子育て世代
世界史上、「処女王」と呼ばれた愛国のエリザベール1世は、生涯通して結婚をせず、自分は臣民と結婚したという趣旨の演説をしたとされる。
そのような姿勢が、民衆からの人気を得た要因になり、未婚を貫くことで自身を神格化することを可能としたと言われる。
このように独身と人気の関係は、時に世間体と相反することが現代にも存在する。
結婚していることが日本の常識であるという固定観念は、現代でも厳然と存在しているが、
一方で、アイドルや著名人によくあるように結婚することにより、ファンが目に見える形で減ってしまうという現実がある。政治家も同様であり、やはり若いころから「政界のプリンス」ともてはやされていても結婚した途端、手のひらを返されてしまうというようなある種のミーハー的習慣がこの国(国民)には存在するようである。
もちろん、都筑一太郎は独身であり、色恋沙汰とは無縁の人生を歩んできた。
おそらくこれからも無縁であろう。
しかし、独身であるゆえに「国と結婚する」という世間的にはお花畑的思考を具現化することができるのである。
最近では「子育て世代」への支持を得るために、政治家達はこぞって、その世代への様々な優遇公約が声高に掲げられるようになっており、その際に政治家自身が「子育て世代」であることを強調して共感を得ようとする手法が多くみられる。
確かに、人間は自分が体験経験した範囲内で物事を考える傾向にあり、世間では未体験及び未経験の事柄を語るのはある種の机上の空論だと捉えられても不思議ではない。
むしろ、日本社会では結婚して子どもを育てて一人前という価値観が蔓延っているのが現状であるから、手っ取り早い支持拡大という意味では的を射ている戦法であろうが本当に社会全体や子育て世代のためになっているかということは残念ながらなってない。
誰か(他世代)の犠牲で得た利益は必ず不公平を生み、分断を生む。
選挙のために、そして政党のために仕掛けた政策は後で必ず利益を受けた層にも負担が回ってくる。
また、政治家とは、国民(県民、市民、村長民等)のために身を捧げる覚悟を持つべきであるということは言うまでもないのだから、一般的に家庭を優先することはできない(するべきでない。)
こう言うと優秀の人材が避けてなり手の問題にすり替えられてしまうが、それぐらいの覚悟をもった政治家がひとりもいないのでは本当の国の危機には耐えられない。
一太郎もよく周囲から「結婚していない人は何か欠陥があるとか子育て経験のない人に政治は任せられない」とう意見を耳にしてきたのが、今は結婚したくでもできない人も多くおり、単純な自己責任論で片づけてマウンティングを取る風潮があることに対しては違和感を覚える。
個人の問題以上に今までの政治がそういう社会形成をしてきたということを
忘れてはならない。
年金制度を筆頭に高度経済成長期につくられた政策で恩恵を受けているシニア世代がつくってきた社会に苦しんでいる人達がたくさんいるのであることを忘れてはならない。
将来世代を犠牲にして甘い蜜を吸ってきて今があるということも受け入れて謙虚にならなければ今後の世代間における分断は避けられない。
結局、エリザベール女王の本音は不明だが、形式上及び歴史的評価上、自分の幸せよりも国(国民)の幸せを優先したことで成しげたこともあり、多様な意見を取り入れるという意味でも独身である一太郎のように政治家も必要ではないかと考える。
そして、子育て世代とうテーマに対するコンプレックスを刺激するような意見に対する
一太郎の回答はこのエリザベール女王のような“覚悟”を示すことしかできない。
「そうだ。私は未来市希望区と結婚します」
「なので、未来市と希望区民は私の家族です。子どもは自分の子どもだと思って平等に機会を与える政策を提案実現いたします」
中街台駅頭で少し自信なさげに一太郎は演説した。
その姿はどこか儚げに見えたが、希望の人は彼のようなひとなのかもしれないと
道行く人の中で一人ぐらいはいたかもしれない。
そう現代は多様性の時代であるのだから。
ただ、一太郎は単純に女性に極度の奥手な「チェリー」であるということを忘れてはならない
…それもある意味多様性…自己責任…難しい問題である。
<次号>
応援演説




