立候補予定者説明会
一太郎が出馬を決めてから約2週間後が経った2月下旬のことである。
統一地方選挙未来市議会議員の立候補予定者説明会が県庁所在地のある未来区で開催された。
開催場所の建物は歴史的建造物として有名で地元の人はその名を親しみを込めて「チェリー」と呼ぶ。
その由来はこの未来都市を開拓した人物があまりにも女性にモテなかったためという伝説があるが真相は定かではない。ただ、一太郎にとってなぜか親近感が湧いたことは確かで、その建物の醸し出す雰囲気がたった一人で説明会に臨むことに対しての緊張感を若干和らげる緩衝材になった。
「立候補予定者の方は、各選挙区のブースで受付をして書類一式をお受け取り下さい」
選挙管理委員会のスタッフの案内に従って一太郎は地元である希望区のブースで名前を書いて分厚い茶色の封筒を3通ほど受け取った。
「では定刻になりましたら説明会を開始いたしますのでそれまでホール内の座席に自由にお座りください」
既に300人程収容できるホールの座席はほとんど埋まっており、何やら男臭い熱気が漂っていた。一太郎は比較的空いている一番前の席に腰をかけ、受け取った封筒の中身を確かめた。
「立候補予定者のしおり、公費負担の手引き…何やら難しそうだな。選挙違反だけは避けないとな」
一太郎が一瞬、天井方向を見上げて正面に顔を戻したと同時のことだった。
「失礼いたします」
左隣にとても美しいクレオパトラみたいな女性が腰をかけた。
一太郎が、左を向くとその女性はいかにも慣れた様子でニコッと笑顔で会釈をしてきた。
「美、うつくしい」
一太郎は、その女性の美貌と笑顔に自らの顔を真っ赤に鼻の下を伸ばしながら一太郎史上最も気持ち悪い笑顔で会釈を返した。
「ただいまより、第39回統一地方選挙未来市議会議員立候補予定者説明会を始めさせていただきます」
選挙管理委員会の方の挨拶も耳に入らず、一太郎は左隣の美人のことで頭がいっぱいになった。
…40分ぐらい経過。
「立候補予定者の中でまだ、各種メディアに立候補する旨を伝えていない方は退出する前にホール左手にメディア関係者がいるので報告を済ませてください。それではこれにて第39回統一地方選未来市議会議員選挙立候補予定者説明会を終了いたします」
説明会終了の案内とともに一太郎の左隣の美人が立ち上がると同時に美人の隣の男性2人も一緒に立ち上がり、ホール左手方向のメディアの方向に向かっていった。
「あの美人も立候補予定者なのか」
一太郎は興奮が収まらず、しばらく起立ができなかったが、10分ぐらい経ってようやく興奮が収まると起立してホール左手のメディア関係者がいる方向にテクテク歩いていった。
「すいません。希望区から立候補する予定なのですが…」
「どの党からですか」
「無所属です」
「………何区からですか」
「希望区です」
「なるほど。では、名前と肩書等必要事項を教えてください」
一太郎は、明らかに塩対応な記者と思われる男に若干イラッとしながらも記入票に必要事項を記載しながら好奇心から質問してみた。
「今回は女性の立候補者も多いのですか」
「同じ区なのに知らないのですか。希望区からあの国民的アイドル出身の泉和見子が平和党公認で出るんですよ」
一太郎は目を丸くし、無意識に最後の質問事項の趣味の欄に「アイドル」と記入してしまった。
その後、メディア4社からの簡単な質問や記入が終わり、出口に向かう途中、泉和見子と一太郎の出馬のキッカケとなった天敵、港北たくとが親しそうに会話をしている様子を見た。
「絵になるな。そういうことか。これが社会の構図か。勝ち目なし」
一太郎の目からなぜか自然と涙が溢れてきた。
開拓の象徴である建物「チェリー」での出来事は、一太郎に色々な意味で傷跡を残した。