応援演説
街頭演説と駅頭(駅の前で演説したり、チラシを配る)の違いは何か。
これは街頭演説のほとんどが駅頭ということは間違いではない。
だいたい駅の前で街頭演説がなされるのが現状であるからである。
選挙の際というか、選挙の時だけ駅で見かける見慣れない候補者、
選挙期間以外の時から駅に見かける候補者らしき者がいる。
これらも選挙活動でいう「投票して下さい」というような投票依頼行為が
選挙期間中、つまりは公示日や告示日以降から投票日前日までしかできないという公職選挙法の規定があるから、選挙期間以外は政治活動の中の政治主張のようなものに限られることにより表に出やすい機会の差が違いが出てくる。
たとえば、政党に所属する者は、政党のパンフレットを配ることや政党の政策を語る等で有権者に間接的に顔または名前を覚えてもらう手法が取れるが、都筑一太郎ような完全無所属の者は、政党の主張をするようなことができないため、個人の考えや意見を表明するしか方法がない点で注目を集めるにおいて不利な面があることは否めない。それよりも地域活動を地道にして覚えてもらう方が賢明である。
特に日本社会のように所属先や肩書に弱い国民性にあっては、一太郎のようなわけのわからない人間には耳を傾けることはないに等しい。ましてやモテない界代表と自認する一太郎にあっては耳を傾けてくれるのは動物達又はハイパークレイジーな人だけな可能性がある。
ではそれを打破する何か方法がないか。
そこでよく選挙では応援演説というものがなされる。
それは、政党の代表とか、与党であれば総理とか元総理とか。そしてよくある元有名人の議員とかが
全国各地を飛び回る、いわゆる遊説して選挙カーの上で候補者の横でいかにも私、権力アリーマスという風に登場してサクラみたいな観衆とミーハーな通りすがりのその選挙区に住んでいないような人の注目を浴びてまるで昇天しているかのように見える舞台のようである。手を振り、まるでテーマパークのキャラクターのようにおじさんたちが手を振っている姿に人々は権力の印籠に潜在的にひれ伏す。ただ、それは錯覚であり、たくさん税金をもらっている割に特定の支持者のためにしか動かない事実とも言えることに気づかない、いや気づかさせてたまるかという権力の魔法のなせる業である。ただときどき、マスコミが報道すると気づき、怒り、時が過ぎればまた忘れの繰り返しが無限ループすることが発生し、思考停止社会を表出しているのも興味深いものではあるが…それだけ平和ということも否めない。
選挙において知名度とマスコミに注目されることに勝るものはないのである。
特に今回の統一地方選のような候補者自身が有名である場合はともなく、政党の公認を得られれば個人はほぼ関係ない。平和党かどうか。平和党とか恋愛党の所属で港北のようにイケメンかどうかとかで決まる。しかし、ひとたび応援演説がされると、その有名人の知名度と権力の魔法がマスメディアをはじめ、バラまかれ、党の支持率やルッキズムを凌駕するのが応援演説なのである。
つまり、無名で無所属の一太郎に勝機があるとすれば、この応援演説にスター気取りの政治家のおじさんよりも誰もが知っている超有名人が来れば一発逆転の可能性もあるのである。
「わんわん。にゃんにゃん。カァー、カァー」
一太郎が中出川駅でひとり演説しているといつも散歩中の犬や野良猫、カラスがたくさん集まってくる。
「動物選挙ならトップ当選だな。ハァー。誰も来るわけないよね」
自分の人脈のなさに落ち込みつつ、散歩中の人気女優大柴風夏に似た女性の視線を浴びる時がなんだが胸がキュンとする瞬間もあったことは付け加えておく。
まぁ、もし当選したら「応援してくれる動物達のためにも頑張らなきゃな。あとあの風夏様のために」ともはや内心ではなく、ひとりごとのように呟いていた。
それは、選挙も終盤に差し掛かったピンクの桜が少し舞うような風の柔らかい日のことだった。
<次項>
スーパースター