弐拾玖
「…やあ、体の調子は…あれ?」
翌日の夕方、青年は再びエルピの居る筈の病室に戻る。
しかし、そこに少女の姿は無かった。
「…はあ…また始末書綴んないと…」
肩を竦めながら、青年はその病室を後にしようとする。
「?何だこれ。」
不意に青年は、ベッドに取り残されていたそれを見つける。
大雑把な人型の形に切り取られ、奇妙な紋章が描かれた紙切れ。
(これ…あの子の背中に張り付いていただけなのか?てっきりタトゥーか何かかと…)
彼は、それを拾い上げようとした。
しかしその前に、紙切れが独りでに起き上がったのだ。
「うわあ!動いた!?」
“………”
紙切れは、まるで何かを追うように、窓の隙間から抜け出してしまった。
「よ…妖精…?驚いた…妖精ってあんな感じなんだ…」
ふと、青年は手元のカルテに目を通す。
獣人と言う理由だけでは説明がつかない程の、彼女の驚異的な回復速度が記録されていた。
「成る程。あの妖精のお陰って訳だね。」
青年はそれ以上の詮索はしようとはせず、カルテに一つ、“早期退院”とだけ記し、その病室を後にしていった。
〜
「似顔絵?でも…君、その体じゃ…」
路上に座り、無表情でその男を見上げる少女。
男は、疑い交じりにもその少女に注文する事にした。
「……では。」
腕の無い少女は、足を使って器用に鉛筆を持ち、真っさらなキャンパスに向けて描き始めた。
体制を崩すこともなく、鉛筆を落すこともなく、両足を使い男の顔を写し取って行く。
普通の似顔絵屋の半分未満の時間で、見事な男の似顔絵が完成した。
「こりゃ驚いた…」
「…鉄貨3枚…です…」
男は、少女の傍にあった古ぼけた防止に、コインを三枚投げ入れる。
「じゃあね。君の事、色んな人に話して置くよ。」
「…どうも…」
ふとエルピが帽子の中を確認すると、帽子の中に入っていたのは鉄貨では無く、一枚辺り鉄貨の百倍の価値を持つ、銅貨が三枚入っていた。
「!」
銅貨三枚は、人一人が二月ほど不便な無く暮らせる額だった。
(暫くは飢えて死ぬ事は無さそう…冬の為に、コートや燃料も欲しいかな…)
エルピは、男の去った方向に向けてお辞儀をすると、キャンパスに紙をセットし、再び客を待つ為に座った。
値段を書いた紙は、ギルドからの解雇通知の裏紙を使っていた。
〜
荒犬神の屋敷。
そこに、数体の妖怪と荒犬神が面会を行っていた。
「コクコク…」
荒犬神は、透明な液体を盃に満たし、それを恐る恐る飲み干した。
「………」
「どうですか…?親方…」
「………」
「親方?」
「う……ぶえっふ!?ぐえええ!うぎゃあああああ!?」
突然、荒犬神は喉を抑えながら倒れ、のたうちまわる。
「親方!大丈夫ですか!?」
「ふ…ふふ…これだこれだ…これこそ…煉龍酒…!本物の煉龍酒だ!…ううう…」
その言葉を最後に、千妖を統べる神は、あっけなく酔い潰れてしまった。
その寝顔は、どこか微笑んでいるようにも見えた。
〜
日が沈み掛ける夕日に向かい、娑雪は壁の上から、木製の縦笛を演奏していた。
低く澄み、それでいて美しい音色だったが、その音が彼女以外に届くことは無い。
月千の都を包む様に、膜の様な結界が張られた。
都の空を、偽りの物に変える結界。
「……」
笛の演奏を終えた娑雪は、その笛を腰にある金具に取り付ける。
そして、今度は懐から一枚の仮面を取り出し、宙に放る。
「【禁術・千切れ】」
これは彼女の、拒絶の証だ。
『ご主人様、何処にいますか?祭りが始まってしまいますよ?』
「ああ、輕陀か。私は少し野暮用が出来た。案ずるな、数刻程で戻る。」
『そんな…今日は貴女の誕生日ですよ?主役が不在とあっては皆も…』
「ふ…心配せんで良い。直ぐ戻る。」
『…分かりました。もう始めてしまいますからね!』
