守城の名将:袁崇煥:第1章:放浪の章①
◯1584年
袁崇煥は、1584年(天正十二年)、広東省広寧県に生まれた。父の袁仁は、儒学を重んじる名門の士人階級であり、学問に秀でた人物だった。袁家は裕福な商人や武人の家ではなく、知識と礼節を重んじる家庭として知られていた。
父の袁仁は学問を尊び、幼い袁崇煥に徹底した儒学教育を施した。袁崇煥は幼いころから四書五経を学び、やがて名門の南海書院で研鑽を積む機会を得た。
袁崇煥は、幼少期から人々の中でひときわ目立つ存在だった。しかし彼の特異な才能は儒学にとどまらず、政治や軍事へと波及していく。
「兄上、その目、ちょっと怖いよ。客が来た時、みんな驚いて帰っちゃうんじゃないかな」
いつもそばにいる弟、袁崇煜が心配そうに言う。
袁崇煥はそれに応じることなく、静かに目を細めて答えた。
「見た目で恐れられたくないなら、顔を柔らかくしておけ。だが、心の中まで変える必要はない」
その冷徹な言葉に、崇煜は少し口をとがらせたが、やがて小さくうなずいた。兄の言葉には、常にどこか重みがあり、それを否定できる者は家族の中にもいなかった。
袁崇煥の軍事の才能はやがて広寧を飛び出し、広東省全体にその名を轟かせることとなる。彼は賢明かつ大胆な判断で数々の戦を勝利に導き、その戦術眼と冷徹な作戦で、数多くの戦局を有利に運んだ。
「兄上、そんなに賢いなら、戦なんてやめて、商売でもはじめればいいのに」
また、崇煜が茶化すように言うと、袁崇煥は少しだけ顔をほころばせて、かすかに笑った。
「商売では、賢さだけでは勝てん。それに、戦の世界では、時には知恵よりも勇気が物を言うこともある」
彼の言葉は周囲の者たちにとって決して軽いものではなかった。その冷徹で硬派な言葉には、すでに数多の戦いと数々の血を見てきた人物ならではの重みがあった。
だが、戦だけが彼の人生ではなかった。彼の心の奥底には、いつも人々の命を守り、国家を強くするために戦うという覚悟があった。その信念は彼の行動を導き、結果として彼を名将として不動の地位に押し上げた。
◯1596年
慶長元年。袁崇煥は12歳。まだ少年であったが、既にその目には鋭さが宿っていた。広東省広寧県で育った彼は、地元の風物や名物料理に詳しかった。そんな彼が、弟・袁崇煜と共に町を歩いていると、景色に目を奪われることが多かった。
「兄上、あれ見て! あっちの川沿いの木、なんだか不思議な形してるよ!」
弟・崇煜は無邪気に指を差して笑った。彼は天真爛漫で、まだ東莞の町に慣れきっていない年頃だった。
袁崇煥は弟の指差す方を一瞥し、うなずいた。
「うむ。東莞は都会的な顔と自然の姿を両方持っている。確かに不思議な町だ。」
「兄上はいつも真面目すぎるんだよ。もっと『すごいなあ』とか言ってもいいのにさ」
崇煜が笑いながら言うと、崇煥は眉をひそめたが、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「感情は心の中にあればいい。言葉にしなくてもな」
弟はむくれたような顔をしてから、すぐに話題を変えた。
「ねえ兄上、『東莞粉』、食べに行かない? あれ、ぼく大好きなんだ!」
袁崇煥は歩みを止め、小さく頷いた。
「うちの近くで売っているものなら、あそこがいいだろう。あの店は、素材の扱いが丁寧だ」
「やっぱり兄上は味より技術の話なんだなあ……でも、あれって米粉に魚やお肉を入れて煮るんだよね? なんでそんなに難しいの?」
