守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章⑤
◯1618年(万暦〈ばんれき〉46年) 天命〈てんめい〉3年
・明との戦いの始まり「七大恨」
今からおよそ400年くらい前、1618年の夏が来ようとしていた頃です。中国の東北地方、フルン(撫順)という場所の近くの山の中で、一人の男が静かに立ち上がりました。
その男の名前はヌルハチ。女真族のリーダーで、「後金」という新しい国を立ち上げたばかりの人でした。後に「清」という大きな国を作る、とてもすごい人物ですが、この時はまだ「よし、戦いを始めるぞ!」という合図を出したばかりでした。
彼の手に握られていたのは、一枚の紙。それは「檄文」と呼ばれるもので、人々に自分の考えを伝え、戦いを始めることを知らせる大切な手紙のようなものでした。
「――もう、我慢できない。」
ヌルハチは、低いけれどよく通る声でそう言いました。
そのそばには、ヌルハチに忠実な家来たちがいました。一人はエルデニ。頭が良くて、文書の仕事をしたりする優しい性格の男です。もう一人はガガイ。勇気があって、明るい武士でした。
エルデニが、少し不安そうに尋ねました。
「リーダー…本当に明という国と戦いを始めるのですか?」
ヌルハチは、少しだけ目を細めました。そして、手に持っていた檄文を静かに掲げました。
「私たちには、七つの恨みがあるのだ――もう、黙ってはいられない。」
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明への七つの恨み
その日、ヌルハチが口にしたのは、「七大恨」と呼ばれるものでした。それは、当時の中国を支配していた「明」という大きな国に対する、深い怒りと、血で書かれたような七つの理由だったのです。
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第一の恨み 「明は、私の父と祖父を、何も悪いことをしていないのに殺しました。その血を流された恨みは、私の胸に刻み込まれています。」
第二の恨み 「明は、国境での約束を破り、私たちを裏切りました。そこには、信頼も、礼儀もありませんでした。」
第三の恨み 「明は、私たちの使者(メッセージを伝えに行った人)を殺し、罪のない人たちが国境を越えただけでも容赦しませんでした。話し合いの道を閉ざして、残されたのは戦いだけです。」
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ガガイが、ニヤリと笑って言いました。
「それが明のやり方ですね。いつだって、自分勝手です。」
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第四の恨み 「明は、私たちの結婚を邪魔して、イェヘ部という部族との大切なつながりを引き裂きました。」
ここで言うイェヘ部とは、女真族の中でも特に力のある部族で、昔は後金と結婚を通じて手を組んでいましたが、明がそれを邪魔したのです。
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第五の恨み 「明は、私たちの土地を奪い、私たちが苦労して耕した畑から私たちを追い出しました。一生懸命働いた人々に報いもなく、剣を向けるなんてひどいことです。」
エルデニが、そっと口を開きました。
「でも、リーダー、それは…少し昔のことではないですか…?」
ヌルハチは、静かに彼を見つめました。その目は氷のように冷たかったのですが、熱い怒りをたたえていました。
「恨みは、どれだけ時間が経っても消えることはないのだ。」
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第六の恨み 「明は、私たちを見下し、イェヘ部だけを大切にしました。」
第七の恨み 「明は、天の神様の気持ちを無視して、良いことをする人を切り捨て、悪いことをする人を助けました。」
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ガガイが目を見開きました。
「つまり、すべては明が不公平なことをしたせいですね。なるほど…これは戦いになるわけです。」
ヌルハチは静かにうなずきました。
「そうだ。理屈ではない、心のままに動くのだ。」
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宣戦布告と新たな時代の始まり
その日の午後、ヌルハチは檄文を家来たちに渡しました。 「これを配って、人々に知らせなさい。これは、明への宣戦布告だ。」
エルデニがため息をつき、静かに言いました。
「…これで、私たちの進む道は決まりましたね。」
ガガイは、まるで少年のような笑顔で言いました。
「リーダー、明はきっと驚きますよ。こんなにきちんと、戦いの理由を並べられたら!」
ヌルハチの返事は冷たく、しかし力強いものでした。
「驚こうと、怖がろうと、それは敵の勝手だ。私たちはただ、戦いが正しいことを貫くだけだ。」
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こうして、「後金」は立ち上がりました。 七つの恨みは、まるで七本の矢のように、南にある明へと放たれたのです。
その矢が打ち破ったのは、ただの壁ではありません。それは、東アジアの平和な秩序そのものだったのです。
◯1618年(万暦46年)
・戦いのプロ、ヌルハチ
今からおよそ400年くらい前、1618年のことです。ヌルハチは、戦いの様子をじっと冷静な目で見つめていました。彼は、中国の北に住む女真族という部族のリーダーで、当時大きな力を持っていた明という国から、自分たちの国を独立させようとしていました。簡単な道のりではありませんでしたが、彼の決心は固かったのです。
「リーダー、ついに始まるのですか?」ヌルハチの部下であるエルデニが、少しおそるおそる尋ねました。エルデニは、いつも落ち着いていてよく考えるタイプですが、時々少し抜けているところもある人物でした。
