第三章 黒の山(5)
3-(5)
鷹が近づくと、隼は眼を開けた。深い紺碧の瞳で彼女を観て、全てを理解したように頷くと、剣を手に身を起こした。
鷹は、鷲に言われたとおり焚き火に薪をくべると、火のついた薪を一本かざした。何故、彼が緊張しているのかが分からない。炎の描く光の環の外側で、何が起きているのか――。
隼には観えたらしい。彼女は身を屈め、鷲の隣に立った。
「鷲」
「悪いな、隼。気付くのが遅かった」
「あたし一人で、充分だよ」
隼は、すらりと剣を抜いた。鷲が、一方の眉を持ち上げる。彼女はぺろりと唇を舐めると、両手で剣を握りなおした。繰り返す。
「大丈夫だ」
鷲は、やや不安そうにしながら、剣先を下ろした。
隼は、夜のなかへそっと足を踏み出した。銀色の髪が、闇にぼうと浮かびあがる。細い背をしならせて敵の気配をうかがうさまは、獲物に襲い掛かろうとする白い狼のようだ。
鷹にも、彼女の視線の先に、影が見えた。こちらを見詰める二つの黄金色の瞳を見つけ、息を呑む。
松明の明かりの中に、のっそりそれが現れた。
鋭い爪を生やした巨きな前肢が、音もなく大地を踏みしめるのに従い、小山のように盛りあがった肩の筋肉が、ぐうと動いた。牙の間から、真っ赤な舌がのぞく。炎に照らされた銀灰色の毛皮には、黒い斑点が散っていた。
鷹の身体を、ふるえが走る。隼の唇が、おそれを知らぬ者のように嗤いを形作る。
それは、襲い掛かる相手を決めかねていた。隼が剣を顔のまえに掲げた動きで視線をさだめ、低く唸りながら頭を下げる。
動けない鷹の前に、鷲が腕を差し伸べた。
隼はさらに身を屈め、脚をたわめて力を蓄えた。嗤いが消え、瞳に強い光が宿る。緊張が高まり、今にも跳びかかると思われた。その時、
『お待ちなさい』
滑らかな女性の声が響き、彼らは息を呑んだ。頭を殴られたような衝撃だった。
それも、驚いて首を振る。
眠っていた雉とエツイン=ゴル、鳩とオダが跳ね起き、天幕から顔をのぞかせた。
「な、何だ? 今の」
「きゃっ」
鳩が悲鳴を呑み、咄嗟に、雉は少女を抱いて下がらせた。隼は身構えを崩さなかったが、当惑が頬を過ぎった。
獣の背後の闇からにじみ出るように、人影が現れた。
背の高い、細身の女性だった。濃紺の毛長牛の毛織の長衣に毛皮の外套を羽織り、頭巾をかぶっている。木製の長杖を手にしていた。炎に照らされた頬は皓く、鼻から口元を霜よけの布で覆っている。涼し気な目元に、年齢が伺えた。――若い娘ではないが、老婆でもない。長い睫毛と瞳と、額にかかる髪は、夜に染めたごとく黒かった。
彼女は、焚き火の明かりが届く場所まで来て立ち止まり、一同を見渡した。獣が、彼女の足下に身を寄せる。口を覆う布の端をひいて隙間をつくると、話しかけてきた。
「私の言葉が解りますか? これで全員ですか?」
静かな声は、先ほど頭蓋に響いたものとは違い、低かった。
隼は剣を構えたまま、瞬きをくりかえした。
「あんたは……」
女は、冷静に頷いた。
「私はマナ。神殿の者です。この道の管理を任されています」
頭のなかに、また声が響いた。
『あなた方に、危害を加えるつもりはありません。私は、ルツ。あなた方が言うところの、《星の子》です』
「《星の子》って、クド(ユキヒョウに似た獣)だったのか?」
外見では判らなかったが、かなり動揺していたらしい。隼が、間抜けなことを呟いた。
声は、笑いを含んだ。
『これは、護衛に差し向けたもの。敵意はありません。剣を収めなさい』
「いらねえよ、こんな護衛」
隼は、舌打ちをして剣を収めた。マナが、ほっと息を吐く。一同は、彼女とクド(ユキヒョウに似た獣)を、やや茫然と見詰めた。
「どこから喋っているんだ?」
鷲が、ぐるりと周囲をみわたした。
「どこに居る? ルツと言ったな。姿を見せろ」
しかし、今度は返事がなかった。首をかしげる彼に、マナが答えた。
「念話は、大勢との会話には向かないのです。ルツは、この上の神殿に居ます。狼の群れと、怪我人がいると分かったので、私が来たのです」
「怪我人?」
