第五章 荒野の少年(4)
3-5-(4)
建て直されたユルテ(移動式住居)の間を歩きまわっていた鷲は、積みあげた瓦礫に腰を下ろしている隼を見つけ、足を止めた。
藍色の夜の底で、彼女の痩身は白く茫とかがやいていた。頬杖を突き、切れ長の眼を伏せている。
鷲は少し躊躇ったのち、ゆっくり近づいて行った。
いつも気を張っている隼だったが、その時は、彼の気配に気づかなかった。疲れた様子で眼を閉じている。玲瓏な横顔が、物思いに沈んでいた。
鷲は後ろから近づき、彼女の頭を軽く小突いた。
「…………!」
「ったく、お前はあ~。余計なことしやがって」
「鷲」
振り返って彼を見つけた隼の目に、安堵が滲んだ。ぎこちなく微笑む彼女に、鷲は、呆れ声で話し掛けた。
「風邪ひくぞ。服くらい着替えて来い。飯にしよう。俺、腹ぺこだ。雉の莫迦は、どこ行った?」
「ああ、鷲」
しかし、隼は、すぐには動けなかった。溜め息をつき、顔にかかった前髪を掻き上げる。蒼ざめてなお美しい顔を、鷲は、黙って見下ろした。
「雉なら、鳩とオダと一緒に、負傷者の所だよ。ユルテを巡回している。……鷲、お前に会わせる顔がないと思っていた。お前と、トグルに」
「…………」
「鷹を危険な目に遭わせて、ごめん……。だけど、他に方法を思いつけなかったんだ」
「まったくだ」
踵を返しかけていた動きを止め、鷲は、皮肉に唇を歪めた。
「反省しろ、ひやひやさせやがって。先刻は本当に、眩暈がしたぞ。俺の苦労も考えろ」
「ごめん……」
鷲の口調は厳しかったが、若葉色の眸は温かかった。隼は片手で口元を覆い、肩をすくめた。
「鷹を、お前に逢わせたかった。お前に逢って欲しかったんだ。あたしでは、どうしていいか判らなかった」
「お前はそれでいいだろうが――」
大袈裟に頭を抱えて、鷲は唸った。頭を振る。仕草にあわせて豊かな銀髪が肩の上で揺れるのを、隼は、懐かしく見上げた。
「――俺を何だと思ってるんだ。お陰で、こっちは自己嫌悪だ。混乱しているどころじゃない。支離滅裂で、何を言ったか覚えていない……。そうなると判っていたから、頭を冷やしたかったのに。わざわざ追いかけてくる奴が、あるかよ……」
「鷹と、話してくれたのか?」
「…………」
「良かった。あいつが、せっかくお前に逢う気になったのに、お前の方に嫌がられたら、どうしようかと思っていた。子どものこともあるし……。このまま、お前達のことが無かったことになるなんて、それだけは嫌だったんだ」
「……俺は、別に、あいつを嫌って離れたわけじゃねえよ」
ぶっきらぼうに言って、鷲は、彼女から顔を背けた。
「俺があそこに居ても、してやれることは何もない……。雉やルツの足手纏いになるくらいなら、シジンの消息を探した方が、マシだと思っただけだ」
「お前の考えが、判らないから――」
隼は肩を落とし、盛大に嘆息した。
「心配していたんだぞ。そうならそうと、どうして、ひとこと言ってくれなかったんだよ」
「子どもじゃあるまいし。んな、こっ恥ずかしいことが言えるか」
吐き捨てるように呟く鷲の横顔を、隼は、唖然と見上げた。立派な顎髭を生やした男の顔を。……それから笑いだす。脇腹をおさえてくつくつ笑う彼女を、鷲は、決まり悪そうに眺めた。ぽつりと言う。
「悪かったよ、俺も」
「…………」
「悪かった。おしつけちまって。――動転していたんだ。自分でも、何を考えているのか、判らなくなっていた……」
隼は、笑いながら首を横に振った。温かい気持ちが胸底に湧くのを感じる。それは切ない痛みを伴ってはいたが、彼女は、そのことに慣れ始めていた。
『鷲』 舌のうえで、その響きを確かめる。
「無理もないよ。あたしの方こそ、許してくれ。しっかり鷹を支えなきゃいけないのに、役に立てなかった。……ごめん」
