第三章 双面の神(3)
4-3-(3)
シルカス・アラル・バガトルは、盟主の天幕へ向かった。急いでいたが、途中、氏族の者につかまった。勝利に浮かれる男達に負傷者の看護を命じ、捕虜の分配は後日であること、女達に不埒な行為をはたらく者は厳罰に処すこと、タイウルトの残党を警戒することなどを指示していると、遅くなってしまった。
彼が天幕にたどり着いた時には、既に氏族長会議は終わり、主だった氏族長たちが各々のユルテ(移動式住居)へ帰るところだった。奥へ進み、部屋を仕切る幕から顔を覗かせると、オルクト氏族長の背にぶつかった。
部屋の中には、カブル、トクシン、ジョルメの三長老と、オルクト氏族長とタオが居て、トグルを囲んでいた。
若き草原の王は、灰色の絨毯に長い脚を放り出し、左手をカブル長老に委ねている。面倒そうに、診察する相手の手元を眺めていた。
「まったく、無茶をなさる。こちらまで使えなくなったら、どうなさるおつもりですか?」
「……早く済ませてくれ。このままでは、本当に、手も足も出ない」
アラルに気づいて皓い歯を覗かせたのは、冗談のつもりだったのだろうが、誰も笑わなかった。
オルクト氏族長が、髭に埋もれた唇を開きかけて、すぐ閉じた。カブル長老がトグルの肘を叩くと、彼の指は痙攣し、爪が掌にくいこむ程、握り締められたからだ。
トグルの頬が、苦痛に引きつった。
全員が、凍ったように、彼を見詰めた。
時間をかけて手を開き、握る仕草をくり返す、トグル。指を一本一本屈伸させて感触をたしかめるさまを観ながら、ジョルメ若長老が、控えめに声をかけた。
「族長。少し、休まれた方がよいのでは」
「休んでいる」
いつもの無表情で、トグルは応えた。相手のやや茶がかった瞳を、じろりと一瞥する。
「心配してくれなくとも。お前達と同じだけは、休んでいる」
「いえ、そういう意味ではなく……。族長の作戦を、私達は承知しておりますので、御自ら陣頭に立たれなくとも。シルカス殿とオルクト殿にお任せして、本営で休んでおられても宜しいのではないですか?」
「そういうわけには、いかない」
「そうだ」
間髪を入れずにトグルは言い返し、オルクト氏族長が相槌を打った。大柄な氏族長は、腕を組み、柱にもたれて口髭を揺らした。
「盟主は陣頭に立つのが伝統だ。我らの同盟は、王を中心に組まれている。王がいなくては、軸をなくした車輪のように安定を失う。私にもアラルにも、代わることは出来ない」
ジョルメは、不安げにオルクト氏族長を顧みた。アラルも。
オルクト・トゥグス・バガトルは、彼等からトグルへ視線を戻し、淡々と続けた。
「ハル・クアラもロコンタも……王がトグル殿であるから、この作戦に参加したのだ。他では信用出来ない。これ程の氏族と軍勢を集め、その支持を受け、過たず用いられる君主など、滅多に居ない。近くて、トロゴルチン・バヤン(トグルの祖父)であろうか」
「……光栄だな」
呟いたトグルの声には、微かに皮肉が含まれていた。
部族を統一し、ハル・クアラ部族とキイ帝国に対して親征を企てた彼の祖父のことを、知らぬ者はいない。しかし、彼はリー・タイク将軍の姦計にはまり、タァハル部族に捕らえられた挙句、リー将軍に殺されたのだ。
部族はバラバラになり、その後始末に、トグルと彼の父メルゲンは、散々苦労させられた。以後、キイ帝国とタァハル部族に対する憎しみは、民の間にくすぶり続けている。
そのことを、オルクト・トゥグス・バガトルは、知っているはずだった。自分を祖父になぞらえる従兄の意図を、トグルは考えた。
「ならば、尚更です」
ジョルメは眉を曇らせ、同意を求めて、タオとトクシン長老を見遣った。
「万一のことがあったら、どうなさるのです。私達の族長を、氏族長会議の犠牲になさるおつもりか」
「ジョルメ」
タオもトクシンも、オルクト氏族長も黙っていたが、代わりにトグルが、やや厳しく言った。
