第四章 狼の末裔(3)
3-4-(3)
「入ってもいいか?」
その日の騎馬戦は中止となり、緊急の長老会議が開かれて、鷲は、またしてもトグルと別行動になった。
日が沈み、夜になっても、大天幕にこもった長老達は出てこなかった。夜が更け、彼等が各々のユルテ(移動式住居)に帰っても、トグルは戻って来なかった。
タオと鳩とともに食事を終えた鷲は、ユルテで待っていたが……深夜、天窓から射しこむ月光を目にすると、溜め息をついて立ち上がった。
人も家畜も寝静まったユルテの間を抜けて行き、影の箱のような天幕へたどり着いた。見張りのないのをいいことに中へ入った鷲は、正面の壁に、黄金の鷲獅子を描いた氏族旗をみつけ、足を止めた。
両側に、一つずつ小部屋がついている(小部屋と言っても、一つのユルテくらいの広さがある。)右手の部屋から、灯りが洩れていた。
入り口をおおう布を掻きわけ、鷲は声をかけた。
「…………」
トグルが顔を上げる。腕を組み、卓子に長い脚を放り出して、彼は眼を閉じていたのだが――。左手で額にかかる前髪を梳きあげ、ゆるい苦笑を作った。
「ワシか。まだ起きていたのか」
鷲は煙草を噛みながら、彼へ近づいた。
トグルの辮髪は解かれ、肩に羽織った濃紺の外套の上にこぼれている。トグルは卓子から脚を下ろし、傍らの椅子を勧めた。
「昼間は、済まなかったな」
鷲は首を振り、彼の足元にきちんと並べて置かれた瓶を見つけて、片方の眉を跳ね上げた。卓上にも、瓶と硝子の器が置かれている。
「なんだ。飲んでたのか、お前。こんな所に、酒なんて持ち込んでいいのかよ」
「族長の特権だ」
「そういうの、職権乱用と言うのと違うか?」
「飲むか? お前も」
鷲が冷やかすと、トグルは、にやりと歯を剥きだした。しかし、すぐ元の無表情に戻る。鷲に酒を断られた彼は、それ以上勧めることなく、視線を卓上に戻した。
精悍な横顔を鷲は眺めていたが、迷った末に、こう言った。
「良くない飲み方だな、トグル。酒は、楽しく飲むもんだぜ」
「……ああ、判っている」
トグルは自嘲気味に嗤った。ひどく頼りなくみえ、鷲は眼を細めた。
「こんなものは、ただの思考停止だ。その手段にもなりはしない。どうせ俺は、酔うことがない」
「だったら、飲むなよ」
珍しく、鷲の口調は硬かった。トグルが彼を見る。
鷲は胸の前で腕をくみ、左脚に体重をかけていた。夜目にも、若葉色の瞳は穏やかだ。その瞳にフッと嘲いかけ、トグルは眼を伏せた。
「……明日、シルカス族長の葬儀を行うことに決まった。カルルク谷で鳥葬にする。三日程で戻ると思うが、留守中、不都合があれば、タオかトクシン(トグリーニ族の最高長老)に相談してくれ。シルカス族は喪に服すが、夏祭りは続行する」
「急なんだな」
鷲は首を傾げ、顎髭に片手をあてた。
「それに……続行するのか? 氏族長が死んだってのに」
「お前も、そう思うか」
溜め息まじりに、トグルは囁いた。疲れきったその声音に、鷲は眉根を寄せた。
「俺も、そう思う……。それだけでなく、鳥葬は自由民が行う葬礼であって、貴族のものではない。族長は、どんなに小さな氏族であっても、陵墓に葬るのが礼だ」
「…………」
「つまり、長老会は、ジョクを族長だとは認めなかった。そのように扱うことは……。せめて、アラルが喪に服し、氏族がナーダムに参加するのを控えることを、認めただけだ」
不穏な眼差しで卓上を見据えるトグルを、鷲は、黙って観ていた。トグルの口調は淡々としていたが、低い声は酒気に濁っていた。
「ジョクを族長に推したのは、俺なのだ」
「…………」
「あいつの父親が病で死んだときに、長老会の反対をおしきって、シルカス(族長)の名を与えた。その時には、あいつは既に寝たきりになっていたが……。奴に族長としての働きなど出来なかったというのが、長老会の結論だ」
