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守城の名将:袁崇煥:第2章:宿敵の章②

◯1618年(万暦46年)


 袁崇煥えん・すうかんはついに官僚としての第一歩を踏み出し、福建ふっけん地方の地方官としての任命を受けることとなった。彼の胸には、単なる官僚としての道ではなく、もっと大きな野心があった。


 「これが俺の新しい舞台か…。」


 袁崇煥は福建の大地を踏みしめながら、心の中で思った。名声を手にした進士しんしとして、今後の自分の進むべき道を模索していたが、ひとつだけ明確にしていたことがある。それは、軍事に対する強い関心だった。


 「この地でも、兵を育て、守りを固め、強い軍を作り上げる。そのためには、まずは現場を知ることが必要だ。」


 彼はすでに官僚としての任務に従事しながらも、福建ふけんの治安や軍事的な問題に積極的に関わるようになった。地元の軍事的な強化や防衛に力を入れ、まるで将軍のような立ち振る舞いを見せていた。


 だが、そんな彼に妻、黄青桂こう・せいけいはいつも心配そうな表情を浮かべる。


 「アナタ、お願いだから、無茶はしないで。」彼女は深刻な面持ちで言った。「あなたは官僚としての道を歩むべきよ。将軍なんて危険な道は避けて、もっと安定した道を選んでほしい。」


 袁崇煥は妻の言葉に微笑みながら答える。「わかっている、青桂せいけい。だが、俺はただの官僚に収まるつもりはない。どんなに時が過ぎても、戦のこと、兵のこと、忘れることはできないんだ。」


 「でも…」黄青桂こう・せいけいはため息をつき、目を伏せた。「あなたが将軍になれば、戦の最前線に立つことになる。私はあなたを失いたくない。」


 袁崇煥は少しの間、沈黙した後、静かに言った。「青桂せいけい、俺はその覚悟で言っているんだ。もし俺が将軍になったとしても、必ず家族を守る。お前を守る。それを誓う。」


 その言葉には、真剣な気持ちが込められていた。しかし、黄青桂こう・せいけいはそれでも簡単に納得できなかった。彼女は、愛する人が危険な道に進むことをどうしても受け入れられなかったのだ。


 「あなたが無事でいることが、私の一番の願いなのよ。」黄青桂こう・せいけいは涙を浮かべながら言った。


 袁崇煥は妻を優しく抱きしめ、言った。「青桂せいけい、君の気持ちはよくわかっている。だが、俺の決意は固い。軍人になるというのは、ただの夢じゃない。俺にとっては使命なんだ。」


 その言葉が、黄青桂こう・せいけいの胸に深く刻まれた。彼女は静かに頷いたが、その目にはまだ不安の色が残っていた。


 袁崇煥はその後も福建での任務に全力を尽くし、軍事について論じることが増えていった。彼の心の中では、将軍として戦うことが常に存在していた。そして、彼の周囲も次第にその決意を感じ取るようになった。



◯1618年(万暦46年)