弟の素朴な疑問に、袁崇煥は少しだけ真面目な顔で答えた。
「素材を選ぶ目と、火加減、出汁の取り方。どれも一朝一夕では身につかない。だからこそ、作る者の覚悟と愛が問われるんだ」
「……あい?」
崇煜は首をかしげる。
「愛情がなければ、誰の心にも残らん。戦と同じだ。心がなければ、ただの殺し合いに過ぎない」
その言葉に、崇煜は何かを感じ取ったように黙り込んだ。年若い彼にはまだ理解しきれない重さだったが、兄の言葉は確かに心に残った。
「兄上、でもさ、食べ物くらいは気楽に楽しんでもいいんじゃない?」
崇煥は目を細め、苦笑ともつかない顔で言った。
「気楽に食えるというのは、誰かが真剣に作ってくれたからこそだ」
「うーん……やっぱり兄上って、ちょっと変わってるよね」
「そう言うお前も、変わっている」
そう言って、二人は並んで笑った。
「じゃあさ、兄上。東莞の風景とか、食べ物以外で、もっと面白いものない?」
弟の問いに、袁崇煥はふと足を止めた。
「……工芸だな。木彫や絹織物は、東莞の誇る伝統だ。職人たちの技は、見ておいて損はない」
「おお、そんなのもあるんだ! ぼく、知らなかった!」
「だから言ったろう。知っておくことは大切だと」
袁崇煥にとって、東莞はただの育った土地ではなかった。自然と技、食と歴史が交錯する、己の価値観を育んだ場所。その一つひとつが、少年の目に確かな意味を与えていた。
◯1596年
1596年(慶長元年)。広東省東莞県。12歳の少年、袁崇煥は、誰もが認める才覚を持っていた。だが、彼の目はどこか冷ややかで、若干の鋭さが感じられる。その目は、ただ学問にのみ向けられていた。
「兄貴、また本か?」
弟の袁崇煜が、少し面倒くさそうに声をかけてきた。袁崇煜は兄である袁崇煥に比べると、性格はおおらかで少しおっちょこちょいだが、どこか素直で愛されるタイプの性格だった。
「うるさいな、崇煜。俺はこれで未来を変えるんだ。」
袁崇煥は手にした経書をちらりと見せた。袁崇煜は、少し眉をひそめながら答える。
「未来か…。兄貴、そんな大げさなこと言ってるけど、科挙は難しいらしいよ」
「やってみないとわからんさ」
袁崇煥は冷たく言ったが、その目は決して揺らがない。彼の中には、何かを成し遂げる強い意志があった。
「兄貴、科挙を目指してるのか?」
弟の袁崇煜が、真剣に聞いた。科挙とは、明朝時代の官僚登用試験だ。だが、それを目指すのは誰もが想像しない道だった。
「うん、そうだよ。父は兵を統べる将軍だが、俺は別の道を行く。」
「将軍になるんじゃないのか? 兵を持つ家に生まれて、どうして学問を選んだんだ?」
袁崇煜は驚き、目を丸くして尋ねたが、兄は静かに答えた。
「兵は力で支配するものだ。けれど学問こそが、本当の力を生む。俺はその力を手に入れたいんだ。」
その言葉に、袁崇煜は黙って考え込んだ。兄の言葉が、何か深い意味を持っていることに気づいたからだ。
「それに、科挙に受かれば、俺の運命も変わるだろう。」
「運命か…。兄貴、そんな堅苦しいこと言うなんて珍しいな。」
袁崇煜は肩をすくめながら、少し笑った。しかし、兄の真剣な表情に、冗談を言う気にもなれなかった。
「でも、もし兄貴が本気なら、俺も応援するよ。」
袁崇煜は、兄の肩を軽く叩いて言った。その動作に、兄は少しだけ目を和らげた。
「ありがとう。でも、俺は自分一人でやる。」
そう言って、袁崇煥は再び本に目を落とした。その目は、まるで全ての答えをその中に見つけようとしているかのようだった。