楊鎬の指が、地図の左側に滑りました。
杜松は、山海関という場所の総兵官です。お酒と剣を愛する、とても大胆な武士でした。
「俺に勝てるのは、酒だけだな!」と笑いながら、瀋陽から出陣していました。
でも、その大胆さのせいで、仲間との協力が苦手で、一人で行動してしまうこともよくありました。
「北と西は、サルフ(薩爾滸)で合流する。そこからまっすぐ、ヌルハチの心臓を狙うんだ」
「ええと、ええと、南は…?」
副官が地図の下を指しました。
「南は、李如柏だ」
彼は遼東の総兵官で、文武両道でしたが、少し優柔不断なところもある男でした。彼は遼陽から出発し、清河を越えてヘトゥアラの南から迫る計画でした。
しかし、その優柔不断さからか、準備が遅れがちで、同僚たちからため息が漏れていました。
「で、で、東南からは…」
副官の声が震えました。
「劉綎だ」
彼は遼陽のもう一人の総兵官です。勇敢なだけでなく、口の悪さでも有名でした。
「おい朝鮮軍、置いてくぞ?遅れるやつは帰ってママに泣きつきな!」
彼は朝鮮の援軍1万人を連れて、丹東のあたりから北へ向かっていました。
劉綎の強引な性格と口の悪さは、味方の不満を生んでいましたが、兵士を率いる力は確かでした。
「それぞれの道から、奴の首を取りにいく」
楊鎬は、地図の中心にある赤い丸、それがヌルハチの本拠地ヘトゥアラをじっと見つめました。
「囲むように攻めるんですね…まるで獣狩りみたいですね」
副官が口笛を鳴らしました。
「…獣にも牙はある」
楊鎬の声は低かったのです。
「なめてかかると、噛み殺されるぞ」
________________________________
この時、ヌルハチもまた、じっと地図を見つめていました。彼の目は鋭く、氷のように冷たいものでした。
「四方から来るか…獲物は、こっちだな」
明の10万人もの大軍が、四方向からヌルハチを囲もうとしています。それぞれの将軍の性格もバラバラです。これを利用して、ヌルハチは人生最大の危機を乗り越える作戦を胸の内に考えていました。
________________________________
◯1619年(万暦47年)
・サルフの戦い、夜の奇襲!
春、まだ夜は冷たく、溶け残った雪が黒く地面に残り、風が草の根を揺らしていました。
そんな静かな夜空を見上げて、一人の男が立ち上がりました。
「…来たか」
その声は低く、静かでしたが、聞く人の胸にズシンと響くような重みがありました。
その男の名前はヌルハチ。彼は「後金」という新しい国を作った、戦いの天才です。もともと女真族のリーダーでしたが、強い明の国に立ち向かい、たくさんの戦いに勝ってきました。いつも冷静で、時には冷たく、情け容赦ない決断も下す、勇敢な男です。
「リーダー、明のやつらが、ついに来ました!しかも四方八方から、ドドドッと!」
ソワソワしているのは、部下のハダ・カンギンです。彼は少し抜けているところもありますが、リーダーに忠実な若い武士でした。
「ヘトゥアラを囲むつもりか…ふん、バカなやつらめ。四方に分かれれば、逆にこちらが叩きやすい」
「な、なるほど!…って、どうするんですか!?向こうは10万人ですよ!?こっちはせいぜい2万人ですよ!?」
「一箇所で戦えば潰されてしまう。だが、バラバラに来るなら、こちらも一つずつ潰していけばいいだけだ」
ヌルハチは地図の上を指でなぞりました。指が止まったのは、サルフ山とその向かいにあるジャイフィアン山です。ここが明軍が合流すると考えられていた場所でした。
「ここで止める。まず城を築くんだ。敵が来る前に、こちらから動くぞ」
「えぇっ!?敵が来るのに城を作るんですか!?いや、戦いは好きですけど…」
ハダ・カンギンは目を丸くしながらも、すぐにヌルハチの命令に従いました。
________________________________
・短気な杜松の突進
季節が進み、雪がしんしんと降り積もる頃、明軍の進軍は遅れていました。
しかし、後金側の準備は完璧に整っていました。
そんな時、明軍の西から来る部隊の将軍、杜松が、先陣を切ってサルフ山に到着しました。彼は山海関を守る司令官で、大胆で短気な男です。
「なんだって!敵が城を作っているだと!?馬林(他の将軍)らを待つ必要はない!俺が先に攻める!」
副官が「道が悪いから休みましょう」と提案しましたが、杜松は鼻で笑いました。
「こんなことで臆病になるとは情けない。攻めろ!渾河を渡れ!」
彼は2万5千人の兵を率いてサルフ山を攻め、あっさりと奪い取りました。
「ふふん、俺が来ればこんなものさ。次はジャイフィアン山だ!」
________________________________
・ヌルハチの夜襲
しかし、そこでヌルハチが動き出しました。
彼は主力軍を率いてすでにヘトゥアラを出ていて、夕方にはサルフの南に到着していました。
「闇に乗じて奴らを討つ。火器は使わせるな。混乱を起こすんだ」
「えっ、夜の戦いですか!?無茶苦茶ですけど…燃えます!」
ハダ・カンギンの目がキラリと光りました。
ヌルハチが率いる八旗軍は、そのうち2つの部隊を別の場所に置いて敵の注意を引きつけ、残る6つの部隊でサルフに奇襲攻撃を仕掛けました。
真っ暗な夜の中、明軍は夜に攻められることをまったく予想しておらず、鉄砲などの火器も使えないまま、刀や槍を使った近い距離での戦いとなりました。
「な、なんだ!?敵がどこにいるんだ!?ぎゃあああっ!」
明軍は大混乱に陥り、あっという間にボロボロになって全滅しました。
一方、ジャイフィアン山では、明軍の主力部隊が、戦いの状況に動揺し始めていました。
「うわっ、後ろがやられてる!?こりゃヤバいぞ!」
そこへ三つの方向からヌルハチの軍が突撃してきました。ギリンハダ、サルフ、そして敵の注意を引きつけていた部隊が一斉に襲いかかったのです。
「うわあああああ!!」
その日のうちに、杜松をはじめとする明の将軍たちは全員が戦死しました。
戦いはヌルハチの完全な勝利で幕を閉じました。
「…一つ目を潰した」
そうつぶやくヌルハチは、冷静に次の勝利を見据えていました。
ヌルハチの作戦と、杜松の短気さが、この戦いの勝敗を分けたようです。これで明軍の四つの部隊のうち、一つは壊滅しました。残りの部隊はどうなるのでしょうか?
