07,紅倉への依頼
11月。ペットの犬を虐待していた飼い主が逆に犬に噛み殺される事件が起きた。
目撃した家族の話によると主人が犬を叩いていると庭に巨大な洋犬が現れ、するとペットの柴犬が俄然攻撃的になり、鎖を引きちぎって主に飛びかかり、噛み殺したという。
柴犬はそのまま洋犬と共にどこかに行ってしまった。
被害者が続出し、自治体も警察も人殺しの猛犬バスカヴィルの捕獲または殺害しようと大規模な作戦を展開したが、バスカヴィルは常にその裏をかいて逃げおおせた。
恐怖に怯え警察の無能を批判する人がいる一方、虐待される哀れな犬たちを救い復讐を行うバスカヴィルをむしろ応援する人々もいた。
紅倉美姫もどちらかといえば後者の人間だった。
複数の動物愛護団体の代表者たちが紅倉を訪問した。
彼らは表の犬小屋にいる黒いシベリアンハスキーを見て、彼女が愛犬家であることを喜んだ。
芙蓉にお茶を出されて、4人の代表のうち一番年輩の男性が代表して話した。
「バスカヴィルと呼ばれる犬が近畿から東海にかけて人やペットショップや施設を襲っている事件はご存じでしょう? そのバスカヴィルを、退治していただきたいのです・・」
総白髪で日焼けした薄い皮膚の男性は苦しそうな悲しそうな顔でそう依頼した。
紅倉は焦点の定まらない目でしらばっくれて問う。
「なんでわざわざこんな遠くまでわたしなんかに頼みに来るんです? 野良犬の処分なんて、保健所の仕事でしょう? 警察の方々も頑張っておられるようだし、わたしなんかの出る幕はないでしょう?」
「バスカヴィルはふつうの犬ではないんです。おそらく警察も彼を殺すことは出来ないでしょう。
バスカヴィルといっしょに数多くの鬼火が目撃されているのもご存じでしょう? あれは、死んだ犬たちの魂だと思われます。バスカヴィル自身、ふつうではない、霊魂の?力で動いているように思われるのです。
バスカヴィルは犬たちの復讐の鬼です。・・・わたしたちもその気持ちは分かるのですが・・・・。
これまでに彼は6人の人間を殺害し、30名以上にけがを負わせています。他に彼らが関わっていると思われる死者が10人もいます。また飼われている犬が飼い主を襲い噛み殺したのが2件、飼い主を襲ったという報告がなんと500件も寄せられています・・・もっともこの中の大半はバスカヴィルとは無関係の、日頃の飼い方の問題だと思うのですが・・。
問題はそこなんです。
我々の仲間にも過激な方法に訴えてでも動物たちを保護しようと活動するグループがありますが、そうした方法は飼い主や業者といらぬ敵対関係を生んでしまい、けっして動物たちへの処遇の改善にならない、むしろ態度を硬化させてしまい、より冷たい態度をとらせてしまうことが恐れられます」
紅倉は冷笑を浮かべて言った。
「テロリズムは問題の解決にはならない、ですか?」
紅倉の皮肉に代表は素直にうなずいて言った。
「その通りです。これまで我々は動物の生き物としての当たり前の権利を訴え、関わる人たちに動物への愛情を持ってくれるように根気強く説得する活動をしてきました。しかし・・、
バスカヴィルが人を襲うようになって、飼い主や業者たちにわたしたちの話をまるで聞いてもらえなくなってしまった。おまえたちはあの人殺し犬の仲間たちなんだろう?と。
我々考え方を異にする人間との敵対感情が、扱う動物たちへの敵対的な見方になり、より厳しく冷たい管理方法に拍車をかける結果を招いてしまっているのです。
これは、とても不幸なことです。
動物たちと愛情で結ばれれば、それは人間にもたいへんな幸福をもたらしてくれるのです。
彼らにそれを分かってもらいたいのですが、
バスカヴィルがいては、
彼らはそうした考えに耳を傾けてはくれないのです・・」
紅倉は、
「ふっ」
ととうとう声に出して笑った。
怪訝そうに見る代表たちに紅倉は軽蔑気味な冷たい表情で言った。
「犬たちの不幸な問題は、そうした甘ったるい感情論で解決できる類のものなのですか?