鷲は、腕組みをして首を振った。ゆらりと、重心を左脚に移す。――普段の彼の仕草に、隼は微笑んだ。疲れてはいたが、今の鷲にとっては、この上ない理解を示す微笑だった。
隼は、溜め息をついた。
「駄目だな、あたし」
「…………?」
「あたしも女だったんだ。痛感した……。こんな時、取り乱して、ろくなことが出来ない」
「それを言うなら、俺なんか、男だろうが」
鷲は、慍然としていた。
「余計、始末が悪い」
二人は、互いの顔をみて哂った。思い遣りに満ちた視線を交わし、それから、それぞれの想いに沈む。
隼は眼を伏せ、鷲は、夜の帳の向こうへ目を遣った。深い藍に染まった闇の対岸を透かし見て、囁く。
「レイのことは、俺に任せろ」
隼は視線を上げなかった。構わず、鷲は繰り返した。
「もう、大丈夫だ。何とかする……。お前は、自分のことだけ考えていろ」
「ああ。そうするよ……」
溜め息をついて、隼は、両手で顔を覆った。
「そうさせてもらう。頭の中が、ぐちゃぐちゃなんだ。――自分の気持ちが判らない。どうしたいんだか」
隼は、両の掌を見詰め、苦い口調で続けた。
「お前の考えが判らなくて……トグルも、雉も、判らなかった。あたしだけが、おかしいのかと思えたよ。あたしの頭が変なのか、それとも、周りが変わっているのか。確かめたくて来たはずなのに、あたしは、鷹のことを言えないな」
鷲の左の眉が、ひょいと跳ねた。その反応を見てから、隼は、再び眼を伏せた。
「お前に逢えないと言っていた鷹を、意気地なしだと言ったけど。あたしだって、トグルから逃げていたんだ。……未だに、怕ろしい。トグルに会わせる顔がない」
「…………」
「待っていると言ったのに、トグルを信じられなかった。いや、違う……。何だかんだと理由をつけて、最初から、あいつをちゃんと観ることを拒んでいたのは、あたしなんだ」
「……トグルも、そんなことを言ってたな」
夜の底を見詰め、鷲は呟いた。隼が顔を上げる。闇に白く浮かび上がる小さな顔に、鷲は言った。
「『お前に、見せられる姿じゃない』 と……。なあ、隼。余計なことをしてくれたお返しに、俺も余計なことを言わせて貰うぞ。お前達って、何なんだ?」
「…………」
「俺には、お前は充分トグルに惚れているように見える。あいつも、お前に……。お前達が互いに気を遣っているのは、よく判るよ。大切にしているんだろう……。だけど、気を遣って、相手に本音を言えず、大切にして、傍に居られない。その所為で、お前は傷ついている――なんて。お前等の仲って、何なんだよ」
「鷲……」
隼は驚いていた。鷲がこんな話をすることは、今までにない。どうした風の吹き回しなのか。
彼女の反応には頓着せず、鷲は、淡々と続けた。
「俺には、お前達は、無理をしているように見える……。俺達は、神様じゃない。気まぐれで、欠点だらけの人間だ。そいつを克服しようとするお前等の生き方は立派だが、それで、何か得られるのか? 自分の気持ちが、自由になるか? ――自由になったふりをすることは、却って相手を傷つける。それぐらいのことが判らない、お前達じゃないだろう」
隼に横顔を向け、鷲は、苦虫を噛み潰した。低い声が、さらに低く抑えられる。
「少なくとも、俺は、傷ついた……。今だから言えるが、お前と雉に、傷つけられた気分になったことがある。それがお前等の意志と違っていたことは、判っているが」
口を開きかける隼を、鷲は、面倒そうに片手を振って制した。
「どんなに気を遣おうと、他人は勝手に傷つくものだ……。お前と雉の間で起きたことを知った時、俺は傷ついた。――雉が、俺に見捨てられることを怕れていたと言った時、そんなに俺は信用がないのかと、哀しくなった」
「…………」