「口を慎め。それ以上言うことは、クリルタイだけでなく、この俺への侮辱に当る。……俺が、そのことを、少しも考えないと思うのか?」
不満げな若長老の顔を見て、トグルは口調を和らげた。それで、ジョルメは息を呑み、慌てて頭を垂れた。その肩に、トグルは低く囁いた。
「心配するな。俺とて、命は惜しい。だが、お前がそれを口にすれば、我が氏族の真情を疑われるぞ。自重しろ。……俺はただ、俺が一兵士だとしたら、己は安全な場所に居て他人に人殺しを命ずる主の下では、戦いたくないと思っているだけだ。トゥグスもアラルも、同じ気持ちだ。心配は有難いが、言葉に気をつけろ」
「御意。失礼いたしました」
ジョルメは、素直にオルクト氏族長に謝罪した。その姿を見ながら、アラルは思った。『流石だ……』
盟主は、優しい。相手の立場を思い遣ることが出来る。常に冷静だが、必要な時には心情を表して、かつ威厳を損なわない賢明さを備えている。
『こうした賢明さは、バヤン大伯父にはなかったな』 眼を細め、トゥグス・バガトルも考えた。
そこが、部族を崩壊させたバヤンと、メルゲン、ディオ父子の違いだ……。
「トゥグス」
彼の思考は、単調なトグルの声に遮られた。鮮やかな新緑色の瞳が、従兄を映した。
「安達。先刻の、車輪の喩えだが……。それとトロゴルチン・バヤンを持ち出したということは、俺に、次の軸を指名せよという謎かけか? 俺が作戦半ばで死んだ時、クリルタイには、行く先を決める軸が無いと言うのか」
にやりと、オルクト氏族長は笑った。トグルの聡明さが心地良い。
「クリルタイだけでは、ないでしょう。何より、貴公の氏族が族長を失うことになる。ジョルメとトクシンが惧れているのは、そちらです。王は代わりを立てられるが、氏族長はそうはいかない。安達、私は貴公に、後継を作れと申し上げているのです」
ちらりとアラルの表情を確認して、オルクト氏族長は続けた。
「作戦は、私とアラルが代行出来ます。ハル・クアラも協力してくれるでしょう。だが、戦いが終ったら? ……我々が忠誠を誓ったのは、貴公、唯一人です。他は、みな対等だと思っている。このような横の連携が長続きしないことを、貴公はよく御存知のはずだ」
「…………」
「安達・ディオ――こう呼ぶことを、お許しを。トロゴルチン・バヤンは、メルゲンとお前を遺した。故に、我々は同盟を保てた。作戦を完了し、貴重な平和を得たのち……お前には、それを維持する責任があるのではないか?」
トグルは陰鬱に黙していた。族長から従兄の口調になったトゥグス・バガトルを眺め、頬杖を突く。
カブルの隣に坐していた最高長老が、口を開いた。
「私も同じことを申し上げようと思い、参上したのです。王、ご一考を。ご自身の病のことを、知って頂きたい……。このままでは、我等トグル氏だけでなく、部族を束ねる要の血筋が絶えてしまいます。聖祖以来九百年、盟主直系の血を伝えるのは、貴方お一人です。どうか」
「知っている」
投げ出していた脚を引き寄せ、胡座を組みながら、トグルはぶっきらぼうに応じた。些かうんざりしている口調だった。
「今更、どうしろと言うのだ。直系の子孫なら、タオも居るではないか」
話の矛先が自分に向いたので、タオは眼を丸くした。最高長老の代わりに、オルクト氏族長が言った。
「それは問題のすり替えと言うものだ、ディオ」
トグルは、目だけで彼を見遣った。オルクト・トゥグス・バガトルは、ふふと哂った。
「掌を返すと思っているのであろうが。そのことと、お前の結婚が遅れたことは、別の問題だ。あまり、長老達を苛めるな。逃げ回っていた、お前も悪い」
「…………」
「タオに押しつけたい気持ちは判らなくはないが。そんなことの為に、妹の『ゴア』の名を取り去ったわけではなかろう? 降嫁させたとして、トグル氏は残らない。やはりここは、お前が務めを果たすべきではないか」
トグルは瞼を伏せ、考え込んだ。眉間に苦悩を刻む兄の横顔を、タオは見詰めた。
トクシン長老が、再び口を開いた。彼もまた、伯父の口調になっていた。
