第二章 足のない小鳥(5)
2-2-(5)
群青色の夕闇が、音もなく空から降りて来る。深い海の底に居る気分になる。
冷たさを増した風が、その闇を吹き流し、腕や髪にまとわりつかせるのを払いもせず、隼は、ゆっくりユルテ(移動式住居)の間を歩いていた。右腕を首から吊り、長衣の襟はとめていない。痛み止めが効いているせいで、身体がだるい。
タオに貰った長剣は、ユルテの中に置いてきた。『客人として遇する』 という、トグルの言葉を試すつもりではないが、出来るだけ軽装で歩いてみたかったのだ。
馬の群れを横目にみながら歩き、地平線の彼方に雪をいただいた山々が眺められる場所まで来ると、隼は、肋骨をかばいながら身を屈め、胡座を組んだ。
少し、胸が苦しい。脇腹を押さえ、そろそろと息を吐きながら、彼女は、苦虫を噛み潰した。
『肺を、傷めたかもしれないな。この位置なら、大したことは無いだろうが。吃逆など起こしたら、死ぬ目に遭うだろう』
片目を閉じ、自嘲に唇をゆがめた。
『情けない……弱くなったな。これくらいの傷で音を上げるなんて。鷲が見たら、何と言うだろう。雉が――』 隼は、ふと真顔になった。
どうしているだろう、今頃。
あれから日が経つが、スー砦の方から、何か仕掛けて来る様子はなかった。トグルの方も警戒して、こちらから手を出すつもりはなさそうだ。
『鷹、鳩、どうしてる? オダの奴、また、落ち込んではいないだろうか。……雉、鷲。あたしが死んだと思っただろうか。せめて、ルツかマナに連絡がとれれば、あいつらの安否も判るだろうに』
髪を風になぶらせて、隼は天を仰いだ。藍色に染まりつつある東の空を。
透明な闇が地平線に淀んで、遠いタハト山脈の雪峰を、その上に浮かべている。天空の白い蓮華だ。砦は見えなかった。小さな人間の造物など、この地にあっては、砂粒のようなものなのか。
隼は、溜め息をついた。
仲間達の顔が、心に浮かぶ。一人一人の、その声が。
長い鬣のような銀髪をひるがえす鷲。ルドガー(暴風神)のように整った容貌に、笑っているような低い声と、広い肩。
その後ろに、控えめに、自信なさそうに控えているのは鷹だ。彼女の微笑が、こわばった心を、優しくほぐす。(自信を持てよ、鷹。お前は、充分魅力的だぜ。)
鳩の、拗ねたような幼い顔に、鳶の面影が重なる。(そうだ、鳶。お前はちゃんと鳩の中に居る。あたしの中に……。だけど、ああ、許してくれ。)
許して、鵙姉。貴女を守ることが出来なかった。ルツ、これも、変えられない運命なのか? 運命の神の掌で、あたし達は、ただもがき続けて来たのか――いるのか、今も。
なら、いつになれば、そこから逃れられる?
オダ。奪われたお前の仲間達を、救けられなくて、ごめんよ……。
甲高い女達の笑声に思考を中断され、隼は振り向いた。夕闇の底に黒く沈んだユルテ(移動式住居)の周囲に、蠢く影が見えた。
彼女はいつの間にか、多数の目に囲まれていた。銀の髪と皓い肌の天人――どんなに彼女が静かにしていても、目立ってしまう。
人々の間に黒髪の少女を見つけて、隼は微笑んだ。〈草原の民〉の子どもだ。鳩を想わせる黒い瞳に向かって、ひらひら片手を振ってみる。少女は驚いて大人たちの背に隠れ、はにかんだようにこちらを見た。
子ども達がいる。黒髪だったり赤毛だったりさまざまだが、それでどうということはないらしい。ヒルディア(故国)とは、ずいぶん違う。
隼は、哂った。切なくなった。
女達の嬌声が、辺りに響く。とても戦場とは思えない。松明のあかりを背景に、駆けて行く影が見えた。
眼を細める隼の耳に、トグリーニの族長の声が甦った。
『自死するのも、心を病みつつ生き永らえるのも……こちらの寝首を掻いて復讐するのも、奴らの自由だ』
『俺には、あの女達が何を考えているのか分からない。分かりたくもないがな……』
暗い嗤いだった。険しい、狼を思わせる貌の中で、眩むほど鮮やかな新緑の瞳がこちらを見詰めていた。あの時、自分は彼に何と言った?
