朝立ち
季節は3月。
春の匂いが春風に乗って鼻の穴から脳に染みわたり、通り過ぎた様々な春の記憶のシーンを想起させる。
一太郎は泉駅前に立っていた。
いわゆる朝立ちである。
公職選挙法上、告示(選挙運動解禁)前までは自分が直接立候補する、投票を呼び掛ける旨の演説はできない。無所属の一太郎にとっては「政党」の政策を呼び掛ける手法も取れない。告示まで、大体の候補者は所属する政党の政策や主張を呼び掛け、政党の政策集を配布する手法を取る。
朝の通勤帯のピークである午前6時30分から午前8時30分にかけて行われるこの朝立ちだが、候補者の場所取り争いがこの時期であっても火花が散る。基本、先着順という暗黙の了解があるため、候補者やスタッフが5時半から6時の間に場所取りをすることになる。
8時以降はスピーカーやマイクを使えるが、それまでは地声で呼びかけるため、やはり政治家にとって「声」という武器が必須だ。聴き取りやすく、通る声。そして内容…今の時代、内容などよほど「ぶっ壊す」等のインパクトのある言葉を使わない限り、名前を連呼した方が投票用紙に書いてもらう名前を覚えてもらう上で有効な手段となる。
「おはようございます。”都筑” 一太郎です。この腐った社会を変えるためにひとり立ち上がりました」
朝立ちをする前は、恥ずかしい気持ちと緊張で何も話せないのではと不安だった一太郎であったが、少年時代から野球をしてきた持ち前のピッチャー気質と過去にひとりお笑いグランプリ、俳優のオーディション、某テレビ局で作詞が認められ、約15秒の全国放送デビューをしている経験が活きたのか、意外と流暢に話せることに手応えを感じた。むしろ、気持ち良い感覚を覚えたのは自己愛が強く、目立ちたがりやな性格が役立っているのかもしれない。
世の中無駄なことはないのである。いつか何事も役に立つ日がくると信じて”今”を全力で行動していれば…特にひとりで戦うと決めた時に気づくことなのかもしれない。
「皆さん。今の政治を変えなければ、上級国民とかいう選民思想の塊の思い通りです。もう気づいているはずです。数々のスキャンダル。居座り続け、甘い蜜を吸い続ける人達とそれに群がる人達。ノースキャンダルな人達はいないのでしょうか。いや、います。ここに。つづきいちたろう。実績も女性経験も残念ながらございません。あるのは”志”。誰でも今ここからスタートできるチャンスを築く。令和のノースキャンダル男とは私のことよ」
通勤通学者のほとんどが、一太郎の方をチラ見する。インパクトを与えるという意味では朝立ち初回にしては及第点であるのかもしれない。
「スキャンダル社会をぶっ壊す」
一太郎は午前8時過ぎから、格安店モンキーホーテで購入した忘年会用ブルートゥース付きマイクで呼びかける。
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