わたしはバスカヴィルの行動に大いに賛同しています。
自分が怖い目に遭って殺されるのが嫌なら、犬たちをそういう目に遭わせなければいいんです。実に簡単明瞭な主張じゃないですか?
そういうことではないのでしょう?この業界の問題は?
資本主義の自由競争です。
需要と供給のバランスです。
犬は商品です。
ジーンズが1000円以下で売られる時代ですよ? 血統書付きの純血種だろうとなんだろうと、
高くちゃ売れないでしょう?
人気の種類の犬が欲しい、でも高くちゃ嫌だ、
だから、ふつうの半分の値段の犬が売れるんでしょう?
犬を半分の値段で売って利益を確保しようと思ったら、半分以下の手間で、半分以下のサイクルで、大量の商品をさばかなくちゃならないでしょう?
そうして生み出された大量の子犬たちは、生まれたときから問題を抱え、病気のものも多く、さらに劣悪な環境で飼育され、見せ物にされ、病気になったり、情緒不安定になったり、死んだりするんです。商品にならないと判断された子犬はどう処分されるんですか?
運良く買われていった子犬だって、その程度の買い物ですから、面倒な世話なんてすぐ飽きちゃうでしょうし、ブームが去れば今度はこの犬がいいと簡単に次のモデルに乗り換えるのでしょう?
それが消費者のニーズです。業者はそのニーズに応え、尚かつ自分たちの経済を維持していかなければなりません。
そうして大量に生み出され、ちまたに大量にばらまかれ、あぶれて処分され、消費されて捨てられた、
命が、
彼らです。
でもどうせこの社会は、人間でさえニーズだけ満たして使い捨てられる、そういうシステムになっていますから、今さら犬だけが特別ではないでしょう?」
どうです?と首を傾げて問う紅倉に、代表たちはさすがに気色ばみ、代表が苛立ちを抑えて言った。
「分かってます、分かってるんです、わたしたちはそんなこと、とっくに。
感情論で道徳心に訴えるだけでなく、行政によるきちんとしたルールづくり、それがもっとも肝要だと、わたしたちも分かっていて、そうした訴えもしています。しかし・・」
「業界からの圧力が強くて、ついつい弱腰になってしまう?」
「そう・・です・・」
「事なかれ主義ですからねえ、お役所は。それに、生活がかかっていると言われれば、強くも出られないでしょう」
「ええ・・」
「だからでしょう」
「?」
「だから」
紅倉は恐ろしい目で言った。
「死ぬほどの目に遭えばいいんです」
けっきょく紅倉はバスカヴィル退治を引き受けず、代表たちはとぼとぼと帰っていった。
その後紅倉は犬小屋の前に行ってしゃがみ、寝そべるロデムに訊いた。
「ねえ、あなたはどう思う? あなたもやっぱり彼の味方?」
ロデムはルビーのような赤い目を開けて紅倉を見た。
「そうよね、あなたは彼の味方よね?」
紅倉は自分を納得させるように言った。
しかし。
ある家で、室内で飼われているスパニエルという小型で胸から腹にかけて毛の長いいたずら好きの子供のような犬だったが、
ある時飼い主である中年女性にやたらと吠えた。
「こら、静かにしなさい」
と注意したが、このとき犬はやたらと気分がハイになっているようで、鳴きやまなかった。
「しょうがないわねえ」
昼間であったから遊びたいのだろうと思ったのだが、ふと、いつもより鳴き声がキャンキャン甲高いように感じた。そこでテレビのニュースを思い出した。
飼い犬が突然反抗的になって飼い主を噛み殺したというニュースだ。
中年女性はまさかと思いながら、怖くなった。
女性はとりあえず外へ避難しようと玄関に下りた。
ところが犬は先回りしてますますキャンキャン吠えた。遊びたいだけだ、遊びたいだけなのだと思ったけれど。
「静かに。静かにしなさい」
犬は鳴きやまず、
女性は夫が庭でスイングの練習に使うために置いてあるゴルフクラブに手を伸ばした。
「静かに、静かに、しなさい・・」
たまたま隣から回覧板を持ってきた主婦がその現場に遭遇し、悲鳴を上げ、中年女性は動物虐待の容疑で逮捕された。
犬は、ただ単に主人に遊んでほしかっただけなのだろう。
紅倉は暗い気分でニュースを眺め、ロデムに会いに行った。
「いっしょに来てくれる? あなたの手助けが必要なの」
月は、12月に改まろうとしている。