隼の脳裏に、雉の顔が浮かんだ。憂いを帯びた、繊細な横顔が。ああ、そうだ――隼は、かたく眼を閉じた。
あたしも同じ、だからだ。
トグル。他人から見えるものが全てとは限らない。なんて、言い訳だ。あたしは、そんなに御大層な奴じゃない。
ぞくっと身震いがして、彼女は、自分で自分の肩を抱き締めた。
『思い出すな。せっかく、忘れようとしていたことではないか。忘れられるはずではなかったのか』
奥歯を噛みしめ、震えだしそうになる心を抑える。再び眼を開け、天を仰ぐと、青くかがやく星がみえた。隼は息を吐き、髪を掻き上げた。
『独りとは、やっかいだ。気を紛らわせるものがないと苦しい。鳩、鷹……お前達が居てくれたら、こんな思いはしなくて済むのに』
上着ごしに骨の在り処がわかる肩を抱く。冷たい闇に、吸い込まれそうな心地になる。
理想があった――己自身に、こうありたいと思う。あらねばと思い、求め続けて来た。他人に何と思われようと、矛盾していようと。それを失うことは、己を失うことだと思っていた。
それが今、こんなに苦しい。
『鷲。壊れそうだよ、あたし』
気づくと、言い訳ばかりだ。過去を省みるたび、足跡を、真実をおおい隠して、言い訳の草が生いしげる。風に吹き散らされ、揺れて、地面が見える度、はり裂けそうな程、この胸が痛む。
ただ生きて行くだけで、人は、いったい幾つの夢を砕かなければならないのだろう。
天空に星は煌く。嘲るように、人をいざなう。はかなく遠い輝きを、それでも欲しくて、小鳥は宙に飛び続けるのだろうか。人々の足跡に、あの叢に、いつか、小さな花が咲くことがあるのだろうか。
叫び声が、夜に響いた。嘲う……嗤っているのだ、女達が。
隼には、彼女達が命乞いをしているように思われた。敵の男に身を任せることで、守ろうとしているのだ。自分達の命ではなく。
彼女達を守る為に、死んでいった男達……彼等の生命を、女達は抱いていた。ひとりひとりを、その胸に。幻のような夢の欠片を抱き締めて、命乞いをしている。
しかし、男達には判らないだろう。彼女達自身にも判らないことかもしれない。
隼は、解るような気がした。あの時――。
『あたしは、命乞いをしていたのだろうか。雉に』 深く、するどく胸が痛んだ。――鵙姉に。守りたかったのだろうか、何かを。
それが何だったのか、あの時には、判らなかった。
だけど。今なら、あたしは……。
「天人! ハヤブサ殿!」
張りのある声に呼ばれて振り向くと、タオが、長い三つ編みをうるさげに掻き上げながら、やって来るところだった。子ども達が道を開ける間をずかずか通り抜け、隼の前に、両足を開いて立った。
「まったく、はらはらさせられるな、貴女には! どこへ行ってしまったかと思ったぞ。まだ動き回れる身体ではないのだ。私に心配をさせないでくれ」
そう、心配性の母親じみた口調で小言を言うわりには、彼女の瞳は優しく笑っていた。
隼は苦笑した。
「悪かったよ、タオ。じっとしているのは、性に合わないんだ。……でも、もう、ユルテ(移動式住居)に戻るよ。手を貸してくれないか?」
隼は、吊った右手で服の襟を合わせ、もう片方の腕を伸ばした。タオは、彼女に肩を貸しながら、苦い声で応えた。
「そうではない。兄上が、貴女を連れて来るようにと言ったのだ。天幕へ。キイ帝国から、使者が来ている」
真顔になる隼に、草原の娘は頷いた。
「リー・ヴィニガ女将軍の部下が、オン・デリク大公の使者を連れて来た。長老達が集まっている。兄上が、貴女の考えを聴きたいそうだ。仲間の消息も知りたかろう、と」
隼の切れ長の眼が僅かに細められ、紺碧の瞳が怜悧にきらめくのを、タオは、溜め息が出そうな気持ちで観た。
美しい女だと思った、やはり。痩せて骨ばった輪郭も、血の気のない薄い唇も、およそ女性らしさとはかけ離れているのだが。――肌理の細かい肌に、夜の森のような瞳。観る者の心を凍てつかせる輝きに、自分と兄は、魅せられているのだろうか。
