第一章 氏族長会議(2)
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タサム・リバ山脈――遊牧民が天山とよぶ山々の北。イリ盆地の夏は短い。
数日前まで、目に沁みるほど青い草原が一面にひろがっていたというのに。いつの間にか、大地は黄金の絨毯に覆われていた。見た目には優しい風景だが、そこを渡る風は冷たく、容赦がない。枯れた草は、吹き飛ばされぬよう大地に懸命にしがみついている。雪はまだ降っていなかったが、朝夕は、凍えそうなほど冷え込んだ。
生まれて初めて遊牧民の移動式住居・ユルテに住んだミナスティア国の王女レイは、その防寒能の高さに感心していた。
勇猛果敢な〈草原の民〉。なかでも最大の勢力を持つと畏れられるトグリーニ族に、彼女達は、客人として遇されていた。ニーナイ国の公使であるオダ少年を連れた一行は、彼等にとって敵だ。王女レイ=ムティワナも、拘束されて不思議ではないはずだった。
レイには判らなかったが、トグリーニの族長トグル・ディオ・バガトルと鷲たちの間には、信頼関係があるらしい。
族長は、一行の為に、二張のユルテと六頭の馬、二十余頭の羊を用意してくれた。彼の妹タオ・イルティシ・ゴアと、部族の最高長老トクシン・ウト・サカルが、面倒をみてくれている。族長自身は、初対面以来、姿を現さなかった。
最初はぎくしゃくしていた一行だったが、数日経過するうちに落ち着いて、本営の片隅で生活を営めるようになった。
遊牧民の習慣にしたがい、彼等は、二つのユルテに男女別に住みわけた。――鷲と雉とオダは、一つのユルテに。レイと隼と鳩が、もう一方に。――しかし、記憶の戻っていないレイを避けて、鳩はタオのユルテへ戻ってしまった。
雉の許へは、連日、怪我人や病人が押しかけた。長老は勝手な訪問を戒めたが、彼等の目を盗んで、ひとびとはやって来た。雉は快く治療をひきうけたが、能力で治せない病に出会う度、辛そうに面を曇らせた。
隼は、トグル・ディオ・バガトルと面会しようとしては断られていた。部族長の多忙さが理由だが、タオは、何故かひどく消極的だった。隼は苛立ち、やがて、ひとり物思いに沈むようになった。
オダ少年の方は、部族長と話して得るものがあったらしい。口数が減り、考えこむことが多くなった。
そして、レイは――
「うわ、鷹。焦げてる!」
「え? わ、きゃあっ!」
鷹であった頃を想い出せず、シジン達の行方を案じているレイであったが、ここへ来て、『鷹の仕事』を始めた。
彼女は普通の娘として、炊事はもちろん、掃除も洗濯も行っていた。自分のものだけでなく、一緒に暮らす仲間たちの分も――。皆で分担していたと言われ、その気になったのだ。
〈黒の山〉に居た頃は、雉とマナが身の周りの世話をしてくれていた。王女として故郷に居た頃は、家事はおろか着替えすら独りでは行わなかった。
今、雉はそれどころではなく、鳩には避けられている。タオは忙しく、手が回らない。隼とレイの二人で何とかしなければならないのだが……出来ないはずはないと思うのに、何故かうまくゆかなかった。
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくてもいいけどさ、鷹」
隼は、あくまでレイを鷹と呼ぶ。その呼ばれ方にも慣れて来た。
形の良い薄桃色の唇をわずかに歪め、隼は、疲れた声で言った。
「あたしも他人のことは言えないけど、今のお前よりマシだと思う。あたしより料理が下手で、どうするんだよ」
炉の上で炭と化したナンを火箸を使ってそぎおとしながら、隼は首を振った。柔らかな白銀の髪が、肩から胸へ滑り落ちる。
レイは、言い返す言葉がない。五枚のナンを焼く為に、その倍の枚数分の生地を無駄にしてしまっては、言い訳できない。
手伝いに来ていたオダ少年が、くすくす笑い出した。
「不思議だなあ。記憶をなくしていても、タパティ――鷹は、一度料理を覚えると上手でしたよ。仮の人格より、本人の方が不器用なの?」
「そんなことは、どうでもいいけど」
隼は眉根を寄せ、焦げたナンを突っついた。
「毎日これじゃあ、小麦がいくらあっても足りないぞ。ただでさえ、うちには、莫迦みたいに喰う野郎が二人も居るってのに……」
冗談めかした言い方ではあったが、彼女の口調は沈んでいた。途中で言葉を切る。紺碧の瞳は睫毛にけぶり、少年のような横顔は淋しげだ。
「隼さん」
オダは真顔に戻って話しかけた。
「僕も、気になっていたんです。あ、鷹の料理じゃなくて、小麦のことです。――ユルテといい馬といい。こんなにして貰っていいんでしょうか。殺されるかと思っていたので」
「あたし達が何をしようが、痛くも痒くもないんだろ」
隼は、皮肉っぽく唇を歪めた。
「お前、あのとき何と言った? 『ニーナイ国の女達を返してくれたら、タァハル部族との仲介をしよう』……イキがって脅そうなどとするから、底を見られた。お前がどの程度の人間か、トグルには判ったぞ」
「悔しいな」
オダは苦笑し、夕焼け色の髪を掻き上げた。台詞の内容に反し、若い声は朗らかだった。
