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拾伍

「はあ・・・はあ・・・」


間一髪甲板の淵にしがみついた富季は、風の様に軽い身のこなしで船上へ復帰する。


「【スロウ】はまるで効果無しか。全く、人間の兵士なんかより、シグルム達の方がずっと良い。」


クジャクの様な鮮やかな模様の飛行羽に、鳥らしからぬ犬の様な足を持つ、人一人乗れる程度の大きな怪鳥、それらを率いていたのは、齢十四ほどの少年であった。


「匂いは殆どしないけれど、その身のこなしに、フード越しの微かな凹凸。君、獣人だよね。」


「じゅう…じん…獣神…?」


「そう、獣人。見たところ、何かの都合でバドリアからラクリマジカへ帰る冒険者かな?向こうで大変だったでしょ?ばれないようにばれないように、さぞ窮屈で不便な生活だったはずだ。」


「.....」


(この少年は一体何を…ここは適当に話を合わせておこうかな。)


「…それと貴方に、いったい何の関係があるんですか?」


「取引しようよ。君がもしこれ以上僕らの邪魔をしなければ、このシグルムで君を逃がしてあげるよ。」


「…」


「で、もしまだ暴れるつもりなら、此処でこの子たちのお昼ご飯になるけれど、どっちがいい?」


「.....」


富季はふと後ろを振り返る。

そこには、小さな窓越しから不安そうにこちらの様子を見つめる乗客たちの姿があった。


「…どちらにしても、此処に居る全員を殺すつもりでしょう。」


「なあんだ。つまんないの。ま、バレバレだったかな。」


少年の指笛を合図に、怪鳥達がぞろぞろと彼女を取り囲む。

その巨体は、屈強な戦士が百人で掛かっても返り討ちにするほどの力を秘め、その翼から放たれる豪風は家屋すら吹き飛ばす。

普通の人間であれば、その怪鳥シグルムに取り囲まれるこの状況は、間違いなく死を意味していた。


「…【体術・嚇気】」


彼女がそう呟いた瞬間、怪鳥の達の動きがピタリと止まった。

そのあまりの威圧感に、船室内すら軽いパニックとなっていた。


「おい、どうして止まるんだよ!早くそいつを喰っちまえって!」


少年は再び指笛を吹くが、怪鳥は時々痙攣する以外の動きは見せなかった。


「…すー…がああああああ!」


普段は物静かな富季が、可愛らしいとすら思える雄叫びをあげた。

お世辞にも、その声は少しも怖いとは思えなかった。そう声だけでは。


“ギャオエエエエエエエエエ!!!???”