睫を伏せて考えこむ天人の横顔を見詰めながら。タオは、そんなことを思った。
「大公の使者が、何の用だ? 降伏でも勧めに来たのか」
もともと低い声を、折れた肋骨を庇ってさらにひそめ、隼は訊ねた。
「兄上に、縁談だ」
「は?」
隼の喉から、思わず声が漏れた。タオは肩をすくめた。
「オン・デリク大公には、娘が大勢いる。その娘達を、帝の後宮や、ミナスティア国の王家に輿入れさせて権力を拡げるのが、奴の十八番だ。大方、兄上にも、その策を用いようというのだろう」
「ふうん」
『リー・ディア将軍の予想は、外れていなかったわけだ』 隼は、青年将軍の話を思い出した。
オン大公は、ミナスティア王国と盟約を結んでいる。ニーナイ国を襲う〈草原の民〉を見過ごし、彼等と共謀して、リー将軍を倒すつもりでいる。計画の、第二段と言うわけか。
隼は、ふと眉を曇らせた。何かが心に引っかかった。
「あいつは、話を受けるかな」
「知らぬ!」
何が気になったのだろうと考えながら呟くと、タオが反応した。吐き捨てるような口調に、隼は首を傾げた。
「気に入らないのか? 兄貴の結婚は、任せるんじゃなかったのか」
鷹に嫉妬していた鳩を、思い出す。唇を噛むタオの横顔は、拗ねている少女のようだった。
「そうだ。私が口を出すことではない。だが、キイ帝国の者は嫌いだ。奴等は、我々を蔑んでいる」
「…………」
「確かに、彼の国は素晴らしい。長城の南の豊かな地で、奴等は城郭に囲まれた邑に住み、一生動かすことのない、土や石で造った家屋を構えている。天高く城は聳え、商人は品物を商い、農民は地を耕して麦を育て、役人は役所で諸事百般を司る」
「…………」
「我等とは全く違うゆえ、奴等は、我等を人間だと考えていない。血に飢えた野蛮なけだものとして蔑んでいる。大公の娘であろうが、そんな女を義姉と呼ぶなど、まっぴらだ!」
新緑色の瞳を燃やし、ぎりぎりと奥歯を鳴らすタオに、隼は、かける言葉を失った。程度の差こそあれ、自分も〈草原の民〉をそのように誤解し、恐れていたのだから。
否、今も慄れているだろう。オダは、鷹は。
しかし、隼にはもう、タオ達をそんな風に考えることは出来なかった。
隼が黙ってしまったので、タオは口調を和らげた。
「それくらいなら、タイウルト族の女を嫁にする方がましだ。タァハル族でもいい。連中は、我等と同じ〈草原の民〉だが、キイ帝国と手を結び、歴代族長の氏族連合を創ろうとする志を邪魔してきた。兄上が、漸く奴等と停戦にこぎつけたと思ったら、今度は、その兄上を飼い慣らそうと言うのか。愚弄するにも程がある」
するどく舌打ちする。細かな刺繍が施された帽子の下からこぼれる前髪が、額で揺れた。
タオは、しばらく不満げに考えこんでいたが、突然、隼に言った。
「ハヤブサ殿が、兄上の嫁になって下されば良いのに」
隼は呼吸を止め、まじまじと彼女を見た。あまりと言えばあまりな提案に、咄嗟に言葉がみつからない。ようやく出した声は、掠れていた。
「冗談だろ……。あたしは、あいつを、殺そうっていう女だぜ?」
「だが、気が変わるかもしれぬだろう? 兄上は、貴女を気に入っている。珍しく、興味を持っておられる。どうだ? ハヤブサ殿。兄上を、どう思われる?」
タオは、勢いこんで訊いた。隼の口調はよわく、疲れていた。
「あのな……どう思うも何もない。ろくに話もしていないんだぜ……。そういう問題じゃない。族長は、他の氏族から妻を娶るんだろ」
「それに相応しい氏族がもはや無いから、言っているのだ。ハヤブサ殿。聖山の天人を得れば、兄上だけでなく、我が氏族にとっても誉だ。それに、こう申すのは何だが、私も兄上も、他人を見る目はあるつもりだ」
隼は憮然とし、じろりと紺碧の瞳を動かしてタオを見た。タオは、声をあげて笑った。
「ハヤブサ殿も、我等を評価して下さっている御様子――それが、嬉しい。天人は、我等の現人神だ。その心を得ることが出来たか?」
