幕間 火の祭祀(2)
3-0-(2)
寝台に横たわるシルカス・ジョク・ビルゲ以外の者は、ユルテ(移動式住居)のなかで円座に坐り、遅くなった朝食を摂った。トグルは寝台の枕許から離れず、ふだん家の主人が坐る場所には、オルクト氏族長が腰を下ろした。
隼は、トグルの隣にいた。
――思いがけず会えたのは嬉しいが、トグルが大量の仕事を放り出して帰って来たのは、それだけ親友に会いたかったからだろう。積もる話があるのでは……と思う。
シルカス族長は、友人をからかうネタを得て上機嫌だが、トグルは彼の体調が気になるらしい。やや厳しく言った。
「去年は、肺炎だったな」
「そうだっけ?」
「夏には、熱を出して、夏祭りに参加できなかった」
「ああ。去年は、そうだったね」
「最近、多くはないか」
トグルの愁眉はひらかない。寝たきりの盟友がこほこほ咳をするさまを、不安げに眺めた。
「熱が出る度に、回復に時間がかかるのだろう。お前は――」
「気をつけるよ」
他人事のようにさらりと言う主人の傍らで、アラル将軍がひたすら恐縮しているのが印象的だった。タオが水汲み用の桶を手に立ち上がったので、隼は身を起こした。
「あたし、手伝ってくるよ」
トグルは彼女を見遣ったが、引きとめようとはしなかった。女達が並んで外へ行くのを見送り、シルカス族長は、ふと息を吐いた。
「……ハル・クアラ部族との連携は、上手くいきそうか?」
話題が政治に替わった。トグルはオルクト氏族長に視線をむけ、オルクト氏族長は、ふさふさの濃い口髭を揺らして答えた。
「トゥードゥ(キイ帝国の城塞都市)の襲撃では、上手くいったと考えている。勝ち過ぎず、敗け過ぎず。得るものを得て、退却時の損害はない。――双方、満足できたのではないか」
「上々だな。キイ帝国の情勢はどうだ?」
シルカス族長は、半ば眼を閉じて訊ねる。自力で起き上がれず、食事を口へ運ぶこともなくなった友が、その頭脳に世界を収めていると知るトグルは、真摯に答えた。
「リー女将軍は、ハン将軍と手を結んだ。しばらく、こちらに仕掛けて来ることはなかろう。帝をオン大公から取り戻す方が先決だ」
「幼帝が、自ら政務を行えるようになるまでは、だな」
「然り」
「ディオ」
「ん?」
「タァハル(部族)が、来るぞ」
単調な小声は変わらなかったが、オルクト氏族長とアラル将軍は、頬をひきしめた。トグルは、乳茶をゆっくり飲んで肯いた。
「……だろうな」
「二将軍に叛かれたオン大公には、打つ策がない。タァハル(部族)におれたちを襲撃させ、北から挟撃させようとするだろう……。ニーナイ国やナカツイ王国が絡んでくると、厄介だぞ」
「相変わらず、嫌な予想をしてくれるな」
トグルはフッと嗤った。
「〈黒の山〉に近いナカツイ王国は動かぬだろうが、タァハル部族が動けば、ニーナイ国は絡んでくるだろう。……あの国に、兵を向けたくはない」
タオと共にちょうど戻って来た隼は、ニーナイ国の名を耳にして、動作を止めた。トグルは彼女の反応に気づいたが、表情は変えなかった。
オルクト氏族長の方が、隼を意識して訊ねた。
「《星の子》と天人が、関わるからか?」
「それもある……。後味が悪いのだ」
トグルの滑らかな声が、わずかに濁る。隼が観ると、彼はお茶を口に運びながら、苦々しく唇を歪めていた。
「オン・デリク(大公)とミナスティア王家が、裏で糸を引いていた。初めはタァハル(部族)に、次は俺達に……。《星の子》の介入があったとは言え、リー・ディア(将軍)を陥れるために利用されたのは、気に喰わん。オン・デリク(大公)は懲らしたが、ミナスティア(王家)には手が出せぬ。……こそこそと、何を企んでいるのか」
