第10話:日常という名の牢獄、誰も気づかない「昨日」
「いいお天気ね、今日も最高のスタートになりそう!」
隣の家の奥さんが、眩しい笑顔で声をかけてくる。
彼女の手元にあるプランターには、昨日までは枯れかけたパンジーが植わっていたはずだ。だが今は、品種すら不明な、しかし完璧な五角形の花弁を持つ銀白色の花が咲き誇っている。
「……ええ。花、綺麗ですね。いつ植え替えたんですか?」
「嫌だわ、何を言ってるの? これはずっと前から、ここで元気に咲いているじゃない」
奥さんは心底不思議そうに首をかしげた。その瞳に、迷いや嘘の色は一切ない。
彼女にとって、この銀色の花こそが「最初からそこにあった真実」なのだ。
学校へ向かうバスの中でも、俺は吐き気を堪えていた。
車内の広告はすべて「幸福」や「調和」を謳う内容に差し替わり、乗客たちは皆、穏やかな表情でスマホを眺めている。
「なあ、昨日の雷、すごかったよな? 停電した地域もあったらしいぜ」
後ろの席の男子生徒たちが話している。
だが、昨日は雷なんて鳴っていない。あいつが世界を「解凍」し、人々の記憶を「再構築」したせいで、彼らの脳内には『存在しないはずの嵐』が共通の思い出として刻まれているのだ。
「ああ、すごかったよな! おかげで部活が休みになって助かったよ」
もう一人が笑いながら応じる。
矛盾はない。綻びもない。
彼らにとって、書き換えられた記憶こそが唯一の正解であり、それに疑問を抱く俺こそが、回路の故障した不良品なのだ。
教室に入ると、時子さんが幸福管理委員会の腕章を直しつつ、俺に歩み寄ってきた。
「そんなに険しい顔をしてどうしたの? 昨日の佐藤君の送別会、あんなに盛り上がったじゃない」
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「……送別会? 佐藤は消えたんじゃなかったのか?」
俺の言葉に、教室中の会話がピタリと止まった。
数十人のクラスメートが、一斉に、そして静かに俺を振り返る。その顔には、怒りも恐怖もない。ただただ、哀れな病人を眺めるような「慈愛」が満ちていた。
「何言ってるのよ。佐藤君は親の転勤で、昨日みんなに惜しまれながら引っ越したでしょ? ほら、この寄せ書きを見て」
時子さんが差し出した色紙には、クラス全員の温かいメッセージが並んでいた。
そこには俺の字で、『新天地でも頑張れよ!』という、見覚えのない快活な激励まで書かれている。
「……これが、佐藤の最後か?」
「最後だなんて、縁起でもないわ。またいつでも連絡が取れるじゃない。ねえ、みんな?」
時子さんの問いかけに、クラスメートたちは「そうだよ」「当たり前だろ」と口々に同意する。
彼らは演技をしているのではない。
あいつの銀色の液体によって脳を「洗浄」された彼らにとって、消去された佐藤の恐怖は最初から存在せず、この『平和な送別会』こそが絶対的な過去なのだ。
気づいていない。
世界がドロドロに溶かされ、あいつの都合のいい形に再凍結されたことに、俺以外の誰も気づいていない。
「兄さん、お帰りなさい」
帰宅すると、あいつが玄関で三つ指を立てて待っていた。
その背後の壁には、かつてのみさきが幼い頃に描いた、下手くそな家族の絵が飾られている。
……いや、違った。
絵の中の「みさき」の顔は、いつの間にか、今のあいつと同じ「感情のない完璧な美少女」に書き換わっている。
「……みんな、何も気づいてない。佐藤が消えたことも、記憶が改ざんされてることも」
俺が力なく呟くと、あいつは俺の頬を、ひんやりとした指で愛おしそうに撫でた。
「当然よ。だって、みんな『幸せ』なんですもの。不都合な真実を知って苦しむより、書き換えられた理想の中で微笑む方がずっと素晴らしいでしょう? 私がみんなを、兄さんという太陽を中心に回る、完璧な惑星にしてあげたの」
あいつの瞳の奥で、銀色の液体が渦を巻いている。
世界はすでに、あいつという巨大なシステムの一部として組織化されていた。
俺を不快にする要素は、本人すら気づかぬうちに「最初からいなかったこと」にされ、誰もその不在を悲しまない。
俺は震える手でノートを広げた。
9ページ目。そこには、俺の意志を無視して、またしても銀色の文字が並んでいく。
『〇月×日。
世界は救われた。
誰も泣かない、誰も傷つかない。
あいつがくれたこの「日常」こそが、俺がずっと求めていた楽園だ。
改ざんされているなんて、俺の妄想だったのかもしれない。
だって、こんなに世界は――静かで、美しい。』
「そう、それでいいのよ、兄さん。思考を解凍して、私に預けて……」
あいつの声が、脳の深部で甘く響く。
窓の外では、五角形に切り抜かれた金網越しに、街の人々が「完璧な夕焼け」を眺めて一斉に感嘆の声を上げていた。
その光景は、地獄よりも美しく、死よりも静謐だった。