「情けなかったぜ、まったく……。その時まで、お前等を、家族なんだと思っていた。血の繋がりはなくても、一番ちかい人間だと。なのに、俺の方はいったい何だ? 一番、遠くに居たんじゃないかと、腹が立った」
「鷲」
呼びかけたが、隼は、続ける言葉を見つけられなかった。鷲は眉間に皺を刻み、彼女に横顔を向けている。
「誤解するな。今さら、責めているんじゃない。そういう理屈を抜きにして、俺は傷ついたという話だ……。お前等の思い遣りなんて、全然、有り難くなかった。そんな風に気を遣われても、俺は、嬉しくもなんともねえんだよ」
「…………」
「お前等がしたことも、相当、頭に来た。雉は無論だが、そんなことであいつの助けになると勘違いした、お前にも。――俺がもし、お前の実の兄貴だったら、問答無用でお前を殴ったかもしれない」
溜め息をついて、鷲は、足元に視線を落とした。銀髪が頬にほつれかかる。低くひそめた声で、呟いた。
「俺に言わせれば、お前も、雉もトグルも、無理をし過ぎる……。友人としてやって行くなら、時には必要だろう。――それでも、俺は絶対に、そんなことを考えはしないがな」
鷲は隼を振り返り、改めて、苦笑のようなものを浮かべた。声は深く、彼女の胸に沁みた。
「俺は、お前に気を遣わない。お前等のすることを迷惑に思わないのと同じように、迷惑を掛けることを怕れはしない。……自分に嘘をつく気はない。こうなると判っていて、鷹がもういちど俺の前に現れたら、やっぱり俺はあいつに惚れただろうし……また同じことが起こったら、俺は、お前の迷惑かえりみず飛び出しただろう」
「…………」
「甘えたり、甘えられたり。迷惑掛けたり、掛けられたり……傷つけたり、傷ついたりするのが、普通じゃないのか? まして、惚れた同士なら。迷惑掛けて傷ついて、それでやっと、対等じゃないのか……。それで俺達が離れるなら、そこまでの仲だ。お前達が別れるのなら、そこまでの縁だろう。俺は、そう考える。尤も、何をどうしようと、所詮、お前等の勝手だけどな」
隼は、苦笑して首を横に振った。
『毅いな、お前は……』
限りなく、鷲らしい言葉だと思えた。判っていた――自分に、雉に、そしてトグルに欠けているのは、こういう種類の毅さなのだ。
その優しさを、この時ほど、羨ましく感じたことはない。隼は、いとおしいと思った。
しかし、隼は知らない。鷲もまた、彼女や雉を羨んでいることを。彼には欠けたものを、彼女は持っていることを。
鷲は知っていた――故に、彼の目に哂いはなかった。
「多分、俺は、お前等から見たら無理をしな過ぎるんだろう。でも、恋愛なんて、無理や努力ですることか? 目の前の苦痛や意地に気をとられて、大事なことを見失っていないか? 自分にとって何が一番大切なのか。欲しいものは何なのか……判っていないと、後悔するぞ」
「…………」
「俺は――俺と雉は、後悔した。お前には、後悔して欲しくない」
「鷲……」
『手遅れになる前に』 とは、鷲は言わなかった。
自信なさそうに頷く隼を、鷲は観ていた。
「あたしは、自分に都合がいいことばかり考えていたんだろうな」
「…………」
「鷹の、トグルの……あたしにとって都合のいいところしか、見ようとしていなかったんだ。鷹に、いつまでも、あいつで居て欲しかった。トグルを……族長としてのあいつと、そうでないあいつを、分けて考えようとしていた。それは、その方が、あたしにとって都合がいいからだ。でも、二人があたしにとって都合のいい人間で居る必要はない。鷹が、記憶を失おうと鷹であるように……トグルも、全部でトグルなんだ」
「…………」
「あたしにとってはそうなんだよ、鷲」
鷲がフッと皮肉をこめて嘲ったので、隼も嘲った。夜の向こうへ視線を投げる。
凛とした少年のような横顔を、鷲は眺めた。
「そうして……二人とも、あたしには、大事な人間だ」