「…………」
「そう言われても仕方ないが……。それでも、あいつは正統なシルカス族長だ。いや、そんなことはどうでもいい。長老や氏族にとっては頼りにならぬ者だったろうが、俺には――大事な友だった」
「……飲もうか」
呟くと、鷲は椅子の背に手をかけた。トグルは苦笑した。
鷲は、椅子に座って脚を組んだ。トグルは彼のために、空いていた硝子の杯を引き寄せた。血色の葡萄酒を、左手で注ぐ。続いて自分の杯にも。右手は、椅子の傍らに下げていた。
鷲は、何も言わなかった。
二人は、しばらく無言で酒を飲んだ。互いの顔を見ることなく、時折手を動かしては、紅い水で唇を湿らせる。そんな仕草を何度か繰り返した後、鷲の方から言葉を発した。
「幾つだ?」
『シルカス族長は』 説明を加えなくとも、トグルには通じていた。
「二十三に、なったばかりだ」
「若いな……」
『雉と同い年だ』 思いながら、鷲は、口に含んだ酒を飲み込んだ。馬乳酒と違い、焼けつくような刺激が喉に残る。
掌に映る赤紫色の水面を見詰めながら、トグルは繰り返した。
「ああ。若すぎる」
「肺の病のように見えたが?」
トグルは頤を上げ、水のように酒を喉に流し込む。鷲は囁いた。
「雉を連れてくれば良かったな……。あいつなら、治せただろう」
トグルは首を横に振った。二杯目の酒を手酌しながら、独語のように答えた。
「あいつは、生まれた時から身体が弱かった。歩き始めるのが遅かったと言うし、小さな頃は、よく転んでいた……。走れず、馬に騎ることも出来なかった。歩き方が変で、足を引き摺って歩き……そのうち、何かに掴まらないと立ち上がれなくなった」
「…………」
「十歳になった頃には、自力では立つことも歩くことも出来なくなった。痩せ細り、背骨が曲がって、肘や膝が硬くなり……。三年前には、起き上がれなくなった。息をするのが苦しいと言っていた。肺炎は、その頃から繰り返していた」
「…………」
「あれは、あいつが母方から受け継いだ病だ。奴の伯父貴が、同じ病で死んだと聞く……。キジや《星の子》には、肺炎は治せたかもしれぬが、病そのものを治すことは出来なかっただろう」
「どういう意味だ?」
断定的なトグルの言葉を、鷲は訝しんだ。トグルは彼に、怜悧な視線をあてた。
「お前達の能力は、怪我や病を治すのではなく、生き物が本来もつ生命力を、導き出すものなのだろう?」
「…………」
「《星の子》も、キジも……お前達は、周囲の生命の力を集め、操るのだと聞いている。俺達とて、手をこまねいていたわけではない。病を治せる天人が居ると聞き――《星の子》に会う為に、俺はかつて、親父と共に〈黒の山〉を訪ねたのだ」
鷲は、眉間に皺を刻んだ。トグルが自分達の能力のことを、ここまで理解しているとは思いもよらなかったのだ。
昏い影を宿した眸で硝子の杯をみすえ、トグルは続けた。
「シルカス族に限らず、俺達にも――〈草原の民〉には、ジョクのような病がある。男女を問わず、親から子へと遺伝する病だ。……ジョクのように生まれた時から発病している者も居れば、歳をとってから突然発症する者もいる。勿論、全く健康な者が大多数だが、奇形や育つ前に死ぬ子どもの数は、他の土地に比べれば、はるかに多い」
「…………」
「その為に、俺達は滅び去ろうとしている……。かつて同じ〈草原の民〉だったミナスティアの王族が、かの地で消え去ろうとしているのも、同じ理由だと聞く。この五十年、部族の人口は減り続けている。親父は、病が何故起こるのか……民を救う方法をもとめ、《星の子》を訪ねた」
トグルは言葉を切り、唇を酒で湿らせた。
「俺がまだ子どもの頃だ。自身も病がちだった父は、《星の子》に援けを求めたが、無駄だった。遺伝するものは他の怪我や疾病とは異なり、能力で治せる病ではないと、《星の子》は言った。それは、神がより強い生命を残す為に用意した、『淘汰』なのだと……。生まれる前から早世を運命づけられた者を、《星の子》は治せない。お前達、《古老》にも」
