第七章 天地不仁(4)
6―7―(4)
『どきどきする……』
鳩は、音をたてないよう気をつけながら息を吐いた。何故こうなったのか、解らない。
トグルの仕草や表情、身にまとった衣服や雰囲気、低い声から息遣いに至るまで、一つひとつが気に懸かる。こんな気持ちは初めてだ。一緒に神矢に騎っていると、触れそうで触れない距離で彼の体温や匂い、鼓動までが伝わるように思われた。偶然や必然で手が触れたときなど、息が止まりそうになる。毎日が緊張の連続だ。
それでも、別の馬に騎せてもらおうとは思わなかった。離れたくないのだ。離れれば、それはそれで彼のしていることが気に懸かり、目で追ってしまう。食事の時、休憩の時、オダや雉と話している時……そんな自分がどう観られているのかが気になり、落ち着かない。おかしくなってしまいそうだ。
鳩は眼を閉じ、胸にたまった想いを吐き出した。放っておくと鼓動がどんどん速くなり、呼吸が追いつかなくなる。体温が上がったり下がったりし、つられて変化しているであろう顔色を知られるのが恐くて、面を伏せた。
周囲には、珍しい風景がひろがっている。鷲が通ったであろう道、鷹の故郷だ。けれども、鳩はずっと項垂れて黒馬の肩をみつめていた。流れる雲も砂丘も陽光も、心には入らない。
隼も、こうだったのだろうか、トグルに。鳶(姉)と鷹も、鷲に対して。記憶のなかの彼女たちに訊ねても、答えはなかった。
おそらく、トグルは何も考えてはいないだろう。彼の関心が自分にないことは、訊ねるまでもない。
『気づかれたくない。どうか、気づかないでいて欲しい』
鳩は確信していた。
その時が、終わりだと……。
日が暮れると、風の勢いが和らいだ。含まれる砂の硬さも。
東の空に現れた紫色の雲が、みるまに拡がって西で燃える朱色の炎をおしつつみ、やがて地平線であわくかがやく青白い光の柵に変わるさまは、時の経つのを忘れるほど美しかった。
セム・サートルが立ち枯れた胡桃の大木を割って薪とし、火を熾した。鳩が根菜と豆の羹を作り、雉はチャパティを焼いた。(トグルの食事は、干した羊の肉と乾酪だ。)
食後、トグルはひとり火を離れた。仲間たちに背を向けて胡坐を組み、刀を研ぐ。革砥の表面を腰刀の刃が走るたび、シュッシュッと軽快な音が辺りに響いた。
「トグル」
雉は草原の男の背に声をかけた。トグルは顔だけで振り向いた。
宵闇に、天人の銀髪がぼうと浮かび上がる。銀の砂を蒔いたように彼の周囲で星がまたたく。――いつ見ても現実感のない男だなと、トグルは思った。
雉は、葡萄酒の入った革袋をひょいと掲げた。
「いいか?」
トグルは頷いた。
雉は彼の隣に腰を下ろし、胡坐を組んだ。トグルは刀を研ぐのをやめ、鞘に収めた。男達は、脚や腰の位置をもぞもぞと動かして、互いの距離を調節した。
焚き火のそばで、鳩が二人の様子を見守っている。雉は心細そうな彼女に片手を振り、南の地平に向きなおった。ごつごつした岩影に、草がこんもり茂っている。倒木につながれた馬達が、鼻を寄せて餌を探していた。
神矢が頭をあげる。駿馬は、うるんだように輝く黒い瞳で主人たちを見詰め、優しく鼻を鳴らした。雉はにこりと微笑み、さらに遠くを見遣った。
夜は果てしが無く、先へ行くほど曖昧になり、闇へ融けていく。あわい星明りに、切り立った断崖と森が照らされていた。雉は肩を射す寒気をおぼえ、外套の襟を引きよせた。
「すごい景色だなあ」
雉は感慨をこめて呟くと、革袋の栓を開け、木製の椀に中身を注いでトグルに差しだした。
トグルは首を横に振った。
雉は酒を自分の口へはこびながら、彼の横顔を眺めた。酒好きな彼が飲まないとは、珍しい。
トグルは静かに顔を上げ、息だけで囁いた。ほどけかけた辮髪が背を流れる。
「ここでは、星の位置も違うのだな。場所が違えば、天さえ変わる……」
雉は葡萄酒を飲み下した。若い二人についてトグルの考えを訊きたかったのだが、今はやめておこう。