________________________________
◯1619年(万暦47年)
・馬林将軍の奮闘
今からおよそ400年くらい前の1619年、東北の空には重たい雲が垂れ込めていました。
雪解けでぬかるんだ泥を踏みしめながら、一人の男がゆっくりと振り返りました。
その男の名前は馬林。明王朝の将軍で、北から来る軍隊を率いる司令官でした。彼はとても勇敢だと評判でしたが、性格は頑固で、人に仕事を任せるのが苦手でした。部下からは恐れられ、友達からも嫌われていましたが、それでも彼はプライドが高く、命をかけて明の国土を守ることを決めていました。
「…杜松は、死んだか」
かすれた声でつぶやきました。その声には、動揺も悲しみもありませんでした。
「は、はは、はははっ、し、将軍殿、あの、ど、どうしますっ!?こ、ここは、し、撤退ではっ!?」
後ろで耳障りな声がわめきました。副将の張奇です。この男は、戦いはまるでダメでしたが、逃げ足の速さは軍隊で一番でした。口癖は「じ、命あっての、も、物種ですからっ!」でした。これは、命が大切だから、まずは生き残ることが大事という意味です。
「下がるだと?冗談はやめろ。ここが踏ん張りどころだ。泥に沈むか、泥から這い出すか…それだけだ」
馬林は目を細めました。その目つきは、まるで荒れた戦場を全て見通すワシのようでした。
彼らがいたのはシャンギャンハダという、サルフの北にある高い場所でした。3月2日、雪がちらつく中、杜松の西路軍が全滅したという知らせが、凍える風に乗って届いたのです。
「ここに塹壕を掘れ。大砲を並べろ。奴らを一歩も通すな」
兵士たちは驚きました。退くのではなく、ここで戦うというのです。しかし、馬林はすでに腰を下ろし、雪の地面に地図を広げていました。
「ど、どうかしてますってばぁ!し、将軍殿、し、死んじゃいますよぉぉ!」
「うるさい。死ぬのが怖いなら、さっさと故郷に帰って子守唄でも歌ってろ」
張奇は顔を真っ赤にして泣きそうになりましたが、それでも部下たちは動きました。馬林の言葉には、不思議な重みがあったのです。
しかし、嵐はすぐそこまで来ていました。
________________________________
・予想外の裏切りと馬林の敗走
現れたのはヌルハチ率いる後金の大軍です。ヌルハチはかつて明に仕えていた武将でしたが、今は女真族の王として八旗軍を率いて戦っています。戦場では冷酷ですが、兵士には情け深い一面もあります。彼の戦い方は容赦なく、頭の回転も速かったのです。
「…あの目つき。間違いない。あいつは本気だ」
馬林がつぶやきました。
「ひ、ひぃぃぃっ!や、やっぱり、やっぱりダメですってばあぁっ!」
張奇は馬林の背に隠れようとして、泥に転んでしまいました。
ヌルハチの作戦は見事でした。普段は、騎兵が馬を降りて歩兵として塹壕に近づき、突破した後に再び馬に乗って突撃するというのが得意技です。
しかし今回は違いました。
高い場所を占領しようとした後金軍に、馬林軍が先手を打って襲いかかったのです。
「行けっ!奴らを斜面から叩き落とせ!」
戦場はたちまち入り乱れた戦いになりました。大砲が轟き、馬が悲鳴をあげ、兵士たちの叫び声が空を裂きました。
混乱の中、馬林は刀を振るいながら叫びます。
「落ちるのは、お前たちのほうだぁっ!」
しかし、その背後。明軍の後ろにいた部隊は、まるで他人事のように動きませんでした。
「し、師匠殿!あ、あれ、う、動いてませんよっ!?な、なんでっ!?」
「あれは潘宗顔の連中か…あの野郎、俺を嫌っていたからな」
潘宗顔は明軍の中でも厄介な存在でした。冷たくてずる賢く、馬林とは犬猿の仲(とても仲が悪いこと)だったのです。
潘宗顔の援軍は結局動かず、馬林はついに負けて撤退しました。兵士たちを引き連れて、高い場所から離れたのです。
「く、くそっ…俺の力が足りなかっただけだ…!」
口の中で血を吐きながら、馬林は唇を噛みしめました。
明の将軍たちの間の仲の悪さが、戦いの結果に影響を与えてしまいましたね。ヌルハチは、明の弱点をうまく突いているようです。この後、戦いはどうなっていくのでしょうか?
________________________________