「ディオ。お前、もう、三十になるのであろうが」
「二十六です」
思わず、トグルの声に力がこもった。
長老は、眼を瞬いた。
「そうであったか?」
オルクト氏族長が、苦笑して説明した。
「ディオは、私と七歳違いですよ、伯父上。まだ二十五――明けて、二十六です。メルゲン叔父が二十歳の時の子どもです。こう申し上げれば、お判りですか? エゲテイ(ディオの母)叔母は、十六でしたかな」
「そうか。そうであったな……思い出したぞ」
トグルは、かなり憮然としていた。そんな彼を後目に、伯父と甥は、会話を続けた。
「メルゲン・バガトルは、儂より十五歳下であったな(注*)。晩婚だと思っていたが……。そうか。今のディオの歳では、タオが産まれておったのだ。ますます遅いではないか」
「早ければ良いというものでもないでしょう。私がそうではないですか。妻が四人居て、生き残った娘は一人。シルカス・アラルにも、息子が一人居るばかり。今更、ディオを急かしても仕様がないです。かと言って、最初から諦めてかかるのは――」
「……わかった」
完全に辟易して、トグルは二人を遮った。疲れた視線をタオとジョルメに向け、頬杖を突いた。
「判りましたよ、伯父上、トゥグス。……努力してみます。しかし、相手は? いくら俺でも、一人で子は作れません」
タオは、穏やかに苦笑している兄の心情を思い量ったが、想像できなかった。
アラルも、眉を曇らせている。
トクシンはカブルと、オルクト氏族長はジョルメと、顔を見合わせた。
「私の娘を、と、申し上げたいが――」
ややあって、オルクト氏族長が切り出し、トグルの唇を歪ませた。彼自身も曖昧に苦笑して続けた。
「幼すぎる。それに、我々の血は近くなり過ぎた。あと三代は交わりを避けた方が良かろう。それまで互いの血脈が続いていればの話だが……。加えて、先日、ハル・クアラ殿から御曹司の嫁にと望まれた。歳も近いし、私としては今後の為に話を受けようと思っている」
「ハル・クアラに?」
トグルの明澄な双眸が、オルクト氏族長を映した。盟友は重々しく頷いた。
トグルは、感慨深げに呟いた。
「それは、目出度いな……」
「ハル・クアラ部族も存続に頭を悩ませている様子。我等トグリーニと〈森林の民〉の繋がりを強めるべく、オーラトとテイレイ族も近付こうとしております。――車輪の全体の強化は、お任せ下さい。あとは、中心となる盟主の問題です」
左手を口元に当て、片方の膝を立てて、トグルは考えていた。感銘を受けたらしい。
オルクト氏族長は、ジョルメと顔を見合わせ、それからトクシンを見た。最高長老の表情をたしかめ、厳かに告げた。
「王……相応しい人物が二人居ると、我々は考えています。一人は、タイウルト部族長の娘」
「タイウルト?」
トグルは従兄に鋭い眼光を当て――そして、すぐに眼を伏せた。
オルクト氏族長は頷いた。
「御意。先日捕らえたタイウルトの娘は、十六歳です。言うまでもなく、王は、捕虜の中から何人でも好みの女を召す権利をお持ちですが。勝手ながら、トクシン・サカルと相談して、お薦めすることにしました」
トグルは眼を閉じている。構わずに、彼は続けた。
「お薦めする理由は、二つあります。一つは、現クリルタイに参加しているどの氏族にも、血筋上、トグル氏に相応する格がないこと。クチュウト氏とオルタイト氏が亡き今、我等五氏族では、血が近すぎて危険です。テイレイ氏、ギリック氏は、協力して同盟の強化に寄与したいと申しています。王から思し召しがない限り、みな遠慮して、氏族の娘をとは言い出さないでしょう」
「…………」
「一方、現在、逃亡を続けているかの部族を思いますと――力をもって滅亡に追い遣るより、我らに吸収する方が、得策と考えられるからです」
「吸収する?」
眼を開け、トグルは、低く呟いた。無感動な瞳に、オルクトとシルカス、二人の氏族長の顔が入った。