漆塗りの木板を、そっと懐に仕舞う。
と、宙に留まっていた面に、おびただしい数の紙の式神が集まり、一つの塊を成し始めた。
生えそろった毛のように紙が
娑雪はふと上がり、都を囲う様に広がる“影”を見下ろした。
所々に松明が灯り、刺々しい影が、照らされ平原に浮かび上がっていた。
(これは確かに、“多”過ぎるのう…百…いや、二百か…)
影の正体は、いくつもの分隊に分かれた、数多の冒険者達であった。
刻一刻と日は沈み、それに呼応するかの様に、所々から無数に、金属の擦れるなどの物音が聴こえてきた。
「【仙術・化幽門】」
杖の石付きで、彼女は壁の屋根をトンと叩く。
すると、その真下にある門の形状が僅かに変わった。
月千の都と全く同じ建物、立地の、全く別な空間に繋げたのだ。
都側には、扉に“使用厳禁”と書かれた札が出現した。
「ふむ、これだけの客人を迎えられるほどの茶は無いな。」
都の正門前に集合していたのは、ラクリマジカ最高評議会より直々に指名された、総勢二百三十七名の精鋭の冒険者達であった。
娑雪が、一歩秘匿結界から出た瞬間、彼らは大挙して彼女を打倒すためにその武器を抜くだろう。
“キシイイイイ…”
娑雪の傍らに立っていたのは、先ほどまで彼女の懐にあった面を付けた、異様な姿の式神であった。
億魂式神。
百人の僧侶と、それと同数の罪人を贄にして降臨させると言われる強大な式神だ。最も、彼女はその贄の全てを、人型の紙切れで代用してしまったが。
その体は無数の紙の式神の集合体で、二足歩行の狼の様な姿をしている。鬣を形作る式神が、カサカサと風になびいていた。
「…彼奴らの事を、頼んだぞ。」
“ヒイイイイィィィィィィ………”
次の瞬間娑雪の姿は消え、壁の上に佇むのは億魂式神のみとなった。
〜
「ここが伝説級ダンジョン?どう見ても何も…」
「それが秘匿魔法よ。」
オードリス平原の一角に、ダンジョン攻略の為のラクリマジカ冒険者の、大規模なキャンプが築かれていた。
何も無い平原の様子見に、二人の冒険者がキャンプ地から離れていた。
「お前は、何か見えんのか?」
「当たり前よ。こんなチャチな秘匿魔法、小石一つで…」
「マジで!?」
「ちょっと、今のは冗だ…」
それを聞くや否や、片方の冒険者は地面に落ちていた小石を、その何も無い平原に向けて放り投げた。
“ピキ…”
小石が軽く何かに弾かれ落下し、小石の当たった場所から亀裂の様なものが広がっていった。
「おお!本当だ!」
「嘘…ここまで虚弱だったなんて…」
風景が、絵の書かれた壁か何かの様にどんどん崩れていき、その“ダンジョン”の全貌が露わになる。
ギリギリ人の足では飛び越えられない程度の壁に囲まれた、煌びやかな都の様な場所であった。
「はあ…あんたって奴はねぇ…」
小石を投げた冒険者の方を、魔法使いの冒険者が見た時だった。
“バキバキ…グチャ…グチャ…グチャ…”
そこにあったのは、血溜まりと、紙人形の集合体の様な姿をした一体のモンスターだった。
奇妙な仮面をつけ、その裏側から、ぬらぬらと湿った細長く赤い舌が伸びていた。
「…は…?」
“……”
モンスターの手からは、白色の爪と黒色の爪が交互に伸びており、それはとても細長く鋭利な物だった。
(…殺される…今…少しでも動けば…)
彼女自身、隊長級の実力を持つ大魔導士だ。
がしかし、生物としての本能が、彼女を凍りつかせた様にその場に留めていた。
“………”
仮面に隠されたその顔が、怯える少女の方を向く。
その仮面には、まだ新しい血がこべりついており、紙の隙間に、かつて冒険者だった物のかけらが僅かに引っかかっていた。
「あ…う…」
“スウウウウゥゥゥゥ……”
しかし、その鋭利な爪が彼女に伸びる事は無く、モンスターはそのダンジョンの門の前に立った。