「……莫迦」
呟いて、隼は顔を背けた。しかし、心のどこかで、否定出来ないと感じている。判っていた。自分は、この厳格な遊牧民達を気に入っていると。その誇り高い生き方と、誤解をおそれぬ潔さを。
しかし――と、思う。『鷲は、どうするつもりだ?』
大公の使者と、それを護衛して来たリー女将軍の部下達。鷲は、本当に何も言って来ないつもりか? スー砦で、仲間達は、どういう立場に居るのだろう。
「ハヤブサ殿」
「ここか?」
タオに言われて、足を止める。目の前に、ユルテ(移動式住居)の三倍くらい大きな天幕が、黒々と聳えていた。
一瞬、気圧される。
『あいつは、いつもこんな所で、族長の仕事をしているのか』
奇妙な感慨が、隼の胸をかすめた。しげしげと眺めている余裕はなく、誰かがさっと入り口の布を開け、眩い光が彼女達の顔を照らした。眼を細めて立ちすくむ二人の娘を、族長の声と、十数対の瞳が迎えた。
「遅かったな、天人」
隼の正面には、黄金の鷲獅子を描いた黒い旗を背にして、椅子に腰掛けているトグルがいた。鮮やかな藍の長衣を、黒い脚衣の上にまとい、太い革製の腰帯でとめている。それが彼等の正装なのか、上着に合わせた藍色の帽子にも、襟や袖口にも、旗とおなじ黄金の刺繍が灯火の明かりに煌めいていた。
漆黒の髪が数本に編まれて、肩から胸元へ流れている。平静にこちらを見詰める新緑色の瞳から視線を逸らして、隼は、ざっと室内を見渡した。
トグルの両脇に五、六人ずつ控えているのは、長老達だろう。皆、族長と似た格好だが、剣は帯びていない。老いた者も、若者もいた。
中年のキイ帝国の男が、ひとり、トグルの正面の椅子に座っていた。大公の使者だろうか。剣を帯びている。
隼の視線は、どうという印象のない男のうえを通り過ぎ、その後方で片膝をついている、数人の金赤毛の兵士達に移った。
突如あらわれた銀髪碧眼の女に、彼等は驚いていた。隼は、その反応を無視して、一番年長の男の顔を眺めた。どこかで会った覚えがある。
「……ギタ?」
「セム・ギタの兄、ゾスタでございます。ハヤブサ殿?」
ゾスタは、トグルとオン大公の使者にことわり無く発言して良いものかどうか迷ったが、小声で名乗り、頭を下げた。胸の奥に、密かな感動がある。
ルドガー神に生き写しの《鷲》。物静かなウィシュヌ神のような《雉》を見た時にも、そうとう驚いた。《隼》まで揃うと、いよいよ天人とはどのような存在なのだろうと思う。
神々の化身が一所に集うとは、どういう運命の巡り合わせか。
隼は、気だるく頷いた。
「鷲は?」
他の人間がいることなど全く意に介さない様子で、問いかける。
「オダは? 鳩と鷹は? ルツと雉は、どうしている?」
「みなさま、御無事です。現在は、ギタと共にリー・ディア様づきの兵達を指揮しておられます」
「そうか。なら、いいんだ」
「……ハヤブサ」
すっかり無視されていたトグルが、静かに声をかけてきた。肘掛に、頬杖を突いている。
「タオも、座れ。客人の意見を訊きたい。使者殿も、聴いているがいい」
先刻入り口を開けて迎えた若い男が、使者とトグルの間に椅子を置いた。隼は、そこに座った。タオも、隣に腰を下ろす。
二人が落ち着くのを待って、トグルは、ゆっくり喋り始めた。
「タオから大体のところは聴いただろう、天人。オン・デリク大公が、第五公女を俺に与えると言っているらしい。お前、どう思う?」
「いいんじゃないか?」
隼は肩をすくめ、素っ気無く応えた。トグルは頬杖を突いたまま、じっと彼女を見詰めている。
「お前が誰と結婚しようと、あたしの知ったことじゃない」
「……俺が問うているのは、オン・デリクの使者がここまで無事に辿り着いた、その意図だ」
隼は、トグルを見返した。タオが、不安そうに二人を見比べている。後方で、ゾスタはギクリとしたが、顔には出さなかった。
