弐
境内の中央に立ち、娑雪は太腿の木箱から式神を一枚取り出し、それを右手の親指と人差し指の間に挟む。
「【式術・陣中一式】」
指から抜け出した式神は例によって、空中で四十数枚にまで分身する。
しかし前回と違うのは、空中に舞い散って居た式神がどんどん地上に降り、青白い光を放ちながらその姿を変えて行った。
紙の姿から、本当の人間の様な姿になり、巫女や神主の様な服を身につけて居る。
手足は紙の様に白く、顔には梵字の描かれた和紙の札が張り付けられて居る様に見えた。
娑雪の今の身体と同じ原理で作られ、式神に与えられた肉体は、彼女ほど頑丈では無いものの仕事をこなすには十分であった。
「これから、よろしく頼むぞ。」
式神達は物言わず、境内の掃除や庭の手入れを始める。その様子を見届けた娑雪は、少し急ぎ足で自室に入って行った。
薄暗い部屋の木製の床板を外すと、小さな空間と一本の酒瓶がそこにあった。彼女はその瓶を手に取ると、少し名残惜しそうに眺める。
「これで、ぬしとも暫しの別れじゃな。三千年間、感謝しているぞ。本当に。」
煉龍酒。
龍すらも焼けると言われる程の強力な火酒で、彼女を信仰する集落では、秘伝の製法でひっそりと造られていた。
その酒は、彼女にとって最も付き合いの長い友とも言えただろう。
〜
この大陸の中で、四大大国と呼ばれている内の一つ、バトリア王国。
冒険者や貿易、いくつもの集落を活用した農産業によって盤石な国力を保つ、他の国々と比べても泰平の国だ。
城下町への正門に、馬車の一団が到着する。その荷台には、綺麗に鞣された羊皮がいっぱいに積み込まれていた。
技手と門番は顔見知りらしく、軽い確認のみでその馬車を城下町へと通したのだ。
「よし、着いたぞ。場所は分かるな?ドレ。」
技手が、皮の中に隠れていた少年に声を掛ける。
「ああ。肉屋の隣、だろ?へへ。」
技手と軽く会話を交わした少年ドレは、景気良く荷台から飛び降り、冒険者ギルドを目指して駆け出した。
〜
黄茶色の草原を行軍する、騎士の一団がそれを最初に発見した。
「ん?おい、止まれ。」
黒馬にまたがり、銀の甲冑に身を包んだ、勇ましい男達。
その先頭を行くのは、茶色い髭の印象的な初老の男だ。
「おい、前に来た時にもこんな山はあったか?」
「いえ騎士団長。地図にも偵察部隊の報告にも、この様な物は有りませんでした。」
「.......新設ダンジョンか。おい、奴らに此処に篭られては厄介だ。念の為報告するぞ。」
「は!」
騎士団長はその山を見上げる。
世界のどこの地域の植物とも違う、見た事の無い草木に包まれ、巨大な縄の様な物が山に巻かれて居るのも見えた。
時々、木々の間から白い紙屑の様な物が飛んでいるのも見つけた。
「…」
彼は少しの違和感を、その山に対して抱いたのであった。
ダンジョンとは、本来は見る物を震え上がらせる、畏怖の対象のような容姿をしているはずだが、その山は逆に心の安らぐような、神秘的な雰囲気を帯びていた。
山頂付近にまで続くであろう苔むした石階段からは、危険な気配など微塵も感じず、来るものを受け入れるかのように木漏れ日で優しく照らされていた。
「威圧感のいの字も感じられん初級ダンジョンか。入り口に兵を配置して、事が済むまで此処を封鎖しておけ。」
「かしこまりました。」
〜
ダンジョン攻略やモンスター討伐、時には自国の為に戦場にも立つ、強力な能力を持った者たち。
彼ら、彼女らは総称して、冒険者と呼ばれていた。
「俺に客?」
石造りの廊下を行く、青い鎧に魔法の大剣を背負う大男。ダリアもそんな冒険者の一人であった。
「はい。なんでも、ドレと名乗る少年で…」
「ドレ?今何処にいる?」
「待合室です。」
年季を感じる石造りの巨大施設、ギルドバドリア。
バドリア王国の冒険者達への依頼は、どんな物であれクエストという形に纏められて此処に集結する。
彼がドレとやらの待つ待合室に向かおうとした時、廊下の向こう側のドアが勢いよく開いた。
「こら!ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
係員の制止を振り切り、少し汚れた薄着の少年が、彼の元に駆けてきた。
「兄さん!」
「ドレ!やっぱりお前だったか!」
少年が、彼の青い金属の胸当てに抱きつく。
彼も少年の背中をさすり、数年ぶりの再会を喜んでいた。
「大きくなったなぁ。母さんは元気か?」
