鍋の中の柔らかな愛情
台風の通り過ぎた青空の下。
手押しポンプのある井戸端近くのコスモスが盛大に揺れる。
七輪を持ち出して豆炭で栗を煮ようと、お昼ご飯も済ませた私は、青空の下で用意をしている。
祖母が亡くなって無人になった家に住み始めて半年。
台所と居間の他にある三部屋には、物を捨てられない祖母の遺品がぎっしりと詰まっている。
離婚と退職をひとまとめにして、祖母の家へ逃げ込んで初めての秋だ。
近くの農産物直売所へパートに出るだけの生活なら、この倉庫のような祖母の家も冬前には片付けられると思っていたが。
甘かった。
子どもの頃に来ていた時と違って、車で移動するにも地図を覚えて、それにかかる時間を考えて、かつ、うろ覚えの近所の人たちと仲良くなるというミッションは、予想外にきつかった。ずっとここに住んでいた祖母の孫だという強みはあったが、私の小さい頃しかみんな覚えていない。
隣の家の人たちが一番顔を合わせていたのでそれなりに馴染みがあったが、私の知らないうちに子どもたちが産まれて育っていた。今はもう小学生で、夏休みの間に何度も庭に不法侵入されまくっている。
虫捕りをして一緒に遊んだ男の子が、今では二児の父。
時の流れは、急流すぎる。
部屋の片付けは後回しにし続けて、夏休みに遊びに来た大学生の姪っ子たちからは呆れた顔をされた。
「いや、これは、慣れないから大変なんだって」
「このままだと、都ちゃん泊まれないんじゃない?」
「いや、まぁ、それは……冬休みまでには!」
元夫との離婚に踏み切れなかった私の背を押すように、高校から全寮制の学校へ進んだ娘の都と共に年越しをするべく片付けを始めたのだが。
「なんで、押し入れに未使用の七輪が入ってるの」
なぜここに、これが? が連続して、掘れば掘るほど脱力していく。
「まあ、確かに綺麗にぴったり収めてるけども!」
だからこそ、この小さな平屋で、この物質量なのだが。使われていない物を動かすだけでも、よくわからない疲労感が襲ってくる。
疲れ果てた脳のせいだろうか。すっかり重くなった体が、座り続けたいと叫んでいるのか。
パート先の農産物直売所で買った赤いネットに入った大きな栗を見て、渋皮煮を作りたい衝動に駆られた。
よく切れる小ぶりな包丁で、栗の皮を剥いていく。
下のザラザラした所に刃を立てて、そこでついた切れ目から一気にツルツルの皮をむく。
うまくいけば、渋皮が残ったまま。
少しでも身に傷付けば、ほんのり黄色の栗の身が出てしまう。
「茹でた時に、崩れないように〜、渋皮、渋皮」
謎の掛け声をつけなから、皮を剥く。
木陰の縁側に座って、蚊取り線香を燻らせながら、虫の音色を聴いてひたすら皮を剥く。
時々、ざざざっと風が吹いてくる。
空を見上げると、和紙をちぎったような雲が飛んでいる。
昨夜、台風の大雨で、トタン屋根は爆発したような音を一晩中立てていた。
ひとりで夜を明かしている時、心細さよりも、本当にひとりになったことが嬉しいと思っていた。
雨漏りをしても、自分だけならすぐに修理の人を呼べる。
いちいち夫という面倒な存在に、状況を説明して、修理の必要性を訴える必要もない。
なんなら、大雨の夜中に、物に溢れた部屋の片付けを始めてもかまわないのだ。
「……夜中まで片付けでテンション上がってたのか」
ふと、この変な栗の皮を剥きたい衝動の原因が分かり、我にかえった。
琺瑯の白い洗面器には栗の皮。
片手鍋には、渋皮を残して剥かれた栗。
「しがらみが終わっても、まだまだ面倒くさい人生が残ってるのね……」
果てのない作業にうんざりしたが、それでもまあいいかと思えた。
たぶん、それは空が晴れているから。
古い卓上コンロで火をおこした豆炭を3つ、七輪に入れる。
赤々とした豆炭の上に、真っ黒なままの豆炭をのせる。
鍋に渋皮付きの栗を入れて、重曹を落として火にかけようとして気づいた。
「あ、一晩置かなきゃいけないんだ」
渋皮煮は、重曹入りの水に栗を入れて一晩。
そのまま火にかけて、焦茶色の水を何度も作ってアクを抜いていき、その後に味付けして、コトコトと煮込む。
剥いたばかりの栗は、加熱できない。
「あー、しまったー」
やっぱり変なテンションで、栗の渋皮煮なんて大事業を始めるんじゃなかった。
力が抜けて、そのまま縁側に腰を落とす。
力の抜けた私の頬を秋風が乱暴に拭っていく。
