零
窓もない木製の建物の部屋の中、一本の蝋燭の光に照らされた人影が、一人晩酌にふけっていた。
小さな盃を人差し指で持ち、飲み干し、また注ぎ、また飲み干す。
満たされては空になる盃とは裏腹に、その部屋の中はみるみる濁った水に満たされて行く。
「……」
この調子では呑みきれないと判断したその人物は、酒瓶に口を当て、残った酒を一気に飲み干した。
彼女の名前は娑雪。この神社に祀られている、いわゆる八百万の神の一柱である。
長く伸び、雪のように白い髪と、宝石の様な赤く美しい瞳。頭には垂れた大きな一対の、兎の耳もある。外見は20代ほどの容姿端麗な女性だが、実際の齢は四千年を超える大神であった。
祀られた仏法衣はどれも儀式用の小さすぎる物なので、彼女なりに着崩していた。二着を布の状態まで戻し、一着は胸と右腕を包み、振袖になっている。もう一着は右足側を隠すチャイナドレス型になっており、大胆に現れた左の太腿には包帯が一周だけ巻かれており、そこには細竹で出来た筒が二本と、小さな木箱が挟まれていた。
腹と腰が出ているため、遠い昔、とある住職が同じ素材の布を彼女の為に供えてくれたのだが、彼女はそれを腹には巻かず、左腕の袖にしてしまった。肩ではなく二の腕から始まり、手先に行けば行くほど袖が太くなって行き、袖口は右手の物よりも遥かに広くなっていた。
(もう…誰も私の事など覚えてはおらんか…)
昔は自身の住処の神社が危機に晒される事は幾度となくあり、その度に彼女の依代、兎頭仏を運び出す住職が居たが、今はもう居ない。
別に誰かが持ち出さなければいけないと言う事でも無いが、人々から必要とされなくなった神に、もう存在意義は無い。少なくとも彼女はそう考えていた。
(…運が良ければ、誰かが拾ってくれるじゃろうか。)
蝋燭を立てていた行燈が倒れ、部屋は真っ暗になる。
彼女は目を閉じて、瓦礫混じりの水に身を任せながら、その投影された肉体を消す。
彼女の後に残ったのは、古ぼけた木製の、兎の頭を持つ仏像だった。
〜
壁の建設が完了して、新大河原ダムの為の水の流入を開始した。
ダムの壁の上に、流入作業の様子を眺める二人の男性の姿があった。
二人とも安全第一と書かれたヘルメットを被り、一人は擦り切れたボロボロの作業着、もう一人はほとんど汚れていない作業着を着ていた。
「ふわ〜ぁ…先輩、なんで深夜にこれやるんすか?」
「仕方ないだろ。建設作業に遅れが生じたのだから、今までのスケジュールじゃ期限に間に合わないんだょ。」
「はあ…予想以上に立ち退きに手こずったんでしたっけ?」
「ああ。特に、あそこに神社が見えるだろう。どうやらかなり珍しい造りらしくてな。突然歴史なんとかかんとか委員会が押し掛けて来たんだよ。全く面倒くさいよな。」
「全くっす。そんな事ならもっと早くに調べとけば良かったのにですね。」
談笑を終えた二人は、水に沈んでいく小さな村の様子に、再び観察を始めた。
濁流が木々を、家々を破壊していく中で、ちょうどこの村の中心に建てられている神社だけは、半分ほどが水に浸かっているのに未だにその形を留めていた。
「しかし神社ってのは随分と丈夫に作られているもんすね。」
「俺もあんなのは初めて見る。もしかしたら、水底でもあのまま残っているかもな。」
水が次第にその神社も呑み込み、それから数十分後には、ダム建設計画の規程水量まで達した。
「無事終わりましたね。」
「まだだ。どうやらまだ管理基地局の建設が終わっていないらしい。行くぞ。」
「うい〜」
二人の作業員はその場を立ち去り、水面下で起こった発光を見た者は居なかった。
〜
(……水底は、思ったよりも明るいのじゃな。)
少しの間は、娑雪は仏像の姿のまま、うとうととしていた。
殆どの感覚はシャットダウンされるが、光の明暗、物音くらいは微かには感じることが出来た。
“…パチパチ…”
(…む?)
水の中の割に随分と乾いた音を感じた娑雪は、恐る恐る、再び仏像から女性の姿になる。
目覚めた娑雪を待っていたのは濁った水では無く、さっき水に沈んだ筈の神社の自室だった。
どこを見渡しても、水の一滴も見つからなかった。それどころか、蝋燭の使い切られた行燈に、空になった酒瓶と盃が娑雪の傍に転がっている。
(妙じゃな…一体何が起こっておる…?)