 福建ふっけん――南国の湿った風が、ゆるやかに吹いていた。


 その港町の小高い丘に、ひとりの男が立っていた。


 袁崇煥えん・すうかん。三十歳。広東かんとんの書生あがり。科挙かきょに合格し、いまはみん朝の地方官である。


 だが、彼はただの文官ではなかった。剛毅ごうきで、沈着冷静。貧しき民の味方となるべく、正義を背負って生きる男。口数は少なく、目つきは鋭い。


 そんな彼が、いま、福建の任地にやってきたのだ。


「……潮の匂いが濃いな」


 そうつぶやいたとき、後ろからばたばたと小走りに女がやって来た。


「ちょっと、袁さまぁ〜! 荷物、重いんですけどぉ!」


 黄青桂こう・せいけい。袁の妻。陽気でよくしゃべる、食いしん坊の若奥様である。年は二十代半ば。あざなは“せい”、笑い声は港のカモメ並みに高かった。


「ねぇねぇ、福建って、ほんとに“うまいもんの宝庫”って聞いたんだけど? ね? ね?」


「……まずは腹を満たす。それからだ」


 彼は民家の台所に戻ると、持参した資料と聞き込みで調べた品々を並べはじめた。


牡蠣かき魚丸ぎょがん佛跳牆ぶっちょうしょう……福建料理は、素材の持ち味を活かす。味付けは、濃くない。だが深い」


「ふぉ、ふぉっちょーしょー? え、それなんですか、なんかお経みたい!」


「精進料理だ。香りが強く、坊主ぼうずも跳ねてくるほどだ……」


「え? お坊さんが跳ぶ!? それって……反則級じゃないですか! 食べていいの、これ?!」


「……だから名物なのだ」


 ふたりで笑い合いながら、小鍋で花生湯ふぁーしゃんたんを煮はじめる。ピーナッツと砂糖で作る甘いスープ。福建の冬に欠かせない。


 だが――彼の目は、笑っていなかった。


 鍋の湯気の向こうに、沈む太陽を見つめるその目は、じっと町を観察していた。


 福建の港はにぎわっていた。商人が声を張り、船がひっきりなしに出入りしていた。けれど、どこかおかしい。


「……海賊が多すぎる。しかも、捕まる様子がない。妙だ」


 書類に目を通すと、税収の数字が不自然に少なかった。倉庫の帳簿と現物が合わない。港の警備隊長は酒に酔い、役所の机は油と賄賂でぬめっていた。


「この町は、内側から腐ってる」


「ひぇっ!? 料理じゃなくて町が腐ってるんですか!?」


「……港の稼ぎは、闇に消えている。役人どもが組んでいるな。海賊とも、な」


 袁崇煥は、机に手を置いた。


 その手は、震えていなかった。


「俺は、きよくあろうと思う。――この福建を、濁流のなかから救ってみせる」


「……袁様」


 青桂は、思わず目を潤ませた。


「ごはん……あたし、ちゃんと作りますからね」


「……頼む」


 ふたりの小さな家の灯りが、じんわりと町の暗がりに灯っていった。


 ――外では、また一隻、密貿易の船が沖を出た。


 けれど、その闇に目を凝らす者がひとり、生まれたのだった。



◯1618年(万暦46年)


 満洲まんしゅうの風は冷たい。だが、ひとりの男の怒りは、それより熱かった。


 その男の名は――ヌルハチ。五十代。建州けんしゅう女直じょしょくのハン(部族長)である。


 若い頃にみんと協力していたが、いまやその顔には深いしわと、鋭い眼光が刻まれていた。


 彼は、ひとつの小国を育て、強大な国家を築こうとしていた。そして今、ついに口を開く。


「……七つの恨み、ついに満ちた。ここからは、俺の番だ」


 彼の声は低く、岩を割るようだった。


 幕舎の中、ふたりの部下が顔を見合わせた。


「な、なんですか? “七つの恨み”って……。七草がゆみたいなもんですか?」


 そうおどけたのは、額亦都エイドゥ。ヌルハチの参謀。お調子者だが、文も武も有能である。


 もう一人、背の高い男がうなずいた。費英東フェイイントンという腹心である。


「おい、それ絶対ちがうぞ。七草がゆで明と戦争はできねぇだろ」


「しっ! 黙れ」


 ヌルハチは、ゆっくりと立ち上がった。


みんは、我が父祖を殺し、我らを見下し、土地を奪い、正義を踏みにじった」


「ひぇぇ……それ七草どころじゃねぇ……」


七大恨しちだいこん――それが俺の宣戦布告だ。明に、鉄槌てっついを下す!」


 その日、後金こうきんは動いた。最初の標的は、遼東りょうとうの明の拠点・撫順ぶじゅん


 攻めの先陣に立つヌルハチの姿は、まさに山のようだった。


「進め。俺たちは、もはや獣じゃない。国を持つ、誇りある人間だ!」


「ウォォーー!」


 満洲の戦士たちは、雄叫びとともに撫順を囲んだ。


     ◇ ◇ ◇


 一方その頃、明の都では――。


「な、なんだとぉ!? ヌ、ヌルハチが撫順を襲ったぁ!?」


 あたふたと走り回る役人たち。茶碗を落とす者、机の下に隠れる者までいた。


「こ、こりゃまずいぞ……」


 宮中では、年老いた皇帝がうなだれていた。


 そのとき、前に出てきたのが――楊鎬よう・こう。五十代。正義感はあるが、戦術はちょっと頼りない。


「わたしに、おまかせを! 遼東経略りょうとうけいりゃくとして、女直じょしょくを討ちましょう!」


「おおっ、助かったぁ!」


「え、ほんとに大丈夫か……?」


「うぉっほん! あのヌルハチとやら、わたしがこてんぱんにしてくれるわい!」


 鼻をふくらませる楊鎬に、周囲の兵士はこっそり耳打ちする。


「……あの人、戦争の本、読んだことあるのかな」


「どっちかっていうと……饅頭まんじゅうの本しか読んでない顔だな」


     ◇ ◇ ◇


 北の戦場と、南の宮廷。


 ふたつの勢力は、いま、ついに動き出す。


 ヌルハチの「七大恨」は、もう誰にも止められない。


 戦火は、やがて中原ちゅうげんを覆い、明朝を揺るがす大波となっていく――。

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