守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章③
◯1559年
満洲の奥地――森と川にかこまれた、静かな山あいにある村。
そこに、一人の赤ん坊が生まれた。
その子の名は――ヌルハチ。のちに「大清帝国」の礎を築く大人物である。
ヌルハチは、女真族のなかでも「愛新覚羅氏」の家に生まれた。彼の家は、何代にもわたって明の王朝に仕えてきた名家だった。
村の名はヘトゥアラ。山と川の恵みに育まれた、美しい地だった。
しかし――その時代、女真族の世界は、平和とはほど遠かった。
◇ ◇ ◇
「ううん、またどこかで火の手があがったぞ……」
ヌルハチの祖父が、空を見上げてつぶやいた。
この頃の女真族は、「建州女真」「海西女真」「野人女真」の三つのグループに分かれていた。それぞれの中にも、さらに細かく分かれた部族があって、互いに争ってばかりいた。
「川の上流じゃ、野人女真と海西の奴らがまたドンパチ始めたってさ」
そう話すのは。村の世話役で、おしゃべり好きなおじさん。
「やれやれ、これじゃあ市場に物も流れないよ。魚も取れないし、馬も盗まれたし……ったく、どうなってんだ!」
彼の言葉に、村の者たちはため息をついた。
だが、そうした争いを、よろこんで見ていた者もいた。
それが――明朝である。
◇ ◇ ◇
都・北京の高い楼閣の中。
「女真どもが勝手に争ってくれるのは、ありがたいのぅ」
と、笑っていたのは、明の高官。名前は陸完。兵部尚書の役職にあり、老練で冷徹な政治家だった。
「勅書をうまく使って、部族どうしに差をつければ、強くなりすぎる部族も出ぬ。うむ、これが“分断統治”というものじゃ」
「ははっ、さすがですな、尚書さま!」
家臣たちが声をそろえてうなずく。
明は、「朝貢」という制度を使って、女真の有力者たちに“恩賞”を与えていた。はじめは建州と海西のそれぞれの族長たちに、勅書を分け与える形だった。
だが、ある事件をきっかけに、この政策は変わった。
◇ ◇ ◇
「……あの**土木の変**がすべてを変えたのじゃ」
陸完は、そっと声を落とした。
土木の変とは、百年ほど前、明の皇帝がモンゴルのエセン・ハーンに捕まってしまった事件である。そのとき、明の用意した勅書が、本来渡してはいけない者の手にわたり、混乱をまねいた。
その教訓から、明はやり方を変えた。
「これからは、建州女真には五百通、海西女真には千通、一括して渡す。そうすれば、首長の力も上がって、責任も明確になろう」
「ほほう、なるほど。だが、それって……」
「うむ。部族どうしの争いが、前よりひどくなるかもしれぬ」
陸完は、苦々しく茶をすすった。
「それでも、今はこの道しかあるまい……」
◇ ◇ ◇
そのころ、まだ幼いヌルハチは、ヘトゥアラの野原で、鷹を飛ばしていた。
「いけ、ホルチュ! もっと高く!」
小さな手をふり上げる少年。その瞳は、どこまでも澄んでいた。
彼は、まだ知らなかった。
自らが、やがてこの争いに終止符を打つことになることを。
そして――女真族をまとめ、世界を揺るがす帝国を築くことになるとは。
◯1574年
ヌルハチ――のちに女真族をまとめあげ、大清帝国を築いた男である。
その幼き日は、決して平坦なものではなかった。
◇ ◇ ◇
「ヌルハチや、また薪を割ってくれたのかい?」
母の**エメチ(ヒタラ氏)**が、戸口からやさしく声をかける。
「うん。これだけあれば、今夜はおかゆもたっぷり炊けるね!」
幼いヌルハチは、にっこり笑った。額には汗が光り、まだ小さな手には、木のささくれが痛そうに浮いている。
ヌルハチは、力が強く、頭もよかった。何をやらせても覚えが早く、武術も大好きだった。朝は早く起きて馬の世話をし、昼は狩りに出て、夜には本を開いて漢字を学んだ。
そんな努力家のヌルハチを、父のタクシと母のエメチはとても可愛がっていた。
◇ ◇ ◇
だが、ある年の冬。エメチが病に倒れた。
「……おまえは、強く……生きなさい……」
最後の言葉を残して、エメチは静かに息を引き取った。
そのとき、ヌルハチはまだ九歳だった。
雪の積もる山に向かって、少年は小さな手を合わせた。
「……母上……」
涙が、白い地面に落ちた。
◇ ◇ ◇
それからまもなく、父のタクシは新しい妻を迎えた。
けれど――ヌルハチと継母は、まったく気が合わなかった。
