夢の脚本
「一太郎さん、ずっと好きでした。私の全てを捧げます…(卑猥なシーンへ)」
というセリフを聴いた瞬間、一太郎は目を覚ました。
ノースキャンダル歴も30年を超えると夢の中で夢だと気づくことができるようになる。
特にノースキャンダル男である一太郎の場合、スキャンダルが絡むような夢の中のセリフは全てTVドラマか映画か漫画、後はアダルトものから引用しかないため、ベターなシチュエーションに夢の中で「これは夢だな」というように夢の強制シャットダウンが実施される。
現実の人間が見る夢のデカさと夢の数は、実際に眠りについて見る夢ストーリーの脚本のバリエーションに比例するような気がする。
現実の夢は、失敗が付き物であるから痛みを伴うし、勝者と敗者による区分けを避けられないが、それらの経験が夢ストーリーの脚本数の増加になる。
もちろん、現代の高度インターネット社会や発達するVR(仮想現実)、AR(拡張現実)は、自主的に行動しなくてもリアルに近い疑似体験経験を重ねることを可能にしたことを考えれば、ある意味、ずっと家に引きこもっていたとしても夢ストーリーの脚本数は増やすことはできると言える。
ただ、一太郎にとっては、どんなにVRの技術でスキャンダラスな疑似体験や経験を重ねても、結局現実には勝てないことを自分の夢のベターなスキャンダラスの展開で痛感してしまうのである。
逆に
「うわー!」
という自分の叫び声。
「もう駄目だ」
という諦観の感情も含めて
流れる血、死体、死臭の画像とともに
永遠と続くような痛みをともなう状況でも目が覚めないことが一太郎には多い。
様々な危機的絶望的な瞬間を体験経験してきた一太郎にとっての夢ストーリー脚本のラインナップが、超現実的サスペンス5割、ファンタジー系4割、非現実的ロマンス1割なのである。
「人生は自分の描く脚本である」ということが真実であるとすれば、
脚本の数の多さは人生の豊かさの指標ともいえるが、そのラインナップはやはり笑顔が溢れるものとか、愛の物語がいい。究極的にはスキャンダラスなものであっても絶望的な脚本よりは気持ちいいものだろう…たぶん。
一太郎がそんなことを考えたのは、以前かつての仲間との飲み会で政治家になりたい趣旨の言葉を告げた時に言われたシーン
「愛を知らない奴に政治は任せられない」
がフラッシュバックしたからである。
果たして「愛」とは何であろうか…肉体的なものか、精神的なものか、はたまたその両方か。
「確かに自分は「愛」は知らない。やはり世間は「愛」に溢れているもんな。「愛」にできることはたくさんあるんだろうな。」
「ピンポーン」
その時、一太郎の携帯が鳴った。
一太郎が携帯画面を見るとそこには
一太郎がファンクラブに入っているほど好きなシンガーソングライターbibaのブログ更新の合図だった。
ブログ「新曲出マース。タイトルは「あ・い・し・て・る」聴いてね」
「これって愛…俺は愛を知っている。純粋に人を応援し続ける。これはもはや愛。いや真実の愛なのではないか」
一太郎は再び出馬への意志を誓い、bibaへの出馬への誓いを込めたファンレターを書き始めた。
それは、一太郎35回目の冬の少し肌寒い日の朝のことであった。
次号「愛」