「…………」
「それは、神の領域なのだと……。それを知った親父は、《星の子》に、この地を訪れることを禁じた。俺も、お前達に……。事実を知るのは氏族長と最高長老だけだが……民は、うすうす気づいている。我々の未来が閉ざされていると」
「…………」
「お前に拝礼していた女達……あれは、ジョクのような子を持つ母親達だ」
あまりの話に、鷲は、絶句しているしかなかった。トグルは、陰鬱な口調で続けた。
「奴等は知らない。天人には、子ども達を救えないのだということを……。知らない者達の処へお前達が降りれば、連中は、その能力を求めて殺到するだろう。――かと言って、教えれば恐慌を来たす。それだけは避けたいのだ」
「済まない」
鷲が謝ると、トグルは、面白がっているような眸で彼を観た。
「何も知らずに、悪いことを訊いたな……」
「何故、謝るのだ?」
「…………」
「お前に謝られるようなことを、された覚えはない。ラーシャム(有難う)……気を遣ってくれて、感謝する。だが、お前達には関わりのないことだ。気に病む必要はない。――いや、余計なことを言ったのは、俺の方だ。出来るなら、忘れてくれ」
トグルは、ふたたび葡萄酒を喉に流し込んだ。首を反らしてあおる仕草を、鷲は、常にない真剣さで見詰めていた。
トグルは、困惑と自嘲の混合した嗤いを唇に刻んだ。
「……今は、ジョクを治せたかなど、どうでもよいのだ。ただ俺は、あいつがどう思っていたのかを知りたい」
「…………」
「俺は、ジョクに族長の名を与え、そのように遇して来た。あいつが得るべきものを全て与え、他の誰にも渡さなかった。だが、それであいつは幸福だったのだろうか。俺に守られて、満足していたのだろうか……。本当は、俺が、最もジョクの誇りを踏みにじっていたのかもしれない」
「…………」
「与えられる族長の名など、ジョクは欲しくはなかったかもしれない。静かに暮らしていたかっただけかも……。あいつの為に良かれと思い、俺のして来たことは、動けないあいつを他人の前に引きずり出すことだった。下手な同情を、俺は己に禁じてきたつもりだが。誰より俺が、あいつの気持ちを無視して、苦痛を与えて来たのかもしれない――」
「よせよ」
トグルはやり切れないと言うように首を振り、鷲は遮った。言葉は厳しかったが、口調は優しかった。
「よせ……そんな風に考えるのは。口に出さない他人の気持ちが、誰に判る。ジョクのいったい何を、お前が知っていたというんだ」
「…………」
「他人の考えの全てを、理解出来る奴などいない。あいつの方こそ、親友のお前にだけは知られたくない気持ちが、あったんじゃないのか」
「……ああ、判っている」
トグルは唇を歪めた。深緑色の瞳は鷲を見ておらず、卓上の酒の瓶を映していた。そこに映る、己の影を見据えていた。
「これは、ジョクの為にして来たことではない。俺の為……。俺自身が、望んだことだ。俺がもし、あいつの立場だったら……そう、思い続けてきた」
「…………」
「あいつに居場所を与えたかった。動けないから閉じ込めてしまうのでなく。――ジョクは、氏族の為だけに生きていたわけではないが。族長として立派に務めを果たせることを、証明させてやりたかった。なのに……その結果が、これだ」
初めて、トグルの声に苦悩が滲んだ。眼光に鋭さが増す。一瞬、獲物をねらう狼さながら牙を強く噛みあわせると、肩を落とし、ふかく、ふかく嘆息した。
「俺が、間違っていたのかもしれない。長老達の言うように、ジョクは、己の為に夏祭りが中止されることを望まないかもしれない……。だが、俺は嫌なのだ。では、ジョクは何なのだ?」
「…………」
