05,可愛い子犬
10月。東京。山手線沿線のきらびやかな繁華街。
夜、仕事帰りに仲間と一杯やって、一杯のつもりがつい遅くまで飲み過ぎて、赤い顔でまいったなと思いながら歩いている男がいた。
さあて上さんにどう言い訳しようかなと酔っぱらいの頭を働かせていると、綺麗なお姉ちゃんが上等なスーツの紳士と腕を組んで歩いてきた。
ちっくしょー、俺もあんなお姉ちゃんのいる店で飲んでみてえなー、と思っていると、
上級紳士は片手に小さなかごを持っている。インコかなんかかと思って見ると、中に入っているのは子犬だった。
すれ違い、へーさすが金持ちのプレゼントは違うもんだと感心して後ろ姿を見送ったが、しばらく行くと、もうずいぶん遅い時間だというのにペットショップが開いていた。このご時世どんな業種も24時間営業だなと冷やかし半分でショーウインドウを覗くと、案外安い。さっき紳士が連れていった人気の種類もそれほど高い物でもない。
なんだよ、これなら俺だってお姉ちゃんに買ってやれるぞと思って、思いついた。
そうだ、これにしよう、と。
朝、娘の奈緒6歳が目を覚ますと、家に子犬がいた。
奈緒は歓声を上げて喜んだ。
ぬいぐるみのようにかわいらしい毛の長い真っ白なテリアだ。
段ボールの急ごしらえの部屋に新聞紙を敷いた上に体を丸めて眠っている。
奈緒が抱き上げると子犬は目を覚まし、いやいやをするように逃げだそうとした。奈緒はだいじょうぶだよおといい子いい子をしてあげた。
娘のかわいがる様子を見て父親はな?と妻に勝利の笑顔を向けた。妻はしょうがないわねと笑いながらため息をついた。
「ほら、奈緒、まだ赤ちゃんで眠がってるから、眠らせてあげなさい。手を洗ってきて、朝ご飯食べなさい」
娘がはあーい!と返事をして犬を置いて洗面所に走っていくと、妻は夫を睨んで言った。
「なによ、奈緒にばっかりいい顔して。どうせわたしが面倒見なくちゃ駄目なんでしょう?」
夫は笑っていなした。
「なんだよ? かわいいだろう? おまえだってすぐ夢中になって、亭主の晩酌なんて放っておくようになるんだ」
「で、あなたはまた遅くまで飲み歩いてくるってわけ?」
「だからさ、それも気にならなくなるって」
「まったくもう、調子いいんだから」
娘が戻ってきて食事が始まった。奈緒はよそ見をして犬を見てばかりいた。
夫は会社に出かけていく。妻は娘を幼稚園バスに乗せて帰ってきて、犬を覗き込んだ。子犬はまだ眠っている。生まれてどのくらいなのかしらと思う。ホワイトテリアというのは見て分かるけれど、旦那が買ったペットショップからもらってきたのは商品の保証書だけで、血統書なんていう上等なものはない。どうせ安い店から買ってきたんでしょうけれどと妻はお見通しだ。高い店で血統書付きの犬なんて買ったらすごく高いんだろうし、今は大喜びしている娘もいつまで関心が続くか分からない。初めて飼うペットにはお手頃だろう。
「ま、それに、命は同じ命で尊いものね、あなた、うちに買われてきてラッキーだったわね」
妻は子犬の飼い方でも調べてみるかとパソコンに向かった。
幼稚園から帰ってきた娘は子犬をかわいがった。夕方になってやっと目を覚まし、ミルクを飲んだ。
娘にだっこされて、震えていたが、大人しく抱かれていた。
娘はいい子いい子し、妻も大人しい性質のいい子犬に当たったなと喜んだ。
3日が過ぎた。
娘が幼稚園に行ってる間に、妻は犬が動いていないのに気づき、死んでいるのを確かめた。
嫌な顔をして、夫に電話した。
夫も困って、妻に保証書の電話番号を聞き、ペットショップに電話した。
ペットショップは親切に対応し、代わりの子犬を無償で提供するという。
妻に保証書を持ってこさせ、昼休みに急いでペットショップに向かった。
妻と一緒に、店員にも健康そうな子犬を選ばせ、代わりの犬をもらい受け、妻は急ぎ帰っていった。
奈緒がバスで送られてきて、迎えた妻は説明しようとしたが、奈緒は早く早くと母を急かして走り、結局言い出せずに家に帰った。