「何をそんなにエバっているのさ、ただの子どもなのに」
継母の言葉は、いつも冷たく、意地悪だった。父も次第に、継母の言いなりになっていった。
十四歳のある朝。ヌルハチは、そっと荷物をまとめ、家を出た。
目指すは――母の父、つまり祖父である**王杲**のもと。
◇ ◇ ◇
王杲は、建州女真の中でも力ある武将で、「都督」という高い位にあった。
「おお、よく来たな、ヌルハチ!」
祖父は、孫を両手で迎え入れた。
王杲は、文武にすぐれた人物だった。漢字も読み書きでき、戦の作法にも詳しかった。
「よいか、ヌルハチ。武芸はただの力試しではない。心を鍛える道だぞ」
王杲はそう言って、弓の持ち方や馬の乗り方を、手とり足とり教えてくれた。
ヌルハチは、夢中で学んだ。
祖父の教えが、のちの彼の土台を作ったのだった。
◇ ◇ ◇
けれど、時代の風は、そう長くは穏やかに吹いてはくれなかった。
ある年、一五七四年。
王杲が、ついに明に対して兵を上げたのだ。
「もう我らの誇りを、踏みにじらせてはならぬ!」
だが、その戦いは無惨な敗北に終わった。
王杲は捕らえられ、北京に送られ――やがて処刑された。
◇ ◇ ◇
その戦の混乱の中、ヌルハチも捕まりかけた。
しかし、かろうじて逃げのび、父が住む故郷に戻った。
心も体もボロボロだった。
そんなヌルハチの心を癒やしたのは――**ハハナ・ジャチン(トゥンギャ氏)**という娘だった。
彼女はタブンバヤンという有力な一族の娘で、静かで気の強い女性だった。
「……あなたは傷ついている。でも、負けないで」
二人は結ばれ、夫婦となった。
だが、平穏な暮らしはまたもや続かなかった。
父タクシは、後妻とその娘に心を奪われ、ヌルハチに冷たくあたるようになったのだ。
「この家には、もう居場所がない……」
ヌルハチは、ふたたび家を出た。
◇ ◇ ◇
それからの暮らしは、決して楽ではなかった。
山に分け入り、人参や薬草をとって細々と生きる日々。
けれど、ヌルハチの目は、いつも遠くを見ていた。
「……このままじゃ、終われない」
そう決意した彼は、遼東で名を上げていた総兵――**李成梁**の軍門をたたいた。
若きヌルハチは、弓術・馬術にすぐれ、何より胆がすわっていた。
李成梁は、初めて彼を見たとき、こう言った。
「ほう……この若者、ただ者ではないな」
ヌルハチは、ふたたび、運命の階段をのぼりはじめたのであった。
◯1583
ヌルハチ、国を起こす(前篇)
冬の終わりが近づいても、辺境の風はなお鋭く頬を裂くようでございました。
その日、若きヌルハチ殿は、馬上にあってただひとり、李成梁の陣営へと歩を進めておりました。
「父が、そして祖父が……誤って殺されたと、申されるのですか?」
唇を強く噛みしめたお顔には、怒りも悲しみも超えた無音の焔が、ただ揺れておりました。
李成梁将軍は困惑の色を隠せぬまま、文書を差し出して申されます。
「これは朝廷の勅書である。お前に都督の位を与えることが決まった。馬も、布も、金も――誠意の証として受け取ってくれ。誤殺であった。断じて、お主らを謀ったわけではない」
けれど、ヌルハチ殿はかぶりを振られました。
「真に誤殺であれば、手引きしたニカン・ワイランの身柄をお渡しいただきたく存じます。それこそが、誠意の証でございましょう」
すると、李将軍の唇が歪みました。
「欲深い奴め。既にお前には城も位も与えておる。ニカンが欲しいだと?――ならば、いっそ城を与えてニカンを主君として仰がせてくれよう!」
それが、明の者どもの返答でございました。
このひと言が、女真諸部の風向きを大きく変えたのでございます。
アシハ(愛新)部の中には、明の意を受けてニカンに靡く者が相次ぎました。
大伯父らまでもがその流れに乗り、ヌルハチ殿を「厄介者」「戦争の火種」と見做すようになってゆきます。
しかし、殿は怯まれませぬでした。
サルフのノミナ公、ギャムフのガハシャン公――共にニカンを快く思わぬ領主方との密約を以って、殿はひとつの誓いを結ばれます。
「父と祖父の遺志、そして我が女真の未来を、わたくしが継ぎましょうぞ」
手元にあるのは、亡き父・タクシ公の形見である十三の甲冑と、わずかばかりの兵のみ。
されどその双眸に燃ゆるは、国を起こさんとする強き志。
――この年、殿は齢二十五にて、国取りの道へと歩み出されたのでございました。