オルクト氏族長とアラル将軍は、顔を見合わせた。
隼は、トグルのために乳茶を淹れなおし、精悍な横顔を観た。無表情の面の裏でそんなことを考えていたのか、と思う。
半年前、トグルは一万の軍勢を率い、ニーナイ国を攻めた。ミナスティア王国と盟約を結んでいたキイ帝国のオン大公は、これを敢えて黙認し、漁夫の利を得ようとした。ニーナイ国の少年を連れた隼たちと〈黒の山〉の《星の子》が、キイ帝国のリー将軍を動かし、彼等の侵攻を阻止したのだ。
ミナスティア王国は、草原からはタサムとエルゾの二山脈を越え、ニーナイ国を含む広大なタール砂漠を越え、さらに南へ行ったところにある。隼も立ち寄ったことのない、遠い国だ。
シルカス族長が、切り出した。
「その、ミナスティア王国だが……王が斃れたぞ」
「何?」
トグルは、強く眉根を寄せた。寝たきりの青年は、澄んだ黒曜石の瞳で、彼を見た。
「永く内乱状態だったが、王は亡命できずに斃れたらしい。キイ帝国、ナカツイ王国からの支援はなかった。次の王が定まるまで……定まらずとも、政が落ち着くまでは、しばらくかかるだろう」
「……ハヤブサ」
遠慮しようと下がりかけた隼を、トグルは呼びとめた。シルカス族長も、彼女に視線を向ける。
トグルは、乾いた口調で告げた。
「聴いて行け。お前達に、かかわりのある話だ」
「え……?」
隼は意外に思ったが、トグルが微かに頷いたので、坐り直した。トグルとオルクト氏族長の間、シルカス族長の声が届く距離だ。
アラル将軍が立ち上がり、入り口付近にいた従者たちを下がらせる。にわかに密議の雰囲気が高まり、隼は少なからず緊張した。
トグルは、無表情のまま瞼を伏せ、低い声で語り始めた。
「……古の契約に従い、俺達は、エルゾ=タハト山脈より南へは行けない。人だけではなく、馬も、羊も……そういうことになっている。だが、かつて契約に背き、南に残った氏族がいた。俺たちと同じ血をひく――連中は、ミナスティアを支配した」
トグルは、新緑色の眸で隼をみて、彼女が話を理解していることを確認した。
「ミナスティアの王族は、黒目黒髪だった。……五百年前の話だ。今は、どうだか知らぬぞ」
ふうと息を吐き、トグルは、節のめだつ長い指で、己の眼をおさえる仕草をした。
「俺とタオでさえ、こうだ……。〈新しき民〉との混血をすすめた者たちが、かつての容貌を留めているか、否か」
大陸に住む民のなかで、〈草原の民〉は、黒目黒髪をもっている。隼の知る限り、《星の子》とマナとその子ども達、鷹と、鳶と鳩姉妹のほかは、蒼眼紅毛だ。南方へ行くほど、肌は褐色をおびる。トグルとタオの碧眼は、〈草原の民〉が変容しつつあることを示していた。
シルカス族長が、説明を引き継いだ。
「ミナスティア王国は、キイ帝国と手を結びたがっていた。キイ帝国のオン大公は、一族の公女を、皇家や、他国の王族に嫁がせて権力を拡げるのが常套だ。タァハル部族へは、既に嫁がせている。――ディオにも公女を押し付けようとしたのは、ご存知でしょう」
「……俺たち〈草原の民〉は、外から来た女を大事にする」
トグルは、苦笑まじりに呟いた。煙管を咥え、火を点ける。
「女が減っている所為もあるが……。伝統的に、部族の盟主の姻族は、巨きな権力をもつ。タァハル部族は、昔から、大公の言いなりに等しい」