〈黒の山〉では夜空は手を伸ばせば届くところにあったが、鮮烈で、肌を切りそうなほど冷たかった。ここでは遠く、空気の層が厚くかんじられる。瑠璃色に染めた羊毛をたっぷり使って織りあげた絨毯に、夜の女神が丁寧にならべた真珠のような星ぼしが、こちらを見下ろしている。
「何を考えている?」
雉が問うと、トグルは黙って眼を伏せた。頬骨のはった険しい面差しのなかで、緑柱石の瞳の静けさは印象的だ。
『不思議な男だよな』と、雉は思った。
彼ほど他人の評価が分かれる者を、他に知らない。戦場における民族の勇猛さとともに、もはや伝説となっている部分も多い。冷酷で慄ろしいほど聡明かと思うと、愚直なほど誠実だ。どれもが違うようで正しく、捉えきれない。
しかし、雉に対する態度は一貫していた。雉は、彼から激しい憎しみを感じたことがない。怒りをぶつけた時でさえ、穏やかだった。
戦いに臨む時も、トグルは常に悲哀と礼節をもって敵を斃す男だった。運命を変えられない嘆きと、容赦のない良心に切り刻まれる苦痛は、同情に値した。
〈旧き民〉の特徴を色濃くのこす容貌を、雉は眺めた。トグルは決して己の責任から逃げようとしない。そして……彼等が滅びかけている現実は、今も変わらないのだ。
『……途方もないな』
雉は溜息を呑んだ。この男の裡には闇が宿っている。誰のものでもない、彼自身の闇だ。全てを吸い込む虚無の淵が、ぽっかり口を開けている。それでも、奥にかすかに瞬く光があるから、共に生きていけるのだ。自分と鷲と、隼は……。
「ワシのことを、考えている」
ぽつりと、トグルが呟いた。咄嗟に、雉は何を言われたのか分からなかった。一呼吸おいて、自分の問いへの答えだと気づく。
トグルは革靴のつま先に転がる小石を見下ろした。
「あいつは、負う必要のない責任を負っているのではないかと思えるのだ」
雉は瞬きをくりかえした。トグルは彼をちらりと一瞥すると、自嘲気味に唇を歪めた。
「時々そんな奴がいる。安楽に過ごせる道が目前にありながら、何故かそれを選ばない。まるで、幸福になることを拒んでいるかのようにな」
「悪いことじゃないだろう?」
確かに、鷲は何か問題が起こる度、飛びこんで行く男だ。オダの時も、リー女将軍の時も、トグルの時も……。しかし、押しつけたり、他者に同じことを要求したりする奴ではない。なにより、彼の行動によって助けられた者がいる。雉もその一人だ。――それでいいではないか?
トグルは眉間に皺を寄せた。星が瞳の表面で反射して怜悧にきらめき、すぐ瞼に覆われる。口髭におおわれた唇から、吐息が漏れた。
「それが奴の真の望みなら、構わぬのだがな……。本人は辛かろう」
雉は小鳥さながら首を傾げ、思い切って訊ねた。
「お前もか?」
皮肉やからかいのつもりではなく、本当にそう思えたのだ。状況や遣り方は異なっていても、無謀なほどの意志の力で困難に臨み、贖罪の道を探している。トグルも同じではないかと。
草原の男は、不意を突かれて黙り込んだ。ややあって、ひどく疲れた口調で応えた。
「何故、そういう話になるのか解らぬが……。違う。俺は、他国のことなどどうでもよい」
「…………」
「ワシは敢えて苦難を選択し、乗り越えることで何かを埋め合わせているようだ。あまりよいこととは思えぬ。特に、今回は……子どもが待っているのだからな……」
トグルの言は抽象的だが、鷹と鳶が待っているということには同意だった。鷲は一日も早く帰った方がいい。
己の責任を放棄できないところは、トグルと鷲は似ている。だが、生まれながらの族長であるトグルと、鷲のそれは根本的に違う。隼を得てトグルは変わったが、鷲は……。『埋め合わせている』という言葉には、説得力があった。
そして、
『おれもそうだ』 気づいて、雉は嗤った。自分も――自分こそ、欠けたものを埋められずにいる。あの日から。
それでも、雉は今の自分を悔いてはいなかった。
「おれ達は、みんな、何かを埋め合わせながら生きているのかもしれないな……」
応えはなかった。雉が顧みると、トグルは眼を閉じていた。立てた膝の上に腕を組み、頬を載せている。
オダ達は、焚き火の周囲で各々の外套にくるまり、既に眠っていた。
*
翌朝も、よく晴れた。