彼女は戸惑いながらも立ち上がり、外の様子を確認する為に部屋を出る。
外に出るまでも、廊下や他の部屋にすら水は一滴も無く、むしろ前よりも少し小綺麗な状態だった。
そして、彼女は外にたどり着く。
「どうなって…おる…?」
御神木含めた数十本の木々、もとい境内は全くそのままだが、境内の外は背の短い茶色い草の生えた、全く見覚えの無い地面。
彼女は、神として生まれて四千年の中で、初めての感情を抱いた。
自分の身に起こっている、得体の知れない何かに対する恐怖。
見たことの無い茶色い草を素足で踏みしめると、その草が枯れ草の様に堅く、同時に芝生の様なしなやかさがある事が分かった。それと同時に、自分が今素足であるという事も。
(…落ち着くのじゃ…今は周囲の様子を調べなければ…)
彼女は一度神社の中に戻り、身支度を済ませてから外出する事にした。
室内に戻る途中、見たことの無い鳥が数羽上空を通り過ぎて行ったが、今の娑雪はそれどころでは無かった。
(ここはあの世という奴か…?いや有り得ぬ。あそこはこんな場所では無い。…酔って変な夢でも見ているのかの…?)
長さは背丈ほどで、杖身は黒く染色された欅。先端の大きな金属の輪に3つの小さな金属の輪がかかった、鉄の石突きの杖を背負い、豪華な装飾品で飾られた宝刀に、呪術と趣味の為の縦笛。チョーカーの様に身につける数珠。平べったく広く、二つの小瓶の吊るされた、草を編んで作られた頭に被るための茶色く丈夫な傘。
懐や袖の下にあといくつかの物品を仕舞うと、靴下は無く、裸足にそのまま草履を履いて再び外に出た。
(先ずは、付近の地形を調べる必要があるかの。)
太ももに装着された木箱から、和紙を一枚取り出す。
その和紙は人型をしていて、頭部に当たる部分には一本の線が引かれていた。
「【式術・百目紙海】」
親指と人差し指の間から独りでに抜け出した和紙は、青白い光を放ちながら、まるで重なっていたかの様に空中で無数に分身する。
百枚程になった時に分身は終わり、頭に書かれていた線の部分が開いて目の模様に変わる。
「行って来い。人か何か見つけたら、私の元に戻ってくるのじゃ。」
まるでその命に呼応したかの様に、式神達は一斉に散りじりになって何処かに飛んで行く。
それを見送った娑雪は、おどおどとしながらも、境内から出てこの土地の散策を始めた。
〜
「はあ…はあ…はあ…」
森の中を疾走する、赤子を抱えた少年が居た。
その後を、黒くごわごわとした体毛を持つ巨大なクマが追っている。
「うわ!?しま…」
“ドサ!”
間一髪で赤子を庇ったものの、少年は木の根に足を取られて盛大に転倒する。
“グオオオオオオオ!!!”
「クソ…何でこんな…」
熊…もとい、深淵のグリズリーが、二人の肉を喰らおうと勢い良く駆けてくる。
少年は足を引きずりながらも必死に逃走を図ろうとする。
「チクショウ…せめて、こいつだけでもどこかに隠さなきゃ…」
絶体絶命の状況で、少年は赤子を隠せる場所を探そうと辺りを見渡すが、見つけたのは奇妙な姿をした、ひらひらと宙を舞う何かだった。
掌ほどの大きさで、一見風に任せて流れている様だが、その挙動は明らかに生物のそれだった。
「…妖精…この森に…?…あ!頼む!手を貸してくれ!」
言葉が通じるとも知らないそれに、少年は必死に声をかける。
腕の中の赤子が目を覚まして泣き出し始めようと、少年は必死に呼びかけ続けた。
“…………”
薄っぺらな体に、ただの絵にしか見えない目を持つそれは少年を見つけると、すぐに主人の元に帰ろうとするが、少年を狙う魔獣の存在も同時に感知する。
死んでしまえば、見つけた事にはならないのでは無いか。限られた知性で、それはそう結論付けた。
「頼む妖精さん!こいつを何処かに隠してはくれn…」
“………”
それは両の手をすり合わせる様な動作をすると、青白い炎の玉が出現する。
向かってくる魔獣に狙いを定めると、それは火球を思い切り魔獣の目にぶつけた。
“グガアアアアアアア!?”
驚いた魔獣は、すぐに森の中に消えていく。
「す…すげえ…あいつを追っ払っちまった…その…」
それは少年の方を見ると、ひどい出血をしている少年の足の怪我を見つけた。
今度は少年の傷に両腕に当たる部分を当てると、緑色の光とともに、その傷はみるみるうちに塞がっていった。
「あ…ありがとうございます!妖精さん!」
少年はすっかり治った足で立ち上がると、直ぐに元いた村の方に帰っていった。
それは、少年の服に一滴墨汁の様なものをくっつけると、この事を主人に報告するために飛び去っていった。
恐らく月一回の更新になると思います。
気長に楽しんで頂けると幸いです。