木陰だった縁側に、真夏よりは優しいが、それでも肌が焼けるくらいの陽射しが刺さっている。
「暑い……」
昼ごはんを食べたばかりなのに、夜中まで片付けをしていたせいか、妙にお腹が減っている。
視線を下げれば、火のおこっている豆炭。
何やってるんだろう。
妙な感傷を覚えた時、夏の暑い中、ストーブにかけた鍋をぐるぐると掻き回している老婆を思い出した。
あれはなんだっけ。
草が生い茂ったままの広い庭。
埃っぽいけど、広い部屋。
その廊下にあったストーブのそばに座る痩せたおばあちゃん。
笑う女の子。
心愛ちゃん。
思い出した途端、私は台所に向かっていた。
小学生の夏休み。
突然誘われて、友だちだった心愛ちゃんのひいおばあちゃんちに行ったことがある。
暇を持て余していた私は、誘われるがままに大きな建物の家に向かった。
元病院のおうちは、大きいけれど、草がぼーぼーで、ひとりだったら絶対に行きたくないところだった。
「ここね、ひいばあちゃんの家なの!」
嬉しそうに笑う心愛ちゃんは、ためらうことなく扉を開けて中に入っていく。
埃っぽい家の匂いがした。
それになんだか湿っぽい。
「おじゃまします」
小さな声で一応言ってみたけれど、誰も出てこない。ずんずんと奥に進む心愛ちゃんに置いていかれるのが怖くて、急いで追いかけていった。
誰にも会わないまま、中を進むとガンガンと大音量のテレビが鳴っていた。
「ひいばあちゃん!きたよ!」
心愛ちゃんが急に大きな声で叫んだ。
びっくりしていると、古びた応接ソファに人が座っているのに気づいた。
心愛ちゃんはその人に近づくと、もう一度大きな声で叫んだ。
「ひいばあちゃん!出前一丁作って!」
テレビの音よりも大きな声に、ソファに座っていた人が動いた。
「ああ、ここあちゃん、おったんかね?」
それはしわしわの皮でできたおばあちゃんで、古めかしい柄の頼りないワンピースから見える肌はすべてカサついて見えた。
ちょっと怖い。
心愛ちゃんの背中に隠れるように少しだけ、後ずさった。
「ひいばあちゃん、友だち連れてきたから、出前一丁作って!」
「ふうん、そうかい」
しわしわのおばあちゃんは、テレビをつけたままで立ち上がると、どこかへ行ってしまった。
「今、ひいばあちゃんが出前一丁作ってくれるから、遊ぼう!」
「え、う、うん」
え?インスタントラーメン?
遊んでていいの?出前一丁ってすぐ出来るよね?
たくさんのハテナマークが浮かんでいたが、何から言えばいいのか分からず、心愛ちゃんに手を引っ張られるままに外に連れ出された。
蝉の抜け殻を探す競争をして、もう一度テレビのある部屋に向かうと、部屋の横にある廊下にしわしわのおばあちゃんがタバコを吸いながら座っていた。
その前には、ストーブに乗っかった鍋。
しわしわのおばあちゃんは、時々煙を吐きながら、ゆるゆると鍋の中をかき混ぜていた。
二人でその前に立つと、しわしわのおばあちゃんと目が合った。
何か言わなきゃと思ったけれど、無言のまま、しわしわのおばあちゃんは鍋に視線を戻した。
私も心愛ちゃんも黙って、ぐつぐつと煮立った野菜も何もない麺だけの茶色の鍋の中を、ぐるぐると箸でかき混ぜているしわしわの細い手をじっと見ていた。
開け放った廊下の網戸越しに、蝉がうるさいほど鳴いていた。
どのへんが出来上がったタイミングだったのか分からないが、ぐつぐつに煮込まれたやわやわなインスタントラーメンの出前一丁を心愛ちゃんと二人で食べた。
「おいしいでしょ?」
疑いのないまっすぐな笑顔で、ラーメンを食べる私を見る心愛ちゃん。
「のびてる……」
正直な感想しか出なかった私は、素直に思ったまま答えた。
「おいしいと思うんだけどなー」
「うーん、ちょっとしょっぱいのは、いいかも」
「でしょう?」
嬉しそうに煮込んだインスタントラーメンの出前一丁を食べる心愛ちゃん。それを見ているしわしわのおばあちゃんは、見えているのかなんだか分からないけれど、何も言わずに顔を私たちの方に向けていた。
この歳になると、夏に出前一丁を食べたいとは思わなかったけれど、秋風に煽られて、急に今すぐやってみようかと思った。
あれはかなりの柔らかさだった。
とりあえず、片手鍋に水を入れて、七輪にかける。
ちょっと考えて、袋から麺を取り出して、鍋に入れる。
屋外なので、蓋はしておこう。
あとはとりあえず、煮込もう。
カタカタと蓋が鳴り始めてからは、鍋に菜箸を入れてひたすらぐるぐるかき混ぜる。