「始めるのは私じゃない」ヌルハチは静かに答えました。その言葉のあと、彼の冷たい目にエルデニは黙ってしまいました。
「明の守りを受けているイェヘ部の城を攻める」ヌルハチはそうつぶやきました。その声は、まるで全てを計算し尽くした予言のようでした。
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・計算された勝利
最初に狙ったのは「撫順城」という城です。この城は李永芳という人が守っていて、兵士は約1000人と数は少ないものの、守りはとても固い場所でした。しかし、ヌルハチにとって、それは大した問題ではありませんでした。
「市場に参加させている女真族の仲間たちに、李永芳に嘘の知らせを送らせて、隙を狙う」ヌルハチは冷静に、部下たちに作戦を伝えました。
「それって、まるで近所の売店で伝言ゲームをするみたいですね」ガガイが冗談っぽく言いました。
「ふざけるな」ヌルハチの一言で、ガガイはすぐに黙ってしまいました。そんな間にも、ヌルハチは次の計画をどんどん進めていったのです。
数日後、ヌルハチの作戦は見事に成功しました。撫順城はあっという間に攻め落とされ、守っていた李永芳は降参しました。城が落ちる音を背に、ヌルハチは静かに目を伏せました。
「次は清河城だ」ヌルハチは静かな声で言いました。彼の目は、まだまだ先の目標を見据えているようでした。
清河城もすぐに攻め落とされました。そしてその日のうちに、ヌルハチはさらに500もの場所を攻め落としていきました。
「東州も、マゲンダン(馬根丹)も、すべて落ちました」部下の一人が報告しました。
「よし」ヌルハチは短く答えました。その声には、少しだけ満足している様子が混ざっているようにも聞こえました。
「リーダー、次はどうなさいますか?」エルデニが尋ねました。しかしヌルハチは答えませんでした。彼の目は遠く、まだ見えない未来を見つめているようでした。
ガガイが苦笑いしながら言いました。「あの人、本当に何を考えているのか分からないな。こんなに次々と城を落として、まるで連続ドラマでも見ているみたいだ。」
その冗談に、ヌルハチは一度だけ振り返りました。
「戦争はドラマじゃない」そう言って、再び冷たい目を遠くに向けました。その表情に、誰も言葉が出ませんでした。
◯1619年(万暦47年)
・ヌルハチと明の対決、いよいよ本番!
今からおよそ400年くらい前、1619年の冬が近づく頃、満州(現在の中国東北部)の北風は、とても冷たく吹き荒れていました。
ヌルハチは、満州の北に住む女真族という部族のリーダーです。長い間、たくさんの部族がバラバラに争っていましたが、ヌルハチはそれらを一つにまとめ、1616年には「ハン(王様)」という称号をもらい、「後金」という国を立ち上げました。
彼は、鋼のように冷たい目で、遼東という土地をじっと見つめていました。
「七つの恨みだ」
ヌルハチは小さな声でそうつぶやきました。
そばにいた家来のガガイが、明るく言いました。 「へ?七つですか?一つや二つじゃ足りなかったんですか?」
ガガイは見た目とは違って陽気な性格で、戦いの緊張を和らげる役目をしていました。
「七つだ」
ヌルハチは感情を表に出さず、冷静に答えました。
その「七大恨」とは、次のような内容です。
まず、明という国が自分の父や祖父をひどく殺したこと。
次に、自分たちの商人を厳しく取り締まったこと。
さらに、自分を裏切った部族をかばったことなど、全部で七つの深い恨みでした。
これらは、ヌルハチの過去や誇りに関わる、とても大切な理由だったのです。
「つまり、戦いを始める理由、ということですね?」
ガガイはからかうように笑いました。
「そうだ」
ヌルハチはすぐに答えました。その目には、冗談を言う余裕はありませんでした。
こうして、後金の大軍が動き出しました。最初の目標は、遼東にある明の大切な町、撫順でした。
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明の反撃と同盟軍
一方、明も黙ってはいませんでした。 皇帝は、楊鎬という人に遼東の仕事の責任を任せ、女真族を攻めるように命令しました。
楊鎬は、明の偉い役人で、戦いの戦略(兵法)を学んでいましたが、実際の戦いの経験はあまりありませんでした。政治には強いですが、兵士たちの気持ちをつかむのは苦手な人でした。
「兵士が足りない…お金も足りない」
楊鎬は額に汗をかきながら、計算していました。
「お金が足りないのはいつものことですよ!」
部下の一人が陽気に言いましたが、楊鎬は真顔で言いました。
「だからこそ、他の国に助けを求めるのだ」
楊鎬は大きな地図を広げ、指を滑らせながら言いました。
「北の海西女直のイェヘ部。そして…南の朝鮮だ。」
イェヘ部は、以前からヌルハチと敵対していました。女真族を一つにまとめることに反対して、自分たちの独立を守ろうとしていたので、明からの呼びかけに応じるのは当然のことでした。
一方、朝鮮です。李氏朝鮮という国の、15代目の王様である光海君は、とても大切な決断を迫られていました。
「うーむ…兵士を出すのは、ちょっと面倒だな…」
光海君は宮殿で悩んでいました。
「ですが、王様!明は昔、私たちを倭軍。つまり、日本軍から助けてくださったのですよ!」
側近が身を乗り出して叫びました。
そうです、あの文禄・慶長の役つまり、日本が攻めてきた戦いの時、明は助けに来てくれたのです。それは「再造の恩」つまり、国を立て直してくれた恩として、今も朝鮮の人々の心に深く残っていました。
「…出しなさい」
光海君はついに命令しました。
こうして、朝鮮軍1万人が鴨緑江という川を越えて来ました。指揮官は、姜弘立と金景瑞という人たちでした。
姜弘立は真面目な軍人で、金景瑞は勇ましい戦士です。二人とも、昔の戦いで活躍した経験豊富な勇者でした。
「これで、ヌルハチも驚くだろうな」
金景瑞がニヤリと笑いました。
しかしその時、ヌルハチの冷たい目が、すでに彼らをじっと見つめていることに、誰も気づいていなかったのです。