オダとサートルは、馬の背に荷物を固定しながら空を仰ぎ、そろって嘆息した。夜の女神が立ち去っていくらも経たないのに、太陽はぎらぎら輝いている。赤い大地に陽炎が立ち、蒸気が肌に貼りついて膜をつくる。頭蓋内にとどこおった熱が、思考を鈍らせる。
北方の乾燥地帯で暮らす者には、暑さより湿気が辛い。雉はじっとりとねばつく額の汗を拭い、前を行く草原の男は大丈夫だろうかと案じた。
出発の際にかるく言い争ったものの、オダと鳩は黙っていた。二人はぎくしゃくし続けている。
一行は、ミナスティア国の人里に入っていた。道の両側に、土壁の崩れた家屋や、放棄された畑、壊れた家畜小屋などを目にするようになった。井戸を囲む石垣には雑草が生え、神々を祀る祠の屋根は朽ちている。
人影はない。人のいそうな集落や屋敷をみつける度に門扉を叩いたが、応えはなく、旅人を誰何する者も現れなかった。
トグルは、方針を問うサートルとオダに、平静に応えた。
「治安が悪化しているのだ。武装している者をたやすく受け入れはすまい」
閉ざされた扉とその向こうに観える屋根を眺め、呟いた。
「こちらが無害だと得心が行けば、接触してくるだろう。いつまでも、不審者を放置しておくわけにはいかぬ故……」
それで雉も、この国の人びとが隠れて一行を監視している可能性に気づいた。サートルとオダはミナスティア国民に近い容姿をしているが、自分を含む三人は、かなり特異だ。トグルとサートルは大柄なうえ、武装している。少人数でも警戒されるのは仕方がない。
彼等は、さらに人のいる地域を目指して進んだ。その道は、旧王都へと続いていた。
昼下がり。突然、トグルは手綱を引き、神矢の脚を止めた。すらりと跳び降り、轡を引き寄せる。
サートルが葦毛を止め、オダと鳩は顔を見合わせた。
トグルは愛馬の瞳をのぞきこむと、慣れた手つきで面繋を外し、乗っている娘に告げた。
「降りろ」
「え……?」
トグルは轡助け(轡の両側に垂れている飾り紐)を断ち切り、手綱ごと馬銜を足元に投げ捨てた。無言の剣幕に圧されて、鳩は馬から降りた。トグルは鞍をはずし、他の馬具と荷物も外してしまった。
慣れない長時間の乗馬で、鳩は腰を痛めていた。片手で腰をさすっている娘には目もくれず、トグルは愛馬の頭を抱え、自分の額におし当てた。
雉はサートルと目を合わせ、馬を降りた。オダもそれに倣う。
トグルは神矢の首を撫でている。サートルが彼に近づいて、控えめに訊ねた。
「どうなさいました?」
「弱っている……」
トグルは小声で答えた。陰鬱な響きが、聞く者の心を捉えた。
鳩は雉を見上げ、雉は困惑顔で応えた。自分たちでは問題が分からない。
瞬きをくりかえす馬の瞳をみつめ、草原の男は舌打ちした。彼等の言葉で囁く。
「***、*****……」
神矢は額の流星紋を主人の胸にこすりつけ、ふぁさり、と尾を振った。人間に対しては限りなく無愛想な男が、相手が馬になると恋人か我が子のように案じる姿に、雉は心を痛めた。
オダとサートルは、それぞれの馬を顧みた。
トグルは片手を神矢の首にあて、もう一方の手で栗毛の轡を捉えた。間近に引き寄せ、口の中を覗きこむ。栗毛は驚いて軽く足踏みしたが、すぐおとなしくなった。
オダは、おそるおそる訊いた。
「大丈夫でしょうか?」
トグルは険しい表情で黙っていたが、身振りで彼に荷物を下ろすよう指図し、葦毛にも歩み寄った。
結局、神矢と栗毛は馬具と荷物を免除されることになった。トグルは自ら鞍を肩に負って歩いた。鳩とオダが後に続く。葦毛と栗毛は大丈夫だったが、トグルが徒歩で行くのにサートル達が騎乗するわけにはいかない。全員、徒歩となった。神矢は主人の消沈を感じとり、頭を下げ、耳を伏せてしおしおと歩いた。
草原で生まれ育った馬たちにも、ここの気候はこたえたのだろうか。疲労がたまったのか、水が合わなかったのか……。さまざまな原因が一同の頭に浮かんでは消えたが、どうしようもない。行けるところまで行くしかなかった。
足元では、草が道を覆いはじめた。木の枝が日差しを遮り、風が木の葉をざわめかせる。小鳥の声が高く響き、枝の上を小さな影が横切った。