「僕は、隼さん達のおまけですか。『天人の足手纏い』だと、言われましたよ。本気で相手にされていないんですね」
隼は、レイとオダから顔を背けた。オダは頬をひきしめ、真摯に語りかけた。
「隼さん。トグル・ディオ・バガトルは、ニーナイ国の捕虜を連れて帰ることを許可してくれました。彼女達は、いわば戦利品なのに……。手を貸すことはしないけれど、隼さん達に相談しろと」
「トグルが、そう言ったのか?」
隼は、少年を横目で見遣った。眼を伏せてしばらく考え、問い返した。
「オダ。お前……〈草原の民〉を、どう思っている?」
レイとオダは、息を呑んだ。その反応をちらりと見て、隼は続けた。
「あたし自身がそうだったから言うんだが――奴等を、こちらの理屈が全く通じない獣のように思っていないか? 同じ人間だということを、忘れていないか」
「隼さん」
オダが囁くと、隼は、己の額に片手をあてた。
「弁護するわけじゃないけれど、戦利品の女達も人間であることを、奴等は忘れているわけじゃない……。たぶんそれは、トグルの厚意だ。手を貸せないと言ったのは、あいつがそうすると族長令ということになって、話がややこしくなるからだ。――戦争とは関係のないあたし達が、客としてここに留まり、帰りたいと申しでた女達を連れて行くのは構わないと言うのだろう。……あいつ、らしいや」
隼は眼を閉じ、溜め息をついた。頬は白く透きとおり、哀しげだった。
「手伝って頂けますか?」
少年の声に、隼は振り向いた。オダは、冷たい夜空を宿す瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「僕らのなかで、トグル・ディオ・バガトルのことを一番良く知っているのは、隼さんです。僕は知りたい……。ニーナイ国の人々を連れ帰るだけでなく、〈草原の民〉を理解したいのです」
「……あたしは、トグルを一番知っているとは言えないよ」
隼は、自虐的に答えた。
「今は、鷲の方がよく判っているんじゃないか。鷲かタオに訊ねる方がいいと思う」
「鷲さんは、今、それどころではないでしょう? トグリーニ族の人に、こんなことは言えません。僕、隼さんに協力して欲しいです」
オダは、レイをちらりと見て微笑んだ。優しい眼差しに、レイはかるく狼狽えた。
隼は、しばらく躊躇した後、けだるく頷いた。
「いいよ……。他にすることもないし」
「お願いします」
オダはぺこりと頭を下げたが、隼は彼を見ていなかった。オダは彼女を、面白がる表情で観ていた。瞳の空は、晴天だ。
少年の視線に気づいた隼は、片方の眉を跳ね上げ、呟いた。
「あ、やばい。ナンが冷めちまうな……」
「私、ワシさんの所に持って行きます」
元々、その為に作っていたのだ。羊と馬を放牧に連れて行っている鷲と、怪我人の治療をしている雉の為に。
しかし、レイがこう言うと、二人は顔を見合わせた。彼等が何を心配しているのか、レイは知っていた。
「大丈夫です」
六ヶ月の後半に入った腹部は、目立つようになっていた。なかで頻繁に動いている。隼と雉の気遣いは、可笑しいくらいだった。レイはいたって元気なのだが、とにかく安静にと言われてしまう。ユルテに籠る時間が長くなり、彼女は退屈していた。
それだけではない。
オダ少年が、トグル・ディオ・バガトルを理解したいと言ったように――レイも、鷲を知りたいと思うようになっていた。《タカ》を愛してくれた人……『私を私として、認めてくれた人』
彼を愛することは出来ないが、《タカ》の気持ちは理解したい。
レイは、隼に微笑んでみせた。
「歩いた方がいいって言われています。そう遠くないし、重くもない。私、ワシさんに届けて来ます」
「……判った」
隼は、硬い表情を変えずに頷くと、卓子に重ねてあった(上手に焼けた方の)ナンを数枚手に取った。羊毛を織り合わせた布に、手早く包む。温めた乳茶を革袋に入れた。
「鳩も一緒に居るはずだから、あいつの分も頼む。ここを出て西へ少し行くと、丘がある。それを越えたところに、大抵いるよ。足元に気をつけて」
「はい」
レイは、二つの包みを受け取り、出掛けて行った。
オダは、鷹の黒髪が木製の扉の向こうに去るのを見送り、そっと声をかけた。
「隼さん」
隼は答えない。横顔は、愁いにかげっている。その理由がトグル・ディオ・バガトルにあると、少年はとうに理解していた。美しい氷の彫像のようなすがたが、透けそうに思われる。
少年は、早口に言った。
「僕、雉さんのところに持って行きます。向こうで食べて来ますから、待たないで下さい」
「あ? ああ」
残りのナンを包んでばたばたと駆け出して行く少年を、隼は、きょとんと見送った。オダは、頬が火照るのを感じたが、何とか顔を見られずに済んだ。
少年は、空を仰いで軽く息をつくと、改めて駆け出した。
『オダ?』
隼は首を傾げたが、深く考えることはしなかった。再び、己の思索に戻る。焦げたナンの欠片を手に取り、それを口に含むと、顔をしかめた。
『やっぱり、食べられたもんじゃないな……』




