01,紅倉の苦手なもの
*登場人物
紅倉美姫(べにくらみき)・・・最強の霊能力者
芙蓉美貴(ふようみき)・・・紅倉のパートナー。借家に紅倉と住んでいる
紅倉がこの世でもっとも苦手なのが犬だった。
紅倉は犬が怖くて仕方ない。
犬は吠える。もともと吠える動物だけれど、
紅倉に対しては特別に吠える。
犬にとって紅倉は敵なのだ。何故なら、
彼らは幽霊が見えるから。
幽霊は人に害をなす悪いものだから、
紅倉は悪いもの、
敵なのだ。
つまり犬には紅倉が幽霊に見えているわけだ。
吠えられる紅倉はたまったものじゃない。
紅倉は別に犬に敵意も悪意も持っていない。ただ吠えられて怖いだけだ。
嫌いという積極的な意識を持つ以前に、とにかく苦手だ。
8月の暑い日だった。
お昼を食べると紅倉は、パートナーの芙蓉が所用で出かけた隙に、散歩に出かけた。何故かこの頃紅倉は一人歩きをしたがった。小さな子がお母さんの手を振りきって一人で歩きたがるようなものである。
紅倉は視力がものすごく悪い。ふつうの視力の人がマンガに出てくる金魚鉢の底のような分厚いメガネをかけているようなものだ。じゃあ紅倉が金魚鉢の底のようなメガネをかけてまともに見えるかというとそうはいかないのだが。
いつもの散歩コースからちょっと冒険心を出して先へ進んだ紅倉は、そこで犬に吠えられた。
キャンキャンキャン、と、人気絶好調のかわいらしいチワワだが、紅倉はひ〜〜〜〜っと総毛立ち、恐れおののき、キャンキャン鳴く恐ろしい動物から逃げて路地に入った。
ろくに目も見えず、方向音痴の紅倉のことだから、当然迷子になった。こっちかなー?と歩けば歩くほど泥沼の迷路地獄にはまっていった。
内心え〜んえ〜んと泣きべそをかきながら、一応大人のプライドで平気だもん!という顔をして歩いていくが、35度を超える猛暑日、目も見えない上、感覚も半分死人のごとく鈍く、汗をかけない体質の紅倉は、芙蓉が外出するときは帽子をかぶるように!と口をうるさくして言うのも聞かず、直射日光をまともに浴びて、気が付く頃にはかなり危険な熱中症に陥っていた。
頭が痛くて、気持ち悪くて、ふらふらする。死ぬ〜、死んでしまう〜〜。
どうも辺りはふつうの住宅街らしい。そのふつうの通りを、
どうもバタバタと走り回っている人たちがいる。
いたか? いや、そっちに回ったんじゃないか? 畜生、往生際の悪い、行こう!、と、
紅倉のとなりをバタバタ3人ほど男たちが走り抜けていった。
あ、待って・・と心の中では手を伸ばしたいのだが、極度の対人恐怖症ですっかり固まってしまい、声も出せない。
ぐるぐる目が回ってきて、
あ、だめ、
さようなら美貴ちゃん、わたしは悪い子でした、ぐっすん、
と、ふら〜〜・・と道に倒れ込もうとしたとき、
前に立つ黒い人影を見て、寸前で踏ん張り、膝をついて座り込んだ。
黒いぼやーっとした影は大きさからして子供らしい。
紅倉はもう後がないと観念して手を伸ばすと、
「み・・水・・飲ませて・・」
と頼んだ。
影は、紅倉同様人見知りしているのか、ずーっと立ち尽くしていたが、紅倉が万事休すとぶっ倒れようとすると、前に出て支えてくれた。
胸に潜り込んだその感触に紅倉は『え?』と思った。固い毛がふさふさ生えている。紅倉は一瞬『ひっ』と思ったが、もはやなんの動きも取れなかった。ズルズルと引きずられながら、意識朦朧と・・、
半分気を失っていたのだろう、突然頭から水をぶっかけられて「うひゃうっ」とびっくりして飛び起きた。ジャーーーッと水の落ちる音がする。
今度は心臓発作で死にそうになりながら、はあっはあっはあーー・・と、ようやく落ち着くと、公園の水道の四角いコンクリートに前足を乗っけて、黒い大きな犬が紅倉を見下ろしていた。
紅倉が無様に手を後ろにお尻を付いて見上げていると、犬は器用に足で蛇口を閉め、地面に降り立った。
「い・・犬・・・・」
相手の正体に紅倉が固まっていると、犬はきびすを返して歩み去ろうとした。
ぼーーっと見送る紅倉は、迫る気配にハッとした。
「待って! 戻ってきなさい」
振り返ったものの動かない犬に、
「早く!」
紅倉はバタバタ手招きした。そして
「お手!」
左手を差し出した。
「お手!」
必死に言うと、犬はのしのし歩いてきて、紅倉の左手に右手を載せた。
紅倉は嬉しくて笑った。
「よしっ!」
周りを見回した。マンションの陰になった小さな公園らしい。
ベンチがあって、紅倉は急いで向かった。座り、となりを指して
「お座り!」
と命じた。犬はのしのし歩いてきて、紅倉のとなりの地面に座った。
「えーと・・」
紅倉はバタバタと、腰に巻いたベルト付きのポシェットを外し、犬の首に巻き付けた。紅倉は怖くて犬なんて触ったことはないが、ずいぶん首の太い犬だなと思った。
「大人しくしていなさいよ」
犬に命じて、自分は前を向いてお上品にお澄まししていると、バタバタと、大人の男たちが駆けてきた。