「リボンちゃん!」
自分が名付けた名前を呼んで子犬を抱こうとした奈緒は、段ボールの中を見て固まってしまった。
母を見上げて訊いた。
「リボンちゃんじゃないよ?」
同じテリアでも色が白から茶と黒の2色になっていて、これは誤魔化しようがない。
母は仕方なく、考えながら説明した。
「あのね、リボンちゃんはすごく寂しがりやで、お母さんと離ればなれになって寂しくて病気になっちゃいそうだったの。かわいそうでしょう? それでね、お母さんの所に帰してあげたの。奈緒だってお母さんと離ればなれになったら寂しいでしょう?ね? 代わりにね、この子が来てくれたの。ほら、この子は元気でしょ?この子はやんちゃだから一人でもへえっちゃらよ。ね?」
新しい子犬はキャンキャンと元気に吠えている。
明らかに不満顔ながら、奈緒は一応母親の説明に納得し、新しい子犬と仲良くしようとした。
しかしキャンキャン吠える子犬は子供の手を逃れてぴょんぴょん飛び跳ねた。
「元気だね」
と言いながら奈緒は手を引っ込めてしまい、母親は少し不安に思った。やはりかわいがっていた犬がいなくなって幼い心にショックを受けているのだ。やっぱり犬を飼うのは早かったんじゃないかしら、と夫を恨めしく思った。
娘のかわいがっていたリボンちゃんが、黒いビニール袋に入って家の裏のポリバケツの中にいることは絶対に言えない。
茶と黒の子犬は元気だった。始終キャンキャン吠え、動き回り、夜灯りを消してからもまだ吠え続けた。
布団の中で鳴き声が気になって眠れず、妻は夫に言った。
「あんなに鳴いて、近所迷惑よ?」
夫も困ったものだといらだちを抑えて言った。
「まったくなあー。かわいいと思ったのに、小さい犬ってのは駄目なもんだなあ。やっぱり安い犬ってのは質が悪いんだなあ」
「びっくりしたわよ、あんなに安いなんて。ほら、子供の頃、お祭りで金魚すくいなんてやって金魚持ってくるとすぐに死んじゃったでしょう? 安いのってみんなそうなのよ」
「はいはい、わたしが悪うございました。安かろう悪かろうでございました。もうあんなのは買いません」
「それでどうするのよ、もうー・・」
鳴きやまない犬に妻はうんざりして言った。
「どうするって、しょうがないだろう? もう少し様子見ろよ。犬だって環境が変わって興奮してるんだよ。その内落ち着くよ」
「そうだといいんだけど・・もうっ!」
妻はこれ見よがしに頭に布団をかぶった。
夫もうんざりして、やっぱり布団を引っ張り上げた。
1週間経っても子犬の無駄鳴きは治らなかった。
日曜日、父親が居間でいっしょにいるとき、奈緒がなんとか仲良くなろうと出した手を、子犬は噛んだ。
「痛いっ」
とびっくりした奈緒は顔面蒼白になり、怒った父親は犬を叩こうとした。
「お父さん、カカオを怒らないで」
カカオというのが2代目のこの子犬の名前だ。
「でもなあ奈緒。犬っていうのはちゃんとしつけをしてやらないと駄目なんだよ?」
「でも・・怒らないでえー・・」
涙目で頼む娘に、夫は台所から覗いていた妻と顔を見合わせた。
それからまた2日して、奈緒が幼稚園から帰ってくるとカカオはいなくなっていた。
「ごめんね、お掃除するのに戸を開けたら逃げ出しちゃって。捜したんだけど、見つからないのよ」
奈緒は悲しくて泣いた。母は頭を撫でて慰めて言った。
「ごめんね。カカオは元気すぎて、外で自由に暮らすのがいいのよ。今度お父さんのボーナスが出たら奈緒もいっしょにペットショップに行って新しい犬を選ぼう?ね?」
本当は。
無駄鳴きの治らない子犬にうんざりした夫と相談して、奈緒を送り出した後で車に乗せて遠くの橋の下に置いてきたのだ。
優しい母親を演ずる妻は、その後保健所の回収車がやってきてカカオを回収していったとは夢にも知らない。
回収されたカカオが、夫婦を悩ませた無駄鳴きによって即刻「失格」の烙印を押されたことを知らない。
カカオは保健所で多くの仲間たちと出会った。
数日後に運命を共にする仲間たちと・・・・・。