第67話 追憶ノ一
物心が最初の記憶を意味するならば、バーストにとってのそれは「抗いがたい殺人衝動」だった。
「ひぃっ、バケモノ」
欲望に従うままに、人を殺した。
「助けて、父上、母上!」
その爪で、肉を引き裂いた。
血の匂いを嗅ぐと頭の中に幸せな霞がかかり、また新たな血を求めた。
「死にたく、ない。金なら出す。だから……!」
その牙で、血肉を食らった。
アルコール依存症の人間がアルコールを求めるように、ニコチン依存症の人間が煙草を求めるように、来る日も来る日も人を殺して回った。
唯一の誤算は。
その快楽が、長く続かなかったことだった。
「……なんのために」
やがて、その体には死臭がまとわりついていた。
腐った死体の匂いであり、錆びた鉄の香りであり、死を振りまく病魔の臭気だった。
体が刺激に慣れ始めた。
あれほど楽しかった虐殺は、もはやなんの感慨もわかないものになっていた。
それでも、脳裡にうごめく欲求が消えることはなかった。
意味も分からず、ただ本能に従う日々。
そんなある日。
彼女は一人の男の子と出会う。
「だあれ?」
食指も動かない。
本能は目の前の子供を殺せと訴えている。
だが、いささか、意味もなく動き続けることにも飽き始めた。
『原初の呪い』は気まぐれに、少年に声をかけた。
「……そうだね。バステトとでも呼んでよ」
「じゃあバーちゃんだ!」
「ばあちゃん……、まあ、いいよ、それで」
訂正するのも面倒くさかった。
どうせすぐに、死が二人を別つ。
「バーちゃん、何か悲しいことがあるの?」
「……え?」
この時までは、そう思っていた。
「泣きたいなら、ボクに話してみてよ! 大丈夫。誰にも内緒だから! ね?」
「……ねえ、君の名前は?」
「ボク? ボクはねー」
それが、原初の呪いと。
「天月悠斗! よろしくね!」
天月悠斗の出会いだった。
*
天月悠斗はバーストにとって脆弱な人間だった。
今まで見てきた人間の中でも群を抜いて。
姓があり、恵まれた家系に生まれながら、彼の境遇はあまりにも不遇だった。
妾との間に生まれた彼の居場所は、本邸とは離れた場所につくられた、古い物置。雨水をすすり、湧く蛆虫を食らって腹を満たして生きながらえていた。
「みじめだね」
バーストから見ても、それは誇らしい生き方ではなかった。
だけど天月悠斗は笑っていた。
「あはは、かもね」
「そうまでして生きて、一体何になるって言うんだい」
言いつつ、バーストは自分の言動に違和感を覚えていた。
自分は、どうしてこいつを殺さないのだろう。
「あはは、もっともな意見だよね。ボクも、少し前までは同じことを考えていたよ」
「少し前まで? もう、答えを見つけたのかい?」
「うん」
何が琴線に触れたのかはわからない。
ただ、どうしてか。
少年の瞳から目を離せなかったのを、バーストは覚えている。
「だって今は、バーちゃんがいるもん!」
今となっては誰も覚えていない記憶。
それでも、彼女だけは忘れない。
「一日でも長く生きれば、一日でも長くバーちゃんと一緒にいられるでしょ?」
「……そっか。そうだね」
「えへへ。ボク賢いでしょ!」
胸の奥に、何かがずっとつっかえていた。
それが何かわからずにいた。
だけどその時。
確かにそれが。
「うん。そんなこと、思いもしなかったな」
ゆっくりと、抜けるのを感じた。
春が来て、雪が解けるように。
*
「やあ、いるかい?」
バーストは、昼に昼寝をして、夜は散歩するのが日課になっていた。その経路には天月悠斗の寝泊まりする小屋が含まれていて、彼が眠りこけるまで無駄話をするのがいつものことだった。
「……今日はいないのか」
だけど、その日はそこに、彼がいなかった。
ちくりと、胸に針が刺さったような痛みが走る。
バーストはしばらく右往左往した後、倉庫の白壁にもたれかかり、星空を眺めた。
後にフランスのラランドによって「ねこ座」と命名される星が空には瞬いていたが、バーストはそれを知らない。
「……」
天月悠斗という人間に触れて、外界に意識を向けるようになって気づいたことがある。
一つは、自分と似たような存在は意外に多く存在するということ。人は彼女たちのことを『呪い』と呼んでいるらしい。
そしてもう一つは、柩使いと呼ばれる者たちが、『呪い』を退治して回っているという噂。
人間がいくら策を弄したところで狩られるとは想像しがたかったけれど、その存在は認知していた。
認知はしていたが、それが自分のもとに来るのはもっと先だと思っていた。
「動くな、『原初の呪い』」
「……誰だい?」
「柩使い、神藤彦斎」
「……へぇ?」
バーストは久々に、血が騒ぐのを感じた。
それは生存本能。
柩使いと相対し、自分を殺しうる敵と直感したのだ。
「下等種が、誰に口をきいている」
「呪い風情が、なめた口をきくなよ。こちらには人質がいるのだ」
人質。
人間の記憶から生まれたバーストには、もちろんその言葉の意味も理解できた。
だが、どうして自分が人質を取られるのかが理解できなかった。
「誰のことを言っている?」
「天月悠斗」
殺したければ殺せばいい。
表層心理で考えたのは、そんなことだった。
「……彼をどうするつもりだい?」
だけど、口をついて出たのは、自分でも驚くような言葉だった。
驚いたのは彼女だけではない。
相対する神藤もまた、目を見開いていた。
「くはは、話を聞いた時は耳を疑ったが。ふはは! まさか本当に人間にほだされた『呪い』がいるとは!」
天月悠斗は人間で、バーストは呪いだ。
世界はその二つが交わることを許さない。
「案ずるな。害なしたりなんかしない。お前がおとなしくしている限りはな」