トグルは、ちらと隼を見て口を閉じた。シルカス族長が、またあとを続けた。
「キイ帝国の支援を受けたいミナスティア王家が、一族の王女を皇帝に嫁がせようとしたら、オン大公は、どう出ただろう。王女と公女では、身分が異なる。己の基盤たる外戚の地位を脅かす者を、歓迎はせぬだろう」
「…………!」
ここまで聴いて、隼は、ようやく、二人が誰の話をしているのか理解した。何を説明しているのか――。
トグルは、彼女の顔色が変わったことに気づき、そっと囁いた。
「伝聞と、憶測にすぎぬ……。ハヤブサ。そうと決まったわけではないぞ」
「ああ、わかるよ。でも、もし、」
『もし、鷹が……!』 剣呑な空想が脳裡をめぐり、隼は蒼ざめた。
トグルは、煙草の煙をほそく吐いた。
「どうせ、キイ帝国では、俺の所為にされている」
「そうなのか?」
隼が問うと、オルクト氏族長が、くつくつと笑いだした。トグルは、冗談事ではないと言いたげに呻いた。
「濡れ衣だ……。俺は知らぬぞ」
「ああいや、そういう意味じゃない。ごめん」
シルカス族長は、愉快気に瞳を煌めかせた。
「おれたちは、《狼》ですからね……かの国人にとって。人ではなく、家畜の糞を追って徘徊する、卑しい黒狗なわけです。何でもやってのけると考えている」
「真偽は判らぬ」
トグルは真顔に戻り、厳粛に結論を下した。
「噂だけだ。ナカツイ王国へ行って調べられれば良いのだが……。俺達は、〈黒の山〉より南へは行けぬ」
「ナカツイ王国、だな」
隼は、独り言ちた。トグルは、横目で彼女をみた。
ナカツイ王国は、雉の故郷だ。仲間と過ごしたことがある。エツイン=ゴルという商人の知り合いもいる。――などと考え始める隼を、トグルは窘めた。
「もう少し、調べさせよう。今の時期に、天山の峠を越えるのは無理だ。雪が融けるまで待て」
「ああ、そうだな」
隼は頷き、シルカス族長を顧みた。今はもう、彼がこの話を報せに来てくれたのだと、疑う余地はない。
「ありがとう。仲間のことで、面倒をかける」
シルカス族の賢者は、眩しげに眼を細めて頷いた。
オルクト氏族長が、自身の太い膝を叩き、声をかけた。
「用件は終わった。せっかくシルカス公が来てくれたのだ、火の祭祀を始めぬか? ディオ。」
「……待て。今、ここでか?」
親友と隼のやりとりを穏やかに眺めていたトグルは、煙管を手に瞬きを繰り返した。凱旋してはじめて自分のユルテに戻ったのに、寛ぐ暇もないと言いたげだ。
オルクト氏族長は、鷹揚に笑った。
「嫌か? 羊肉の塩煮なら、儂が作ってやるぞ。お前とて、ジョク(シルカス族長)とハヤブサ殿と一緒に居たいだろう。それとも、天幕に戻って長老たちの皺面に囲まれたいか?」
「トゥグス……」
トグルは眼を閉じ、困惑している時のいつもの癖で、額にかかる前髪を掻き上げた。それで隼にも、彼等がシルカス族長を歓待する口実で、長老会を抜け出して来たのだと判った。戦場にいるより、本営の草原にいるときの方が、トグルは忙しい。
シルカス族長は、やわらかく微笑んだ。
「閉ざされた日(注*)まで滞在するつもりで、アラルにユルテ(移動式住居)を持たせて来たから、邪魔はしないよ。……おれも、お前の祝詞を聴きたいな。ディオ」
この一言で、全ては決まった。
(注*)「閉ざされた日」: 「白い月」は旧正月、「閉ざされた日」は大晦日を示します。モンゴルで旧正月を祝うようになったのは、中国の影響です。本作では、遊牧民古来のシャーマニズムに基づく「火の祭祀」を脚色して扱っています。