富季を取り囲んでいた怪鳥は、一斉にその少女から敗走していく。


「こら待て!アレックス!ジグ!おい!」


少年の呼びかけも指笛もどこ吹く風。

怪鳥は一斉にばらばらの方角に飛び去って行った。


「…彼らの方が賢いみたいですね。動物的本能って奴ですか。」


「お前…あいつらに何したんだよ!」


「…ただの威嚇です。この様子では、きっと貴方と彼らの間には主従関係しか無かったのでしょう。その様な関係では、死の恐怖で簡単に断ち切られてしまいますよ。」


「うるさい!お前が、あいつらより上だっていうのかよ!そんなの…」


富季はそっと右の拳を握ると、装具に宿っていた蛍火が爆ぜるように閃光を放ち始める。


「解放…」


少年の頬をかすめるように、その拳を突き出す。

すると、その方角の大海原が一瞬で真っ二つに割れてしまった。


「ひ…い…」


巨大な水音と共に、海は数分かけて元の姿に戻って行く。

富季の右手の装具から蛍火の様な光が消えた。


「この…化け物が…」


「.....」


富季はそっと、へたり込んで失禁する少年に背を向ける。

それと同時に、彼女の手足の装備が光の粒子となって消えていく。


「貴方も化け物を従えているでしょう…失礼、従えるではなく、従えていたですね。」



客船を襲撃したグロリアス騎士団は、彼女の手で一人残らず倒され、捕縛されていた。

その後は何事も無く、船は無事に日の出と共にラクリマジカに到着する事が出来た。


「ありがとうございます…冒険者様…貴女は、我々の命の恩人でございます!」


船員の一人が、彼女の船の去り際を呼び止めた。


「……少し、違います。」


「ん?と言うと?」


「私は…その冒険者とやらではありません。」


富季は、フードを外してその犬耳を露わにする。

彼女は、この世界の住人には自分を“獣人”で通すのが最も手っ取り早いと判断した。


「それは…」


「私は…冒険者になる為に此処に来ました。…何処に行けば良いか知ってますか?」


「ならばギルドに行けば良いでしょう。では、わたくしはこれで。……獣風情が……」


「…………」


彼女の耳を見た瞬間、その船員の態度は素っ気なく一変した。


「…差別か……」


彼女は再びフードを被ると、そのギルドとやらを探す為に、ラクリマジカの街に繰り出した。



陰陽世界のとある一角にある、森に囲まれた大きな木造の建物。娑雪はそこに訪れていた。


「ふむ、主から私を呼び出すとは珍しいの。智滇廻(ちてんみ)よ。」


「お久し振りでございます〜。娑雪様〜。」


開け放たれた縁側から見える物静かな中庭が、室内と外との境界を忘れさせる。

その厳かな客間の襖から、小さな有我式神がぴょこりと現れた。


「主は相変わらず可愛らしいのぉ。よしよし。」


「や…やめてくださいよ〜…えへへ。」


身長は娑雪の膝程の小さな身体で、明らかにサイズの合っていないブカブカの学者法衣を引き摺っている。

その髪は、毛先が少しパサついた短髪で、光に当たるとほんのりとピンク色を帯びる白髪であった。顔立ちは齢10ほどの少女のそれで、大きな丸眼鏡が特徴的だ。


「…それで、報告とはなんじゃ?」


「はい〜。貴女様から頂いたサンプルを、みんなで一徹して研究してみました〜。」


「…はあ…夜はしっかり寝ろと言っておるじゃろうに…」


「そう言うイキモノなんですよ〜学者っていうのは〜。それで、大体の事は分かりました〜。」


そう言うと、智滇廻は懐から木簡を一つ取り出した。


「ええっと…ふれいむ〜!」


その瞬間、木簡の先に火が灯った。木簡が焼けている様子は無く、煤一つ立っていない。


「これは…」


「魔力の原理は、思った程簡単でしたよ〜。あいす〜!」


今度は木簡の先に氷球が生まれる。

智滇廻はそれを噛み砕き、ぽりぽりと食べ始めた。


「この世界のありとあらゆる物にその魔力が力として蓄積されていて〜、それを取り出したり、大気中や自分の中のマリョクを使って、こんな風に術を発動する行為。それが、魔法と呼ばれるらしいのです〜。」


