壱
草原の中にある小さな農村。
普段は静かなこの場所だが、とある家がひときわ騒がしかった。
「本当だって!あの森にとうとう妖精が帰ってきたんだ!ほら、この傷も妖精が治してくれたんだ!」
「全く…私は貴方に、アムライト草を取りに行かせた筈だけど?」
「モンスターから逃げる時に落としちまって…嘘じゃ無いって!」
少年の必死の弁解も、不機嫌な少年の母親には全くもって通用しなかった。
「そもそも、深淵のグリズリーは文字通り、アムライト草の生えない森の奥深くにしか現れないのに、何故貴方が遭遇するんですか?」
「それは…」
少年は口ごもった。
彼は母親を喜ばせようと、安価なアムライト草では無く、森の奥に生える貴重な別の薬草を探していたのだ。
「とにかく、今日の薪割り当番は貴方よ。分かった?」
母親は少し突き放す様にそう告げると、簡素な作りの台所に立ち、朝食の支度を始めた。
「はい…母さん…」
こってりと絞られた少年は、無気力な返事とともに自室に篭ってしまった。
その少年の服から垂れた、一滴の妖力の込もった墨汁が、床下へと染み込んで行ったのにも気付かずに。
〜
その頃娑雪は、神社の周りを巡回する様に、周囲の状況を確認していた。
「…遠い異国…いや、全く別の世界か…?」
初めは真っ白だった和紙に、式神達が探索した場所の地形がみるみると描かれていく。
その様子を眺めながら、彼女はポツリと呟いた。
線や点伸びていき、彼女の手の中で、神社付近の地図が完成しようとしている。
“カサカサ…”
と、彼女の元に一体の式神が戻ってくる。彼女の命令通り、“人か何か”を見つけたのだ。
その式神は彼女の地図の上に乗ると、その腕に当たる部分から墨汁を一滴垂らす。
その墨汁は何かの生き物の様にツルツルと和紙の上を這い、ある一点にたどり着いた時に紙に染み込み、『里』の文字と場所を示す為の黒点を、その地点に刻んだ。
「ふむ、でかしたぞ。」
彼女はその小さめの里の文字を眺めながら、この世界の村の姿を想像していた。
(此処の住民にも会ってみたいが…よそ者を歓迎してくれるとも限らんかの。)
人が居ると分かった以上は慎重に行動しなければならない。
彼女は、一度神社に戻り地図の完成を待つ事にした。
地図によると、どうやらこの付近は森林と草原がまだらに入り混じった土地らしい。
「…何じゃ?」
彼女は神社の境内の中に、狼の様な姿の四足獣を見つけた。
獣は娑雪を見つけると、突然彼女に向けて疾走を始めた。
“グルルルル…ギャウ!?”
しかし、砂利に慣れていないらしく、彼女の5m程手前で獣は体制を崩す。
(ただの狼か?それにしては…)
その体毛はくすんだ緑色をしていて、彼女の記憶の中の狼と比べても、その体格は明らかに巨大であった。
彼女は、いつまでたっても起き上がらないその獣を不安に思い。そっとそちらの方に歩いて行った。
「どうした?怪我をしたのk…」
“ギャウ!”