「族長として、あいつが氏族の為にして来たことは。賢者として……。俺ならば、嫌だと思う。自分が居なくなっても、たかがナーダム如きが、平然と続けられるなど。何事もなく日が過ぎて、誰からも忘れ去られるなど……。馬に騎れず、女も知らず……子どもも、何も残せずに逝かなければならなかった奴のことを、俺達以外のいったい誰が、覚えていてやれるのだ」
長い黒髪が頬にかかるのも構わずに、トグルは項垂れた。眼差しは、深く裡に沈んでいた。
しばらくそうして黙った後、彼は、自嘲気味に苦笑した。
「……こんな風に思うのは、俺が、その程度の輩だからだ。……俺ならば、ナーダムを取り止めて欲しい。己の存在を認めて欲しい。――奴等に、ジョクの何が判る。あいつは氏族をこよなく愛してはいたが、長老会を信じてなどいなかった。それなのに知った風な口を利く連中を、あいつの代わりに殺してやりたいと思ったのは……所詮、俺が、その程度の人間だからだ」
『少なくとも――』 酒に口をつけながら、鷲は思った。
『ジョクの方は、そんな連中に認めてもらっても、嬉しくないだろうな……』
己を慕ってくれているわけでもない人間に悲しむふりをされても、嬉しいはずがない。それくらいなら、知らぬふりをされた方がマシだと思えた。尤も、長老達は、トグルの気持ちを考えて、敢えてそうしたのかもしれない。
鷲は、口にする気はなかった。それこそ『知った風』だ。
トグルは判っている。だから、独りで飲んでいたのだ。
彼が長老達に対して己の感情を顕わにしたとは、鷲には思えなかった。今でさえ、(多少は酔っているはずだが)トグルの瞳は澄明で、表情は落ち着いているのだ。
やがてトグルは、弱々しく苦笑した。
「……悪かった。せっかく来てくれたのに、こんな話をして」
「いや」
「済まない。他人に見せられる姿ではない……。お前が、ハヤブサでなくて、良かった」
鷲は葡萄酒の瓶を手に取ると、空になっていたトグルの杯に注いだ。無言で、トグルは杯に口をつける。瓶を受け取ると、鷲の杯に酌を返した。左手で。
骨張った手と、次第に上って来る水面を眺めながら、鷲は切り出した。
「シルカスの族長だが――」
トグルは、瓶を卓上に戻した。深遠なる夜の森のような瞳を、鷲は、正面から見詰めた。
「お前に、言葉を遺していた。本当は、そいつを伝えに来たんだ」
「……お前に、伝言を頼んだのか?」
トグルは首を傾げた。
「あいつの合図が読み取れたのか?」
「合図じゃない。交易語で喋ってくれた。だから、俺にも判った」
トグルの眼が、すうっと細められた。鷲は唇を舐め、慎重に伝えた。
「『ディオに、頼む。クリルタイを――』 ディオとは、お前のことだろう?」
「氏族長会議……」
トグルは呟き、考え込んだ。横顔から穏やかさが消え、眉間に皺が刻まれる。振り返ると、毅い視線を鷲の面に当てた。
「それは、本当か?」
「…………?」
「ジョクが、声を出して、お前にそう言ったのか」
「……俺がお前に嘘をついて、何の得があるんだ」
些か慍然とした口調で、鷲は応えた。
「それに、他のことならいざ知らず。死にそうな人間の言うことを曲げて伝える程、俺は性悪じゃねえよ」
「ああ、そうだな。済まない……。しかし、クリルタイとは」
「俺の聴き間違いかもしれないが」
トグルは首を横に振った。鷲は訝しんだ。伝えた言葉がそれほど深刻な意味を持つとは、予想していなかったのだ。
「何のことだ?」
「クリルタイは――」
躊躇い気味に、トグルは答えた。
「長老会の上に位置する、氏族長の会合のことだ。長老会が、族長達と盟主の行動を監視し、氏族に関わる事柄の合議・補佐を行うのに対して……氏族長会議は、部族の――果ては、民族全体の命運を左右するような、大事を決定する為に開かれる。言葉通り、盟約を結んでいる全氏族長による会合だ」