鷲が呟く。仲間の視線が自分に集中したので、隼は、ふるると首を横に振った。マナは、彼女の反応には拘らなかった。
「どこに居ます?」
戸惑う人間たちを尻目に、クドはつと身体の向きをかえ、天幕のひとつに向かって歩き出した。揺れる尾の先を見下ろし、マナは頷いた。
エツイン=ゴルが、はっとする。
「まさか、イエ=オリ?」
鷲は剣を収め、隼と顔を見合わせた。雉が、緊張した面持ちで立ち上がる。
マナは躊躇うことなく商人たちの天幕へ近づいたので、エツイン=ゴルは慌てて駆けて行った。
彼らが天幕のなかを窺うと、青年たちは起きていた。イエ=オリが、獣脂の灯を提げた柱にもたれて坐り、荒い息を吐いている。雉は、急いで身を寄せた。
「急に苦しみだしたんだ」
仲間の一人が、助けを求める口調で言う。イエ=オリは苦痛に顔をしかめ、見慣れない女性が混じっていても気にする余裕がない。
マナは遠慮なく天幕へ入ると、外套の頭巾を脱ぎ、口布を下げた。結い上げた長い黒髪が現れたので、鳩は眼をまるくした。
「はとと一緒……」
少女が囁くと、マナは、にこりと微笑み返した。あたたかな眼差しは、彼女が子どもを育てた経験をもつことをうかがわせた。
イエ=オリは、浅い呼吸をくりかえしながら、雉へ片手を伸ばした。
「ケイ」
「どうした、イエ=オリ。息が出来ないのか?」
雉は、彼自身が病を得たかの如く蒼ざめ、頬をこわばらせた。マナは、改めて青年の上にかがみこんだ。
「突然、ごめんなさい。神殿の者です。傷を診せてくれる?」
イエ=オリは、怪訝そうに彼女を見たものの、拒む気力はなかった。マナは、彼の上着の襟をくつろげた。灯火に照らされた肩にうすい傷痕しか残っていないので、眉をひそめる。
「傷はふさいだんだ」
雉が説明した。
「骨も接いだ。血は戻っている。悪い風も、追い払ったはずなんだが……」
完治していなかったのか。途方に暮れる彼の前で、マナは、イエ=オリの傷のうえに片手を当てた。
「……はい。意識はあります」
マナは、誰かに報告する口調で、独り言を始めた。肩から首筋へ掌を動かし、眉間に皺を刻む。
「速いですが、脈は触れます……血圧は、保たれています。外傷の既往あり……彼らの一人が、傷を修復したそうです。……はい。貧血はありません。片肺呼吸です……」
鷲は隼を見下ろし、隼は、訳が分からないと言うように首を振った。雉は、エツイン=ゴルと視線を交わす。彼らが茫然と見守る間、マナは眼を閉じ、考え込んでいた。
やがて、マナは青年の衣をととのえ、毅然と顔を上げた。
「神殿に運びます。誰か、手をかして下さい」
不安げなイエ=オリに頷いてみせ、一同を見渡した。
「大勢を連れては行けません。ひとり――」
「おれが行こう」
迷いない口調で、雉が応えた。イエ=オリの手を握ったまま、彼女を見る。
「背負って行けばいいか?」
マナが肯くと、雉は、さっそく彼の腕を肩にまわし、支えて立ち上がろうとした。エツイン=ゴルが、おろおろと問いかける。
「お待ちください。行くって……神殿へ? 貴女は――」
「一刻を争うのです」
マナは冷静な口調をかえず、辛抱強く説明した。
「《星の子》の指示です。大丈夫、必ず助けます」
エツイン=ゴルは黙り、イエ=オリの仲間達は、雉をたすけて青年を彼の肩にのせた。マナと、イエ=オリを背負った雉が天幕を出ていくのを、彼らは、道を開けて見守った。
外で猫のように前肢を舐めていたクド(ユキヒョウに似た獣)が、肉厚な手を地面に下ろして、彼らを見た。
マナは、鷲を顧みた。
「あなた方は、このまま、身体を馴らしながら登って下さい。改めて、迎えに来ます」
鷲は、毒気を抜かれた表情で頷いた。
マナとイエ=オリを背負った雉は、慎重な足取りで、焚き火を迂回した。祈りの詞の描かれた岩壁の方へと歩いていく。岩棚から伸びて闇へと続く巡礼道の手前に差しかかると、瞬きひとつの間に、消えた。
「…………!」
鳩とオダが悲鳴を呑み、隼も眼を瞠った。一同は慄然とし、鷲とエツイン=ゴルは、岩棚から夜のなかを覗き込んだ。