その獣は待ち構えていたかの様に突然起き上がると、彼女の右腕に思い切り噛み付いた。
しかし、彼女の身体からは血は一切流れず、獣の牙は彼女の肌に傷を刻むことすら叶わなかった。
「……」
獣はすぐさま立ち上がり、彼女に向けて追撃を計ろうとした。
しかし、彼女の左手が腰の刀に触れるのが見えたかと思えば、その獣は一瞬で見事な輪切りにされた。
「【剣技・刹那】」
(…随分と知恵の働く獣じゃが…力が弱いのかの?明らかに普通の狼では無かろう。)
逸れたと考えれば、単独行動をしているのも納得が行く。が、知恵の働く割には、相手との力量差を顧みず単独で襲ってくるのは、彼女の知る狼ではあり得ない行動だった。
(む、地図が完成しておる。…しかし、神社を先にどうにか守らねば…)
この神社には彼女の本体、兎頭仏が安置されている。言わば、この神社は彼女の命そのものなのだ。
得体の知れないこの世界での、彼女なりの防衛本能が働いていた。
彼女は先ず、境内の裏庭園の中心にある、石煉瓦の円盤型の足場に胡座をかき、精神を集中させる。
円盤からは、梵字の様な物が繋がった様な線が境内全体に伸びていき、彼女の精神が境内全体に張り巡らされた。
その様子は何処か不気味だが、同時に神秘的でもあった。
「【仙術・霊峰召山】」
轟音とともに、神社の建つ土地が次第に隆起を始める。
土地が盛り上がり変質しながら、みるみるうちにその神社を天高くまで持ち上げて行く。
此処に山を建てる理由は二つだ。
先ずは神社をさっきの様な獣から守る為。もう一つは、この轟音で引きつけて、この世界の人間との初接触を試みる為だ。
「ぷはっ!…やはり、準備運動くらいは必要じゃったかのぉ…」
辺りの西洋風の雰囲気とは明らかに浮いている、見るも厳かな霊峰が平原の真ん中に完成した。
山を彩るのは、この世界には決して存在しない、彼女の故郷の草木の数々。8合目辺りに建つ神社まで続く長い石階段も生成され、事実がどうであれ、この場所が太古の昔から存在していたかの様な、そんな神聖な雰囲気を帯びていた。
さっき彼女が神社の周囲を巡回していたのは、阻むものが無いかを確認する為だったのだ。
(中の物が倒れてしまったかやも知れぬ。)
距離から、直近の人里から人間が来るのにはまだ時間が掛かると思い、彼女は神社の中を確認する事にした。
(む、案の定そこまで散らかってはおらぬか。)
神社の頑強な造りに感服しながら、兎頭仏の間に入った時だった。
「な!?」
彼女の命とも言えるそれは、安置台から転げ落ち、無残に崩れ壊れてしまっていたのだ。
(落ち着け...落ち着くのじゃ....)
パニックに陥りそうになるのを必死に堪えながら、状況を整理する、
まず、兎頭仏がこんな状態ではあるが、自分は無事だと言う事。残骸を見るに、木製のこの仏像は初めから内部が腐っていたと言う事。
(まさか...私は既に、この仏像から...)
既に彼女は四千年もの間を生き、信仰されていたのだ。あり得ない話でも無い。
既に依代から解き放たれる程に、彼女の神格が高位な物になっていたのだ。
(....そうか。いつからか、あれはただの依代の一つに過ぎなかったのだな。)
散らばった木片を片付けて、置く物の無くなった台座を彼女はふと見た。
なんだか物足りなく思い、太腿の木箱から式神を一枚取り出して、安置台の後ろの壁に張り付けておいた。
〜
“ゴオオオオオオオオ.....”
霊峰出現の轟音は、いつかの少年の居た小さな村を揺さぶった。
「なんだ!なんの音だ!?」
「ドラゴンでも来たのか!?」
丁度正午ごろ、人々が昼食を終えて畑仕事に戻る時間帯の出来事だった。
「何だ...?」
薪割りの合間に、妖精図鑑を読み進めていた少年も手を止める。
自分の出会った妖精が何の種類なのか、一向に掴めずにいたのだ。
「ドレ!怪我は無いかい!」
「ああ、俺は平気だよ。それより、村のみんなは?」
「物が倒れたりしたらしいけれど、怪我人は居ないみたい。」
「そっか。良かった。...だけど....」
あの奇妙な妖精と言い、さっきの轟音と言い、この村に唯ならぬ何かが起きようとしているのは確かだ。
少年は、形容しがたい恐怖に襲われていた。
「母さん…俺、バトリアに行ってくるよ。この事を冒険者協会に伝えてくる。」
「そんな、危険よ!私が代わりに…」
「母さんはアンナと村の面倒を見てやってくれ。午後に皮を街まで運ぶだろ?それに付いていくよ。」
「そうかい。気を付けてね。」
少年は割りかけの薪を放り出し、旅支度を始めた。