「成る程。この世界に気術の気配を感じぬと思えば、その様な術が…うむ、良くやったぞ。」


「えへへ〜もっと褒めて下さ〜い。」


「よしよし。よーしよしよし。…そうじゃ、私もそれ、出来るのか?その…あいす?」


「えへえへ〜…え?ああごめんなさい〜!まだ説明不足でした〜!」


「?」


慌てた様に元の立ち位置に戻った智滇廻は、いつの間にか地面に落ちていた木簡を拾い上げた。


「ええっと〜。魔力を宿すのは、あくまでも“この”世界の生き物です〜。故にこのままの状態では、私達は扱う事は出来無いんです〜。」


「む?しかし主は…」


「はい〜。この木簡は神社の外の森から切り出した、木材で作ったものです〜。どうぞ〜。」


そう言った智滇廻は、懐からもう一つ木簡を取り出し、娑雪に手渡す。


「ふむ、これが…あいす?」


娑雪が少し恥ずかしそうに呟くと、木簡の先に氷塊が現れる。

先程、智滇廻が作り出したものは手のひら代の大きさだったが、娑雪が生み出した物は智滇廻の“背丈”を超えるほど。形状も、氷山の様に歪な物であった。


「ふえ〜!」


「す…済まぬ!何かを間違えてしもうたらしい…」


「違います〜!これは…魔法の威力に個体差がある事を証明する新たな事象です〜!」


「そうか…ふむ、もう少し練習してみようかの。ふぁい…」


「やめて下さい〜!寺子屋が炭になっちゃいます〜!」


「...成程。案外難しいものじゃな。済まぬ。」


「いえいえ~。むしろ、これで新しい研究テーマが出来ました~。もう少し、頑張ってみますね~。」


「くれぐれも無理はしないでおくれよ。面倒になれば直ぐに止めて良いぞ。」


「研究者の皆も、久々に楽しそうにしています故~、その点はご心配なさらずに~。」


娑雪から受け取った木簡を、智滇廻は紙の式神に持たせる。

その式神は、木簡を抱えるように持ったまま、襖の奥へと消えていった。


「...さて、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか~。」


「うむ。まあそう改まるな。気楽に話そうぞ。」


研究成果の報告の為だけに智滇廻が部屋の外にわざわざ出ることなど無いと、娑雪は理解していた。


「...研究が進んでいませんので、現状ではまだ断定は出来ておりません故~、少し仮説も入りますね~。建国の役に立つかと〜。」


「?」



「ほら、ちゃんと食べてください!」


「あ…後もう少しなんですの!少しま…」


「ダメです!」


阨無の自室を抉じ開けた亜亥は、そこで式神と紙に囲まれていた阨無をリビングまで引っ張り出す。


「食事は一日三食!数日前に生まれた私でも知ってますよ。」


「分かりましたから!痛…痛いですわ!」


それは数日前の事であった。



「ふう…やっと着きましたわ!わたくしの、愛しの我が家!」


「え…?えええええ?」


道中、阨無のお嬢様言葉を散々聴き続けていた亜亥は、彼女の家がてっきり豪邸か何かだと想像していた。


「えっと…えええ?」


「どうかしましたの?」


「ええ...いえ、なんでもありません。」


(ご主人様がどんな所に住んでいようと、私の立派なご主人様であることには変わり有りません。何を驚く必要が…)


到着したのは、かなり年季の入っているであろうおんぼろのアパートの一室の前であった。

錆の目立つ鉄階段に、所々欠けている壁や床。彼女の部屋らしき場所の扉には“新聞お断り”とマジックで書かれた張り紙。


「ありましたわ。一瞬無くしてしまったかと思いましたわ…」


阨無は安っぽい鍵を使って、その塗装の剥がれ欠けた青い扉の中に入る。


「戸締りはしっかりっと。」


「…えええ…?」


短い廊下と、そこから続くリビングらしき場所。部屋は案の定狭く、何より紙の式神などがそこらじゅうに散乱し、散らかっていた。


「お布団は予備も含めれば二人分ありますが…買いに行った方が良いですわね。」


「……」


「亜亥?」


「何ですかこれー!」


「亜亥!?」


亜亥は箒を召喚し、振り回す様にあたりを掃き始めた。

奥に行けば行く程、汚れの中にカップ麺の殻やもやしの袋などが混じって行き、その惨状は酷くなって行く。


「はあ…はあ…はあ…」


近くに落ちていたゴミ袋に、一先ず目立つゴミの全てを詰め込んだ。


「…そこにも扉!」


「…あ…そっちは…」


少し軋んだ、スライド式の扉。

亜亥はそこを、躊躇うこと無く開け放った。


「お...おえ…」


その先に広がっていた光景に、彼女は思わず嗚咽を零す。

積み上げられた紙束に、おびただしい数のカップ麺の殻。中には、少し汁が残ったまま放置されている物もある。


「...ふふふ…」


「あ…亜亥?どうしましょう...壊れてしま…」


「お掃除のし甲斐があるお部屋ですね!」


その言葉を最後に亜亥の理性は飛び、雑務用式神の本能のままに、その絶望的に汚れた部屋へと飛び込んでいった。


「す…凄い...ですわ…」


黒鎧の集団を撃退した時とは比べ物にならない程の手早い動きと、輕陀の物と同じ術のかかった箒の力によって、見る見るうちに床が、壁が、数年ぶりに露になっていった。


「...ふう…」


一度手を休めるために、亜亥は阨無の傍らに座る。


「その…ですね、そこはわたくしの…」


「...どうやら、自分のご主人様は自分で面倒を見なければならない様ですね…」



その日から、亜亥は自分のだらしのない主人を養うことになったのだ。


「では、私はそろそろバイトに行ってきます。お腹が空いたら、玄関にあるリンゴでもかじっていてください。」


「い…行ってらっしゃいませですわ。」


妹か娘の様に、亜亥の雰囲気はどこか儚く危うい。

が、その言動はむしろ力強く、母に近いものがあった。


(…そう言えば、亜亥のバイト先とは、一体何処なのでしょうか…)

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