トグルの表情は変わらない。相変わらず感情の窺えない、平坦な口調で言った。
「俺がリー・ヴィニガなら、使者をここへは遣らない。理由をつけて監禁するか、部下に命じて道中に命を絶つ。みすみす大公と俺達の挟撃をまねく真似を、何故しなければならない?」
「…………」
「命じられていなくとも、頭のある部下なら、機転を利かせるものだ。俺達とて、莫迦ではない。大公とミナスティア王国の盟約も、狙いも承知している。そうと知っていて、何故こんなことをする? 何が狙いだ」
ゾスタは、ごくりと唾を飲み込んだ。
鷲の予想通り、トグルート(トグリーニのキイ帝国での呼び名)の族長は、頭の切れる男らしい。大公の使者は冷汗をかき、可哀想にすっかり蒼ざめていた。
隼は、使者を眺めたのち、もう一度、肩をすくめた。
「どうして、あたしにそんなことを訊く?」
「リー・ヴィニガに、こんな回りくどいことを考える頭はないからだ」
あっさりと、トグルは凄いことを言ってのけた。唇には、うすい苦嘲いが浮かんでいる。
「尻に火のついた猪のような小娘に、二重三重の謎掛けなど出来ない。そこに居るセム家の次男坊に、機転がないとも思われない。セム・ギタなら思いつくかもしれぬが、リー・ディアを死なせた奴に、今、謀を行う権はなかろう。――聖山の天人か、《星の子》の仕業か」
心持ち瞼を伏せている、隼。毅然とした横顔を、トグルはじっと観ていたが、頬杖を外すと、フッと息をついた。
「まあ、よい。こいつは、俺に兵を退けという意味の謎掛けらしいな。さもなければ、天人の力で痛い目をみる、といったところか。俺には、どうでも良いことだが。そう言われると、なかには尻込みする者が出て来そうだな」
「兄上!」
息を呑むタオの後で、ゾスタは舌を巻いていた。『この男は、ワシ殿の考えを読んでいる。読まれることを承知で、ワシ殿は、これを謀ったわけか……!』
ゾスタは、二人の男に畏怖を感じた。どちらか一人だけでも敵に回さずに済んで、良かったと思う。
トグルは、妹の顔をちらりと見て、唇を歪めた。
「天人の掌で弄ばれるのは、癪だ。オン・デリクに恩を着せられるつもりもない。……俺達は、トグリーニだ」
『俺達は、トグリーニだ』――この言葉を、トグルは、決して大声でも、強い口調で言った訳でもなかった。むしろ、声はいっそう低く潜められ、情のこもらない呟きになっていた。
しかし、長老達は明瞭に反応した。老いた者も若者も、さっと面を上げ、この、まだ若い長を見た。
トグルは静かに立ち、大柄な体躯を斜めにして、旗に描かれた黄金の鷲獅子を顧みた。左の腰に提げた長剣の柄が、灯火の光を反射して、にぶく輝く。
隼は、その剣を眺め、嘆息した。
「あたしが、人質になるよ」
物憂い囁きに、トグルと長老たちは、一斉に彼女を顧みた。
タオが、息を呑む。
「ハヤブサ殿!」
すうっと眼を細める、トグル。隼は、面倒そうに繰り返した。
「あたしが人質になる。そうすれば、仲間は手が出せない。言いなりになったことには、ならないだろう。だから、兵を退いてくれないか?」
途端に。
――彼女が言い終えた途端、トグルは、声をあげて笑い出した。タオも、ゾスタも、驚いて彼を見る。それ程、彼の笑声には、場違いな快さがあった。
兄が感情を露わにすることは滅多に無く、タオには、それが本当に意外だった。
トグルはひとしきり笑うと、硬い表情で黙っている隼を、興味深げに眺めた。
「……お前、本当に、自意識過剰ではないのか?」
トグルは、片方の眉をもち上げた。隼は彼に横顔を向け、見返そうとはしなかった。
「天人は、皆そうなのか。お前は、たしか、俺の首を捕るとぬかしていたな。ここで、それを試してみるか? お前ひとりの生命に、どれ程の価値がある。この場合、それを決めるのは、リー・ヴィニガの方だろう」
「自分の価値は、自分で決める」
隼は、トグルを振り返り、静かに言った。