エツイン=ゴルは、ごくりと喉を鳴らした。
「消えた……よな? 鷲。見間違いではないな?」
流石の鷲も、理解を超える事態に呆然とするばかりだ。何が起きているのか、と思う――。
隼が、仲間の腕を突っついて注意を促した。
「鷲。あいつ……どうする?」
この山岳地帯で霊獣とあがめられるクドが、焚き火の明かりと夜の狭間に腰をおろし、のんびり欠伸をしていた。
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雉は、ぐらりと周囲が揺れる感覚に立ち止まった。火焔が風にゆらめくごとく、濃紺の闇がゆれ、吸い込まれそうに感じる。思わず振り向いたが、仲間のすがたは夜に融け、見えなくなっていた。
マナが、落ち着いた口調で促す。
「大丈夫です。そのまま進んで下さい」
何が大丈夫というのか。安心は出来なかったが、背中の青年の呼吸がいよいよか細くなったのを感じ、雉は唇を噛んだ。意を決して足を踏み出すと、これまでとは違う砂利の音が聞こえた。
風が止んでいた。
ふいに、岩壁に挟まれていると、雉は気づいた。洞窟のような冷たさはない。人の手で丁寧に削られととのえられた面には、何処からか明かりが届いている。マナが手にした獣脂の灯だけでなく、行く手の窪みに置かれた灯火と、その向こう、扉らしき隙間から漏れるやわらかな黄金の筋を目にして、彼はほっと息を吐いた。
扉が開き、焦りを含む人の声が迎えた。
「マナ様! 大丈夫ですか?」
「怪我人がいます。手をかして下さい」
ばたばたと人の動く気配がして、小柄な男が二人、雉のもとへ駆けてきた。見慣れた朱色の髪の、ナカツイ国の男達だ。マナと同じ染めた毛長牛の毛織の長衣を着ている。
「おれ一人で運べるよ」
やんわり断ると、彼らは、雉を部屋の中へと案内した。女たちが盥に湯を入れ、布を手に待ち受けていた。雉の観たところ、ニーナイ国やキイ帝国など、さまざまな地域から集まっているようだ。既婚者らしい、前掛けをつけた女性もいた。
そして、部屋のほぼ中央に、彼女がいた。
「こちらへ運んで」
念話の声の主は、彼を見るなり、こう言って身をひるがえした。背のなかほどで束ねられた長い黒髪が仕草につれて揺れる。壁に寄せた寝台へと案内しながら、彼女は、きびきびと指示した。
「消毒用のお酒を持ってきて。小刀も!」
二十代半ばくらいか、鷲と同年代に観えた。若いが、すばやい身のこなしにも口調にも、自信と威厳がある。彼女ひとりが木綿の白い衣を着ている。《星の子》と呼ばれる巫女、なのだろうか。
雉とマナがイエ=オリを寝台に横たえると、彼女は躊躇うことなく青年の上着をはだけ、胸に耳をおし当てた。かなり大胆な行為だが、真剣な表情には、照れや恥じらいは全くなかった。
「左ね。間違いないわ」
独りごちると、マナを促し、イエ=オリを壁向きに寝かせようとした。息苦しい青年は、かすかに抗った。
《星の子》の声がとんだ。
「ダレイオフ=ケイ! 抑えて頂戴」
名を呼ばれ、雉は頬を叩かれた気分がした。驚き呆れつつも、イエ=オリにとってはその方がよかろうと、手を握る。マナは、青年に優しく語りかけた。
「大丈夫、すぐ楽になりますから。じっとしていて下さい」
「どうするんだ?」
雉が訊ねると、《星の子》は、女たちから手渡される布をイエ=オリの身体の周りに敷きながら、早口に言った。
「緊張性気胸を起こしているの。すぐに、ドレナージ(注*)をしないと――」
「きっきん……何?」
雉は、舌を噛みそうになった。《星の子》は、澄んだ夏の夜空のような瞳で彼を見詰め、言い直した。
「肺が破れて、吸った空気が胸のなかに漏れているの。胸腔内に溜まった空気が肺を圧迫して、息が出来なくなっている。このままでは死んでしまうから、胸に穴を開けて、溜まった空気を抜くのよ」
「抜くって……」
雉は愕然とした。その間に、マナは小さな木の葉をイエ=オリの口に含ませ、穏やかに呼びかけた。
「さあ、これを舐めて。ゆっくり数を数えて下さい。大丈夫、私たちを信じて。……いち、に、さん……」
