迷宮都市キルデア①
世界各地に点在する迷宮は人類にとって希望と絶望、明るい夢と昏い現実が入り乱れる複雑な場所だ。
迷宮から産出される植物や鉱石、魔物の一部などは貴重な素材になる一方、魔物が闊歩する迷宮は危険極まりなく、生半可な気持ちで足を踏み入れると間違いなく死を招く。
迷宮都市とは文字通り迷宮を抱える都市のことで、フィンの住むキルデアはハロディング王国の中で最大規模の迷宮都市だった。
五十年前に地脈の魔力溜まりから発生した迷宮は五十階層を超える化物迷宮で、当時のランバルド公爵家当主が軍を率いて突入し、激戦の末に迷宮主の討伐に成功した。
迷宮主を倒された迷宮は成長を止めるが、一度顕現した迷宮は消滅しない。
ランバルド公爵家に管理された迷宮は比較的安全に潜ることが可能で、珍しい素材を採取できるということで、探求者たちに人気のスポットだった。
ーーそんな迷宮都市の管理を任されているランバルド公爵家の長男が、現在二十歳になるフィンであったが……。
「……ダメだ……もうダメだ……今日も朝が来た……」
フィンは朝日を浴びて絶望的な表情を浮かべ、ベッドの中でうなだれていた。
二年前に実家のランバルド公爵家を飛び出したフィンは、迷宮都市のはしっこで菓子を作りながらこそこそと生きている。
趣味が高じて始めた店なので、菓子を作っている時は楽しいのだが、こうして一日の始まりが来ると絶望した気分になる。
なんというか、自分なんて生きていてもしかたがないんじゃないかなぁという気分になってくるのだ。
「しかも、全身が痛い……」
昨日、慣れないことをしたため怪我を負い、そのせいで体中が痛かった。
だがいつまでもベッドの中でうなだれていたって仕方がない。
のろのろと朝の身支度をしようと思ったその時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「おはようございます、フィンさん! 朝ですよ! 早速お菓子を作ってください!」
あまりの勢いにビクゥッ! と全身をこわばらせた。変なふうに筋肉を使ったので、傷がズクズク疼いてより痛い。
闖入者はフィンの様子になどおかまいなしでずかずかと部屋に入ってくると、フィンの腕を取り、ベッドから無理やり引き剥がそうとする。
「気持ちのいい朝ですね! お日様もフィンさんのお菓子作りを祝福してくれているようですよ! というわけでさあっ! お菓子作りましょう!」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って」
ぐいぐいと引っ張ってくるこの少女の存在をフィンはすっかり忘れていた。
そういえば昨晩、なんか色々あった挙句に泊めたんだった。
それにしてもやる気がすごい。こんな朝っぱらから「お菓子作ってください」と言ってくる子、なかなかいないんじゃないか。
「作るから、着替えだけさせて……!」
「それもそうですね。では、わたしは廊下で待ってますね」
パッと手を離し、あっさりと引き下がるエマ。
「なんか、すごい子と知り合いになっちゃったな……」
呆然としながらも、なんだかさっきまで感じていた絶望感が払拭された気がする。
とりあえず着替えよう、とベッドから立ち上がった。
*
「お菓子を作るのは構わないけど……何のお菓子がいい?」
「何でもいいですよ。フィンさんがお菓子を作るところを見てみたいです」
「と言っても今は、材料が何もないんだよな」
昨日渾身のケーキを作ったことにより、材料は何もない。すっからかんだ。
買い出しに行かなければ何も作ることができない。
「買い物に行こうか。何かいいものが出てるかもしれないし」
「はい!」
そんなわけでフィンとエマはお菓子の材料を買いに出かけることにした。
迷宮都市キルデアは、中心に迷宮があり、そこから放射状に発展していっている。
フィンの店兼家は都市のはしっこにあるので市のある中心部まで行かなければならない。
「市には迷宮産のものがたくさん売ってるんだ。他の街から来た人には珍しいんじゃないかな」
五十階層を超える迷宮内には、森、湖、山、雪原、海などの実にさまざまな階層が存在していて、各階層でしか取れないものも多い。
フィンも迷宮産の果物を使ってお菓子を作っていた。
「よぉーう、フィンじゃないか。おはようだみゃあ」
「キト? 君にしては早起きだな」
うしろから肩を抱き抱えてきたのは猫の獣人のキトだった。
「エマちゃんだっけかみゃあ? ゆうべはお楽しみだったかみゃあ」
「はい、おかげさまでぐっすりと眠ることができました」
「そりゃよかったみゃあ。で、どこに向かってんだみゃ」
「お菓子の材料がなくなったから、買いに行こうと……」
「にゃにぃ! そりゃタイミングがいい!」
キトはフィンの肩にミシミシと指をめりこませ、一際声を張り上げた。
「今、迷宮五十階層で、土竜が暴れてんだって! 仕留めにいこうにゃあ!」
「はぁ? 五十階層って最下層だろ。おまけに土竜って……お菓子の材料にならないし、行くわけがな……」
「行くみゃあ!」
「おい! 話を聞けっ!」
しかしマイペースな猫獣人キトはフィンの苦言などまるで聞かず、がっしりと肩を組んだままフィンを迷宮へと引きずっていった。
エマはその後ろを、なんだか楽しそうに小走りでついてきた。
迷宮は各階層に簡単に行き来ができるよう、行きだけは迷宮の第一階層から各階層への転移魔法陣が敷かれている。
「僕は行かない! 丸腰だし!」
「オイラの護身用の短剣を貸してやるみゃあ。お嬢ちゃんは……」
「わたしはただの見学なので、気にしないでください」
「死なないように気をつけみゃよ」
「はい。大丈夫です、修羅場は結構慣れているので」
一体どんな研究員なんだ。
フィンはキトに無理やり護身用の短剣を押し付けられ、首根っこをひっ掴まれて最下層五十階への転移用魔法陣に乗せられた。