ハニートラップ
一太郎にはひとつの流儀がある。
それは警察学校で学んだこと。
「自分の顔をよく鏡で見てみること。そうしたら自分に女性から声をかけられるはずがないということを自覚できる。つまり、自分に声をかけてくる女性は全てハニートラップぐらいの気持ちでいれば、人生を左右する重大な金銭関係、女性関係のトラブルリスクを大幅に減らすことができる」
という哀しい教訓である。
元来、一太郎は、ぶっとんだ人生を歩んでいる割には、生粋の昭和男で男子校出身かつ純粋で真面目で奥手であることから、世間で言うリア充人生は無縁な性分である。だからこそ、この偏見的な教訓はある意味、一太郎のノースキャンダル人生を肯定する側面があるとも解釈できるので、一太郎にとっては現在までの行動の指針になってしまった。
そもそも近代の産業革命以降、主観と客観、人間と機械というように二項対立的思考が生まれた。また、医学の発達とともに人間の心と体を分けるという考え方が生まれた。
一太郎は、浪人時代にそれらの現代文の評論を読み漁ったことで、必然的に物事を二つに分けて考える習慣がついていた。
そういった暗黒時代の中で生まれたのが、現実(客観的事実)と自然的欲求(本能)との二分論で考える手法である。この手法は、まず人間には、欲求(性欲も含む)というものが存在する真実を認識して認めることから始まる。欲求の度合いは各自個人差があるが、その度合いすらも経験的客観的に認識認容するのである。あとは、その欲求を発散することの現実的(実現的)可能性を客観視することで、両者のバランスを図るのである。
つまりは、自分の立場、経済的事情、今後の人生プラン、モテ具合等を客観視することで自分の欲求の度合いをどれぐらい満たす手段、程度があるのかを常に思考してするのである。ある意味、自分の現状の絶望感という痛みを伴う面でもある意味、心理学的な認知療法と似ているのではないかと思う時もある。
ただ、この手法を実行するには、世の中の表だけでなく、アンダーグラウンドの情報(もちろん、合法であることが前提)にも情報のアンテナを伸ばす習慣が必要であることは言うまでもない。
ちなみに人生の本当の危機は、不法行為、債務不履行、構成要件該当行為の3つのことを現実的潜在的することである。どんなに肩書が素晴らしくてもこのどれかを犯している者は以外と多いのではないかと、一太郎は様々な経験をして感じていたことであり、ノースキャンダルを現在まで貫いてきたある種の歪んだ優越感(負けず嫌いとも言える)があるのも否めない。むしろそのことに対してすら自己嫌悪すら感じるのが悩みである。
「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるように、どんなに経歴肩書、現状が上手く言っていようと、上記の3つの行為をしたことがあるのであれば、偉そうなことはそもそも言うに値しない。交通違反ぐらいならいいやは問題外である。しかし、人は失敗することもある。やり直しの機会は必要である。そうでなければ、生きてはいけない。ただ、誰も偉くないのである。政治家も、官僚も、社長も、宇宙人等もである。誰しも優越感に浸るに値するかを自問しなければならない。「寛容」という言葉は、外国人労働者の増加が予想された10年以上前から、キーワードであったが、今や日本人全体の人生のうちに必要のない者は逆に珍しいのである。ノースキャンダルを貫き、社会から“はずれ者”扱いされる一太郎だからこそ、至る境地といえるのかもしれないが…デジタル社会で思考停止が招いた歪みなのかもしれない。
ある日、一太郎は大好きなカフェ、「スキーバリア」の二人テーブルに座り、ブラックコーヒーを笑顔で飲んでいた。一太郎は好きなものを食べるとき、飲むときに“にやける”癖がある。
その時である。
「あの、もしかして毎日駅前いる方ですよね。ずっと気になっていたんです。今の世の中の事実をあんなはっきり言えるなんて凄いなと。よかったら相席よろしいですか」
一人の清楚系女性が一太郎に声をかけてきて向かいの席に座った。まさに一太郎のタイプ過ぎて怪しすぎるぐらいの清楚かつセクシーさがあるのが一瞬でわかった。
一太郎は、にやけた顔が一気に真面目顔になり、女性の顔見た瞬間、顔が真っ赤になり、コーヒを持つ手が震え始めた。
「えっと。こんにちは。ありがとうございます。あの…実はこれから重要な会議がありまして。どうぞこの席自由に使ってくださいませ。本日は、誠にお疲れさまでした」
と咄嗟に席を立ち、店員さながらのわけのわからないセリフを言い残し、コーヒーを一気に飲んで前傾姿勢のまま去っていった。
「危なかった。今のが言わゆるハニトラか。教官ありがとうございます。あの教えが今役立っています」
一太郎は、店から少し離れたところで、下が収まるのを待ってから再び背筋をピーンと正し、駅方向に歩いていった。
「なんだなんだアイツは。なぜすぐにわかったんだ。何者だ」
店のある男性店員がテーブルで茫然とする女性に近づき、語りかけた。
「もしかして、相当な特別な訓練を受けているかもね。まぁ、ただのチェリーかもしれないけど」
女性は鋭い目をして店の外を睨み付けた。その姿も色気があったかどうかは一太郎は知る由もない。