三、の呼びかけとほぼ同時に、青年は眠りに落ちた。《星の子》は平然とした顔で、イエ=オリの左腋下を酒を染ませた布で拭うと、肋骨に添って小刀で小さな穴を開けた。本当に小さな、女性の指一本ほどの幅の切れ目で、血は殆ど流れなかった。
慣れているのか。マナと周囲の女たちは、全く動じていない。
雉が眼をまるくしていると、《星の子》は、その穴に細い硝子の管を挿しこんだ。ナカツイ王国でしか作られていない貴重な硝子を、子どもの指より細い管状にしたものだ。管の先に、羊の腸を使った管が続き、木製の蓋のついた桶に繋がっている。女たちの一人が桶を持ち上げると、たぷんと音がしたので、水が入っているのだろう。
《星の子》は、イエ=オリの管を挿した傷の周囲を絹糸で縫いながら、無表情に説明した。
「空気を抜くと言っても、急に抜いたら、今度は肺が炎症を起こしてしまう。だから、水で塞いで、ゆっくり引いていくの。肺は自然に膨らんで元に戻るわ。それまで、この管は抜かないようにね」
そう言うと、女たちの差し出す盥で手を洗い、寝台から離れた。イエ=オリの傷にマナ達が布を重ね、衣を直す。
雉にも、青年の呼吸が先ほどよりずっと穏やかになっているのが解った。
《星の子》は、身振りで雉を促し、部屋の奥へ向かった。大人しくついて行きながら、雉はやっと、ここが巨大な岩盤をくりぬいて作られている部屋だと気づいた。
寝台が置かれているのと反対側の壁に、石から削りだした長椅子があった。毛長牛の毛や羊の毛を織った色鮮やかな敷物と枕が、いくつも重ねて置いてある。素朴な樫の木製の椅子と、同素材の卓も並んでいた。
《星の子》は、長椅子に腰を下ろすと、結わえていた髪をほどいた。真に黒い髪が、頭被いさながら腰を超えて流れ落ちる。瞳は黒曜石で、肌は透けるように皓く、うつくしかった。――隼も美人だが、彼女を氷の彫刻に喩えると、《星の子》はあわい初雪だと、雉は思った。ふわふわとして儚い、少女のような雰囲気をまとっている。
マナが、牛酪の入ったお茶を淹れてきてくれた。野菜と肉を小麦粉の皮でつつんで蒸した料理(モモ、チベット風蒸し餃子)も。《星の子》は、うれし気に微笑んだ。
「ありがとう、マナ。ご苦労さま。ケイ、あなたも座って」
マナが椅子を引いてくれたので、雉は、恐縮して腰を下ろした。《星の子》は、お茶をひとくち飲むと、満足げに溜息をついた。
「意識の表層にのぼる思考なら、読むことが出来るのよ。名前くらいはね……。驚かせて、ごめんなさい。私のことは、ルツと呼んで頂戴」
「いや……ありがとう。でも、どうして――」
他の女たちが一礼して部屋を出ていくと、雉は、イエ=オリを見て口ごもった。ルツは、闇色の瞳で彼を見詰めた。
「怪我をしていたのよね。あの折れた鎖骨を接いだのは、あなた?」
「ああ」
「その時に、肺尖部を傷つけていたのでしょう。表面の傷をふさぎ、骨を接いでも、内部の傷は残っていた。移動と気圧の変化でそこが破れ、一気に肺が縮んでしまった」
「内部の傷……」
雉は、己の胸を刺されるような痛みを感じた。ルツは眼を伏せて続けた。
「正確な人体の構造も、創傷治癒や骨形成のメカニズムも知らないまま、能力で治癒を促進させたのだから……仕方ないわ」
彼女の言葉の半分ちかくは解らなかったが、雉は項垂れた。つまり、自分がへまをしたわけだ。仲間にも、イエ=オリにも、会わせる顔がない。
ルツは、そんな雉を、眼を眇めて眺めた。独りごちる。
「あなたには、彼らの知識はない、わけね……」
「え?」
雉が眼をしばたかせると、ルツは首を横に振った。唇には、曖昧な苦笑が浮かんでいる。もう一度お茶で唇を湿らせると、改めて彼を促した。
「傷が治るまで、イエ=オリはここで預かるわ。あなたは食べて、休みなさい。明日、もう一度、マナを麓へ向かわせます。……あなたの仲間に会えるのが、楽しみだわ」
(注*)ドレナージ: 胸腔ドレナージのこと。具体的な手技はルツが行っている通りですが、詳細には書きません。素人は真似をしないでください。




