真の未来
一人選挙。
当選するかどうかは別にして、できないわけではない。
できないとしたら、恥の文化を尊重する日本で育った日本人の思想、見えない階級社会(格差社会)、村社会、出る杭を打つ文化、集団行動を重んじる同調圧力等、様々な日本的思想が影響している。制度上は、被選挙権があって、供託金を法務局に預けて立候補必要書類を期限内に選挙管理委員会に提出すれば、立候補は可能である。
選挙にかかる費用及び道具は、一定程度公費負担もある。支払いも直接業者から選挙管理委員会に請求する方法もあるし、そもそも選挙カーや固定電話への電話作戦(電作)など時代錯誤感があるので必要かつ有効かと言われれば?である。しかし、そこに厳然と存在するのは伝統的なしきたりである。つまりは、ゲン担ぎともいえる儀式を重んじる旧態依然の業界と少子高齢化社会における伝統を重んじるシニア世代の時間的経済的余裕と政治への関心の高さである。
一太郎が、駅頭演説で嫌味を言われた事実は、そういう閉鎖社会の象徴でもある。
ただ、閉鎖社会の未来は真に未来ではないという一太郎の想いがある。
よく未来を語る時、その未来は誰のものかという問いを考える人はあまりいない。
誰しも未来のことはわからず、だからこそたとえ100年後は生きていなくても自分の価値基準で未来を想像するのが通常である。
今の制度や法律も含めて権力構造をつくってきたのは紛れもなく、今のシニア世代の人達が中心あるが、忘れてはならないのは、真の未来を生きるのは子ども達を含めた若者世代である。
旧態依然の思想で未来を構想していては、もう真の未来はもたない。若者の政治的関心を嘆く前に自らの有利な状況と高度成長の恩恵を受けた事実を謙虚に受け止める姿勢がないと、世代間で分断社会を招くことになる。もう気づいている先輩方もいるのだが、それは残念ながら権力者側ではない。
多様性を根本に排除しようとしているのは誰なのか。閉鎖的な権力構造を死守するようなことがあるのだとすれば、強制退場していただくしかない。
全世代の人々が真の未来を協力して想像するために、今できること。
子ども、シニア世代が一緒に笑える未来を想像するきっかけを創るために自己犠牲を払える者が必要である。
そういった戦う意思のある者が必要…そんな人物はこの時代に稀だ⇒なぜならスキャンダル社会ではスキャンダルが少しでもあれば潰されるから。
ここで一人選挙の話に戻るが、誰もが政治家になれる権利が憲法、公職選挙法により保障され、規定されているのだがら、不可能ではないのだ。
そういう意味で泡沫候補は、ある意味世の中に可能性を示唆してくれているという意味で重要なのではないかと一太郎は最近考えるようになった。
構成要件に該当する行為をせず、不法行為、債務不履行もない真面目な社会的弱者にもこの社会の不条理を合法的に「おかしい」という権利があるのだから。
そこには世間体とSNSとう間接殺人の道具の実態を考慮すること、覚悟は必要なことは言うまでもないが、機会平等というこのデジタル物質豊か社会の中で問われる課題が政治の世界においても今こそ必要なのである。
結局、今の制度や社会をつくっている人達が未来に責任など取れないし、取る覚悟もあるようには思えない。今ですら、問題に直面すれば自己責任という言葉を使うか又はトカゲの尻尾を切るかない。
というようなことを一太郎は、夜勤の日雇いバイトの果物を仕分けしながら考えた。
「おい。次はチェリーやるぞ!チェリー運んで来い!」
というバイト責任者呼びかけに
一太郎は、咄嗟に
「はい!呼びましたか」
「???」
相変わらずの天然ぶりを発揮した一太郎の3月の半ばの一日であった。