何かに似ていると思った。
「あ」
祖母の姿を思い出した。
春と秋の彼岸に遊びに来れば、必ず餡子を煮詰めて牡丹餅とおはぎを作ってくれた。
正月に来れば、黒豆と昆布巻き。
いつだったか覚えていないけれど、タニシを煮詰めていた時もあった。
「イナゴ、も食べたなぁ」
ぐつぐつの鍋をぐるぐると混ぜる。
火が強くて、早々に煮詰まりそうだったので、水を足す。
静かになった鍋を見つめながら、祖母の料理を思い出す。
いつも時間のかかるものは、外で煮詰めていた。
それを私はしゃがんで、一緒に。
「あ」
思い出した。
私も作りたい、やりたいと言った時、祖母が七輪と豆炭を買ってくれたのだった。
あの頃は、祖母も軽トラックにまだ乗っていた。
正月のホームセンターで七輪と豆炭を買って、自宅に持ち帰ろうとして怒られて終わったのだ。泣きながら捨てないでと叫んでいた。
それがもう三十年以上も前の話で。
「……それを取っておいてくれたのね」
鼻がつまる。
菜箸を置いて、家の中に箱ティッシュを探しに入った。
泣き止んでから食べた煮詰まったラーメンは、美味しいのかなんなのか正直分からなかった。
鼻が詰まって何にも味がわからない。
ただ柔らかさはちょっと足りなかった。
「……もう一回、水を足せばいいのかな」
一度だけ食べたものだから、どの辺が正解かちょっと曖昧だ。
そういえば、心愛ちゃんはいつも突然だった。
私以外にラーメンを食べた子たちがいたけれど、約束をしたことはなくて、いつも子どもの気まぐれで誘われていた。
それでもラーメンが無かったと言っていた子はいなかったので、あのおばあちゃんは欠かすことなく作っていたのだろう。
老いた女たちの愛情は、時間というもので表される。
ぐつぐつと煮込まれる時間をかけて。
それを気まぐれに食べに来る子どもに、いつでも差し出してくれる。
鍋のそばに座る老いた女に、怒られることも、無視をされることもなく、ただ隣にいることを許されていると感じる無言の時間。
その時間も食べて、私たちは子ども時代を送った。
その時間を今度は自分の子どもや孫に与えるのだろう。
私の栗の渋皮煮も、離れて暮らす高校生の娘に送るため、手間を惜しまず作り始めた。
コトコトと母娘で一緒に鍋の前にいた記憶も入れて、栗を煮よう。
もし、上手くできたら、隣の家の子どもたちにも。
「……食べる?」
さっきから、こそこそと声が聞こえている植木の方に向かって鍋をかかげてみた。
ガサガサっと元気な音を立てて、小学生の子ども二人が飛び出してきた。
片方はむっちり、片方はひょろひょろ。
凸凹な兄弟。
「チキンラーメン食べたい!」
「オレ、塩ラーメン!」
「残念。出前一丁しかありません」
「「ええー」」
ブーイングを受けながら、笑って鍋を洗って新しく水を入れる。
ラーメンの好みも別か。
隣の家の献立は大変そうだなと笑ってしまう。
「おやつだから、二人で一個ね」
「おばさん、水飲ませて!」
「ください!」
「はい、コップ。あとは外の手押しポンプをやりなさい」
騒がしく水を汲む子どもたちを見ながら、少しだけ祖母の視線にあった柔らかい感覚を思い出していた。
知らない子どもでも、黙って出前一丁を用意してくれた心愛ちゃんのひいおばあちゃんも、たぶんこんな気持ちだったろうなと思った。
食べさせることが、一番。
食べない子どもがいたら、心配になる。
だから、食べたいと言われたら、作ってしまう。
ただそれだけだ。
それを無償の愛と言われても、よくわからない。ただの反射のようなものだ。
それでもそこに愛情があったから、私は覚えているのだろう。
娘の都に、それを伝えられるように一部屋分だけでも片付けを終わらせて、年末を迎えよう。
部屋にあるのは、重苦しいほどの時間を込めた祖母の愛情だった。綺麗に保管されたものをできるだけ使って、欲しい人にあげて。
「出前一丁できたよ〜!手を洗っておいで」
「「はーい」」
ちょっとだけ、次世代に繋いでいくのだ。
この煮込まれた重苦しくも柔らかい愛情を鍋ごと全部。
この作品は、しいな ここみ様のエッセイ
『ひぃばあちゃんの出前一丁』
https://ncode.syosetu.com/n8738hv/
を埋め込んだ二次創作です。
元になったエッセイは1,427字と短いですが、思い出がそのまま書かれていますので、未読の方はぜひ。