森は一行の心を和ませたが、トグルの目には映らない。黙々と歩き続けた。
夕暮れ、彼等は道端の木立ちの間に足を止めた。神矢は自ら膝を曲げ、木陰に座りこんだ。指示されなくとも身体を休められるのは、賢い『駿馬の証』と言われるが、トグルの双眸はかげった。愛馬に寄りそい、外套で汗をぬぐっている。
オダは悪事を咎められた子どもさながら落ち着かなくなった。トグルを手伝おうと、小川を探して水を運び、乾いた草を刈ってきては束にして馬の背をこすった。サートルも、柔らかい草を探しに森へ入った。
この頃になると、雉にも馬たちの異変が分かった。
汗でぐっしょり濡れた脇腹が、大きく波打っている。毛皮に砂が貼りつき、普段の艶は失せている。鼻の粘膜は乾いていた。大きな瞳と眼裂の際の白眼は濁り、充血している。もどかしげに土を掻いて砂埃をあげるさまは、誇り高い名馬の気性を感じさせたが、膝に力はなく、主人の掌になだめられて湿った土に腹を押しあてた。
葦毛も仲間が心配なのだろう、しきりに鼻を鳴らしている。
トグルは、いっそう無口になった。
歩き始める前から馬に騎り、馬上で死ぬと言われる遊牧民だ。馬に対する愛情は今さら言うまでもない。まして神矢は戦場で彼とともに戦った相棒だ。見ているだけで胸を破られそうなトグルの心痛を気遣って、鳩は雉の袖を引いた。
「何とかならない? 雉お兄ちゃん」
雉は曖昧にうなずいた。
「うん。やってはみるけれどね……」
現在、雉と鷲の能力は専らトグルに注がれているのだ。『自信はないよ』という断りを呑んで、雉は黒馬に近づいた。オダが場所を譲る。
雉は、黒馬を驚かせないよう気遣いながら、震える首筋に掌をあてた。そうして気づく。
「…………」
雉は己の右の掌を凝視めた。左の掌も透かしみる。どちらも、見た目は変わりない。変わっているのは――
「雉さん?」
オダが不安げに呼ぶ。しかし、雉には説明できなかった。
かれの脳内で、ルツがささやいた。残酷なほど冷厳と。
『あなたが今の状態でなければ、止めているのよ、ディオ……。エルゾ山脈より南は、生きづらい世界。鷹や鳩のように変化した者にとっても』
『確かめていらっしゃい、変わるということの意味を』
いつしか、雉は呆然と草原の男を眺めていた。
「トグル。お前……大丈夫か?」
《古老》の能力は、失われたわけではない。鷲は病に侵されたトグルの身体を再生する為に、自らの生命力を分け与え、雉が維持している。その間、他の事に使えないだけだ。
それが……なくなっている? 足りていない?
帽子を脱いだトグルのこめかみに、ほつれた黒髪が貼りついていた。日に焼けた頬は憔悴しているようだ。緑柱石の双眸の輝きは失せ、暗い翳が宿っていた。
雉の首筋を、生ぬるい汗が伝った。
「トグル」
「言うな」
ぶっきらぼうな応えだった。トグルは愛馬の背を撫でつつ、目に視えない何かをじっと睨み据えていた。早口に囁く。
「言うな、雉。分かっている」
雉は眼を瞠った。『分かっている』だと?
己に言い聞かせるように、トグルは呟いた。
「天に仁はなく、地に慈しみはない、ということだ」
雉 :「なあ、オダ。不公平だと思わないか?」
オダ :「どうしたんですか? 雉さん」
雉 :「おれがこいつを表現する時には、何行もかけて、言葉を尽くしているのに。こいつがおれを表す時には、たったの七文字なんだぜ」
オダ :「『現実感のない男』……本当に七文字だ。これ、褒めているんですか?」
雉 :「ちょっと酷いだろ」
オダ :「作者は何て言っているんです?」
雉 :「抗議したら、『文章表現能力の差だから、あきらめて』だと」
トグル:「その前の二文も、努力はした」
雉 :「二文! おれの方が美形だって言われているのに。不公平だー!」
トグル:「…………」(←自分の表現力のなさに落ちこむ一方、『裡に宿る闇のなかで瞬く光』や、『全てを吸い込む虚無の淵』も、褒め言葉とは思えんぞ。どういう厨二病だ……と思う。でも、雉に悪かったような気もするので、結局だまっている。)