「ああ。兄さんがいない間に、俺たちに妹も出来たんだ!」
「何!?無事に産まれたのかぁ。良かった良かった!」
暫く互いに笑いあっていた二人だが、不意に何かを思い出したかの様に、少年の顔が苦々しく変わった。
「…やっぱり、何かあったんだな。」
「最近、村の周りがおかしいんだ。西の森に見た事ない妖精が現れたり、変な地鳴りが怒ったり。」
「地鳴りか…近くに大型モンスターが現れたのかも知れない。俺からクエストを出して、里帰りがてら調べてみよう。」
「ありがとう兄さん。母さんもきっと喜んでくれるよ。」
彼は少年を肩の上に乗せて持ち上げると、先ほどと変わらぬ足取りで待合室の方に歩いて行った。
〜
空になった盃を、娑雪はぺろりと一舐めする。
ゆっくりと、ちびりちびりと味わいながら、彼女は煉龍酒との最後の別れを済ませた。
「…少し、散歩でもするかの。」
部屋を出て、どんな時も穏やかな姿を保つ大きな庭園を眺める。
二人の式神が草を刈ったり水をやったりしているのを、ただぼうっと眺めていた。
彼女は生きるのに殆どの物を必要としていないため、神社の中の殆どは術具を製造したり、保管したりする為の倉庫であった。
仙山から切り出した上質な木材から墨汁を作り、庭の池の辺りで栽培している楮や雁皮などから和紙をすく。
元いた世界では殆ど使わなかったが、この世界でもそうとは限らない為、家内式神を使い再び生産を開始させたのだ。
(…そうじゃ…私は此処の事をまだ知らな過ぎるのじゃ。)
新たな集落の見回り程度ではなく、生きていく為にはまずこの世界そのものを把握しなければならない。
この世界において自分はどの程度の存在なのか、どれほどの人間が住んでいるのか、まだ見ぬ酒はあるのか。
それを知るには、彼女一人では少し心許なかった。
「久々に、あやつの顔でも見るかの。」
太ももの木箱から式神を取り出し、そっと口にくわえる。
そのあと物置の方角に手を伸ばして中指と人差し指を折り曲げると、三本の足が付いた木製の燭台のようなものが、床を滑る様に彼女の元へと向かった。
しかし、ここにたどり着き停止した際の衝撃で、その燭台のようなものを包んでいたほこりが一気に部屋中に充満してしまった。
「ゲホッ!ゴホッ!」
(尊召台を使うのはいつ振りじゃったかのぉ…)
長さは彼女の背丈ほどあり、三脚の中心から長い一本の棒が伸びている。その先には紙ほどの薄さの物を挟むための、クリップのような物が付いていた。
一見ただの木製のガラクタだが、これも彼女の立派な術具だ。
咥えて居た式神をそのクリップ部分に挟むと、ただの和紙の筈が、それは独りでに立ち上がった。
「…沙羅陰陽世二告求ム.…其真名乎呼ブ.來.…曙 水叉ノ御霊。」
口の中に含むように、彼女はぽそぽそと呪文を詠唱した。
すると、敬召大を囲む様に梵字の様な物が床に浮かび上がり、それは何かの生物の様に台の上へと這い上がっていく。
頂点にある式神に到達した物から、青白い光となってその紙の中に消えていく。
「…休暇は終わりじゃ。水叉よ。」
最後の一筋が吸収された時、不意に式神がそのクリップから抜け出し、青白い閃光を放つ。
使用人を生み出した時はピクリともしなかった彼女の目は、その光に少し細められる。
と、彼女の隙を突く様に、閃光から大きな紙袋が放たれる。
「うぬ!?」
「お土産だよ!いやー今回の旅行もすっごい…え?」
閃光の中から現れたのは、大量の紙袋をぶら下げた少女。
その容姿は娑雪よりも若干あどけなく、女子高校生の様な雰囲気であった。
「ぼ…」
「久しぶりじゃのぉ。水叉よ。」
「ぼぼぼぼぼぼボスぅぅぅぅ!?」
水叉と呼ばれた少女はすぐに全ての紙袋を床に落とし、娑雪に向かって敬礼のポーズをとった。
金色の金属で装飾された長めのブーツに、黒いミニスカート。長袖の黒皮の軍服に、茶色く長いポニーテールが特徴的な少女だ。
「たた…大変申し訳ございませんでした!てっきり、自分の事なんてもう忘れてしまったものかt…ふひゃ!?」
娑雪が軽く左の中指を動かすと、水叉は娑雪の方に引き寄せられた。
少し速度が速かったが、娑雪のその豊満なバストによって衝撃の全てが打ち消される。
「忘れる訳無かろう。ぬしは私の、大切な有我式神なのじゃからな。」
水叉の頭をそっと撫でながら、子供を抱擁する母親の様な優しい声で囁いた。
「ぼ…ボスぅ…」
「ふふふ…また、精一杯こき使ってやるぞ。」
「はい!ボス!…え、今なんて?」