「あたしの仲間達が、決めることだ。だから、安売りはしない。あたし達は、互いの価値を知っている。さもなければ、こうまで回りくどい手は使わない」
「……面白い」
トグルの双眸に、強い光が宿った。片方の手を顎に当て、隼を眺めた。
「お前がそう言い出すことも、計算済みというわけか。よくよく、頭の切れる仲間らしいな。生憎、俺はそれほど単純ではないぞ。お前達の思惑を外して、俺がお前と使者を斬り捨て、リー家に宣戦布告をすると言ったら、どうする」
隼は、彼から顔を背けた。拗ねた少女のような口元を見て、トグルは唇だけで嗤った。
はらはらしている妹を無視して、トグルは椅子に腰を下ろすと、長老の一人に命じ、樹皮紙を取り出させた。
「お前、俺達と、一緒に来い」
懐中から筆を取り出し、書きながら、トグルは言った。隼は彼を顧みた。
「天人の策に嵌るのは、気に入らない。だが、客人の忠告とあらば、考えよう。約束の一ヶ月には、まだ間がある。その間に、お前の価値とやらを教えて貰おう」
「…………」
「タオ。お前に、使いを命じる」
痛ましげに隼を見詰めていたタオは、兄に呼ばれて、弾かれたように面を上げた。
トグルは、無表情な族長の顔に戻っていた。書き終えたばかりの樹皮紙を妹に手渡し、淡々と告げた。
「ジョルメ(若長老)を伴い、リー将軍の首級を、妹将軍の許へ送り届けよ。馬百頭、羊百頭を連れて行け。丁重に此度の非礼を詫び、我々は北へ帰ると伝えよ。追撃は無用。――尤も、天人が、そんな無謀はさせぬだろうが」
「御意」
タオは、疑問を発しようとはしなかった。両手で樹皮紙をおし頂き、丸めて懐中にしまいながら、隼を見遣る。彼女は瞼を伏せて考え込んでいたが、その感情を白い横顔から窺うことは出来なかった。
『リー将軍の首級を返す』 という族長の言葉に思わず顔を上げたゾスタは、トグル・ディオ・バガトルと正面から目が会って、慌てて面を伏せた。緑柱石の瞳に、心の裏側まで見透かされそうな気持ちがしたのだ。
険しい骨ばった顔立ちを、その目を、ゾスタは畏れた。
トグルは再び頬杖を突くと、面白くもなさそうに呟いた。
「これで、リー女将軍に対する借りは返したな。さて、もう一つの方は、どうするか」
いずまいを正す大公の使者は目に入らない様子で、帽子を脱ぎ、片方の手で、長い前髪を掻き上げた。漆黒の髪が節のめだつ指の間を滑るのを、タオは、不安な気持ちで眺めた――視界の端で、隼の様子を窺いながら。
帽子をかぶり直した時、トグルの顔には、困惑した青年の素顔が透けて見えた。
「カブル、トクシン(長老の名)。気乗りはしないが、お前達の言うように、オン・デリクを味方にするのも悪くない」
「兄上」
タオが情けなさそうに呟いたが、トグルは、妹を完全に無視した。名を呼ばれた長老達は、とまどい気味に顔を見合わせている。
隼は、タオを見て、その兄を観た。族長の眸が、その苦笑ほどにも和らいではいないことを、彼女は見抜いていた。
大公の使者の顔には安堵が表れた。ゾスタ達は息を殺して、草原の主の言葉を待った。
「それでは、トグル殿――」
「この話、お受けしよう。使者殿、帰ってオン大公に伝えるが良い。ただし、我等はこれから北へ帰る身。姫君を迎えに行く余裕はない」
……トグルの声にかすかに漂った毒気に、気付いた者が、どれだけいただろうか。
「長城を越え、極寒の凍土へ。姫君に輿入れする勇気があれば、受け入れよう。今夜はもう遅い。天幕を与える故、休んで、明日の朝発つように。トクシン、案内してやれ」
白髪の多い男が立ち、使者とセム・ゾスタ達に、天幕を出るよう促した。他の長老達も、動き出す。
隼に手を貸そうとしたタオは、彼女がじっと兄を見詰めていることに気が付いた。
トグルも、立ちかけた動作を止めて、彼女を見た。新緑色の瞳が、真っすぐに彼女を映した。
「お前の仲間が、どんな策をうって来るか。大いに娯しみだな。ハヤブサ」
悠然と歩み去る男の背を、隼は、黙って見送った。