目だけで鷲の顔をちらりと見て、トグルは、視線を卓子に戻した。
「滅多に開かれることはないが、その代わり、ここで決められたことに対して、長老会は、異議を申し立てられない……。クリルタイが開かれている期間は、氏族長に各氏族の裁量権が与えられ、長老会は、それを輔佐する機関となる」
トグルは奥歯を噛みしめ、どこか遠くを睨みながら囁いた。
「クリルタイが開かれるのは、長老会や氏族長の要請があった時……新しい氏族長の承認や、部族規模での戦闘がある時だ。あとは――」
「何だ?」
鷲は促したが、トグルは口を閉じた。細めた双眸の奥に、鋭い光が宿っている。
鷲は、それ以上訊くのを止めた。訊いても答えはないであろうと察した。
しばらくそうして考えていたトグルは、瞼を閉じて眼差しの険しさをおおった。
「……ジョクは、最近、声を出せなくなっていた。それが、最期にお前に言葉を託した。俺が聴いてやりたかったな……」
「…………」
「あいつは、天界に生まれ変われるだろうか」
ぽつりと呟いたトグルは、不思議そうにしている鷲を見て、苦笑した。
「俺達の神話では、世界は層になっている。地上の六階の上には天界が、下には地獄が存在する。……死者の魂は、その間で転生を繰り返す。生命の業が浄化されるまで(注1)」
「俺達も、だいたい同じだ」
「そうか。なら、話は早い……。俺達遊牧民は、現実には『壮を尊び、老を卑しむ』民族だ。草原では、強くなければ、家族はおろか己の命も守れないからな。だが、生まれながらの病者が増え、ジョクのように若くして死ななければならない者が増えるにつれ……遺族の間に、奴等が『天に選ばれた』という考えが広まった」
鷲はトグルを見詰めた。葡萄酒に口をつけながら、彼の眸は昏い虚無を宿していた。
「そうとでも思わなければ、やっていられぬだろう……。何故、奴等だけが苦しまなければならないのだ。生まれたばかりの赤子に、何の罪がある。――業の浄化の手段として苦行があるというのなら。奴等の病こそ、天神が与えた最高の試練だ」
「…………」
「選ばれてその行を成し終えた者ならば、きっと、天神の国に生まれ変われるだろう、と……」
「お前は、生まれ変わりたいわけか?」
鷲は訊ねた。トグルは嗤い、眼を閉じた。
「俺は、殺し過ぎた……。行き先は、地獄と既に決まっている」
「…………」
「草原は、天界に最も遠い、修羅と畜生の国だ。狼の末裔である俺達は、そこの番犬……まして、俺は盟主だ。二度と、ジョクに逢うことは出来ないだろう」
「そうか。なら、俺と同じだ」
飄々とした鷲の口調に、トグルは彼をみた。鷲は葡萄酒を喉に流しこみ、平然と彼を見返した。
「俺も、行くのは地獄と決めてある。向こうで逢えたら、また飲もうぜ」
にやりと嗤う鷲を、トグルは、半ば呆れて眺めた。春の陽光に透かした若葉の瞳を。そこに笑みはなく、冷静にこちらの貌を映していた。
トグルは声を殺し、くっくっ嗤い始めた。
(注1)「世界は層になっている」: アルタイ系諸民族のシャーマニズムに基づく宇宙観では、天・地・地下の層になっていますが、それぞれ三層、九層、三十三層、八十八層、などと一定しません。また、本来彼等には輪廻転生や地獄といった概念はなく、これらは1530年代以降、チベット仏教やイスラム教、キリスト教の影響を受けて導入された考えと言われます。『元朝秘史』や『集史』が書かれた時代には、地獄への畏怖・恐怖といった概念は確認されていません。
本作品では六層とし、現代モンゴル・シャーマニズムに似せて表現していますが、あくまでフィクションです。
*アラルとトゥグス・バガトル(オルクト氏族長)がいませんが、二人はジョクの側で通夜を行っています。トグルは埋葬法をめぐって長老会とやりあってしまい、ジョクの側にいられなくなったのです……。