吐息混じりに呟く彼女に、鷲は、何事かを言おうとして口を開いた。――躊躇して、苦虫を噛み潰す。首を振り、踵を返した。
「行こう。鷹が待ってる」
「ああ。そうだな」
頷いて、隼は腰を上げた。
「お兄ちゃん!」
「鷲、隼」
鳩の甲高い声と、雉の滑らかな声に、二人は動きを止めた。顧みると、ユルテの向こう側からこちらへ来る、一団の人々がいた。
雉を先頭に、鳩とオダ、数人のトグリーニ族の女性が居る。雉は、大きな包みを抱えていた。夜目にも彼の頬がこわばっているのが判り、鷲と隼は顔を見合わせた。
隼が、声をかける。
「どうした? 雉。オダ」
「隼さん」
「説明は後だ。いや、説明してもらいたいのは、こっちの方だ。隼――」
オダは《星の子》の杖を手にしており、酷く困惑していた。雉も、いつにない真剣さで隼を見る。その視線を受け止め、その腕に抱えられた包みを目にした隼は、息を呑んだ。
鷲も、眉根を寄せる。
雉が抱えていたのは、産まれて間もない赤ん坊だった。一目で、既に死んでいると判る。肌は青紫色になり、顔も手足も浮腫んでいた。隼を見返す黒い瞳に光はなく、苦痛の表情も無い。
しかし、二人が衝撃を受けたのは、赤ん坊が死んでしまっていた為ばかりではなかった。
どう見ても、普通より、頭が小さかった。――頚が短く、耳が無い。上唇が縦に裂け、眼球も小さい。手指は短く、異様に折り重なっていた。
この子を産んだ母親か、家族だろうか。女達は泣きじゃくり、取り乱していた。鳩とオダが、蒼ざめた面を隼に向ける。
鷲を見上げる雉の瞳には、真実をもとめるものの毅い意志が宿っていた。
「こんな子が、他にもいるんだ」
雉は、赤ん坊をそっと毛布に包みなおした。泣いている女性に視線をあててから、隼に言う。
「おれが怪我人を治しているのを聴きつけて、彼女がこの子を連れて来た。おれが診た時には、既に息をしていなかった……。五日前に産まれたそうだが、おれには、死因が判らない」
「…………」
「この子、だけじゃない。ユルテ(移動式住居)を巡っているうちに気づいたんだが、まだ若いのに、寝たきりの者が多い。年寄りが少ない……その理由は、判ったよ。動ける者は外に出ていて、そうでない者は、歳を取る前に死んでいるんだ」
「…………」
「おれが知っている病気じゃない、隼。……腕や、脚のない子が居る。生まれつき目の見えない子。頭はしっかりしているのに、身体の自由が利かない子……。喉が腫れて物が食べられなくなっている人や、手足が歪んで固くなっている人も……。彼等を、おれは治せない。こんなことは、初めてだ。能力が、全く効かないんだ」
隼は、言葉をうしなっていた。鷲は眼を細め、小声で呟いた。
「観たのか」
トグルが危惧していたように、彼等は、雉に病を治してもらおうとしたのだろう。しかし、これは普通の疾病ではない。――雉の動揺が理解できた。抑制していたが、滑らかな声は震えていた。
雉は、鷲に肯き、隼に向き直った。
「最初は、能力が無くなったのかと思った。でも、そうじゃない。怪我や風邪、熱を治すことは出来るんだ。どういうことだ? お前は知っているだろう、隼」
「…………」
「彼女達は、病人をユルテの中に隠している。だから、お前は観たことがなかったかもしれないが……。多過ぎる。放っておける数じゃない。〈草原の民〉に、何が起きているんだ?」
隼は、困って鷲を見た。鷲は胸の前で腕を組み、彼女を見返す。
鳩がぞっとしたように肩を震わせて、オダの腕を掴んだ。その手を握り返してやりながら、オダは『滅亡』というトグルの言葉を思い出していた。
雉は、赤ん坊を母親に返すと、改めて、隼に毅然と言った。
「トグルに会わせてくれ、隼。……会わなきゃならないんだ」
隼は、躊躇していたが……やがて、小さく頷いた。