「御意。既に勝敗は決したも同然で、これ以上の流血は無用と考えます。かの部族を隷民とし、または処刑するより、温情をもって同化を図る方が、後の禍根も少なかろうと。浅薄とお思いですか?」
「…………」
「タイウルトの娘も、承服した話です」
アラルが小声で付け加えたが、トグルの表情は変わらなかった。己の心の底を見据えている。
オルクト氏族長は、平板に告げた。
「王が不承知とあれば、彼の娘は、他の、その娘を望む者の許に行くことになります」
トグルは黙りつづけていた。眼差しに、否定も肯定もない。アラルとトゥグスは、顔を見合わせた。
トクシン長老が、おもむろに口を開いた。
「もう一人は、天人です、族長」
この一言は、仮面のようなトグルの貌を動かした。彼は、じっと最高長老を凝視めた。驚きとも怒りともつかない感情が面を過ぎる。
「ハヤブサ殿です。如何でしょう」
「……待て」
トクシンやトゥグスが彼をあるじとして扱えば、トグルの言葉も、それに応じたものとなる。掠れた声で囁く兄を見ていると、タオは――アラルも、胸を刺されるような痛みを感じた。
「何故、そこでハヤブサが出て来るのだ?」
「先から長老会は、あの方を得たいと考えておりました」
トグルは、射抜くようにトクシンを見据えた。長老は、怯まず続けた。
「王も、一時はそのおつもりではなかったのですか? 王が仰りたくなければ、我々から申し上げます。ワシ殿に、許可を請いましょう」
「…………」
「天人の能力が得られれば、戦わずして草原を平定できます。キジ殿も、争いを望んではおられない。――ハヤブサ殿を得られれば、我々の運命を変えられるかもしれません」
トグルは首を横に振った。一同が見守る中、彼は視線を落した。
「……奴等は、人間だ」
呟き、トグルは、改めて長老を見た。眼差しは穏やかだが、眉間の皺は消えなかった。
「どんな超常の力を持とうと、天神の化身などではない。巻き込むな……。草原のことは、〈草原の民〉の手で片付けるべきだ。それが、我等の誇りではなかったのか」
「…………」
「例え滅び去ることになろうと、我等の死は、我々自身が選び採ったものでなくてはならない。俺としては、もし、俺が後継を遺せずに世を去ろうと、民には血筋を超えて在り続けて欲しい」
「…………」
「天人のこと、二度と口にするな」
トクシンに横顔を向け、トグルは囁いた。瞳は、遥か遠くを見詰めていた。
「タイウルトの娘には、逢おう。だが、奴等には何も言うな。……退がれ。このことは、他言無用だ」
トクシンは深々と一礼し、カブルを促して天幕を出て行った。ジョルメが、困惑した表情で後に従う。
オルクト氏族長は腕を組み、不機嫌な様子でトグルを眺めていたが、やはり、アラルを促して出て行った。タイウルト族の娘を連れて来るのだ。
タオは、項垂れている兄に声を掛けようかと迷っていた。やがて、トグルの方から、ぽつりと訊いた。
「タオ。ハヤブサは、まだ、本営に居るのか?」
「はい」
「…………」
かの女を呼ぶ声の優しさに、タオは、それ以上かける言葉を失った。蒼ざめた横顔を観ていると、彼女はふいに泣きたくなった。自分の中で何かがふっつりと切れ、取り乱してしまいそうになるのを、耐えなければならなかった。
『兄上……』
人の気配に、トグルは面を上げた。入り口に、アラルとオルクトと、もう一人……小柄な人影を認め、頷く。息だけで囁いた。
「タオ。席を、外してくれ」
兄の背を見上げ、タオは、もう一度何かを言おうと試みたが、声が出なかった。
天幕を出ると、星明かりの下で待っていたシルカス・アラルの頬が、白くこわばっていたのが印象的だった。
「そう儂を睨むな、アラル」
オルクト・トゥグス・バガトルは、悠然と煙管に火を入れた。紫灰色の煙とともに、言葉を吐く。
「一応、儂は、伯父貴を止めたのだぞ。少し考えれば判る……。外の女は貴重だが、天人の能力をあてにする遣り方を、承服できるものではない。草原のことは、〈草原の民〉の手で――そう叩き込まれて育ったものを、二十六にもなって変えられるか。なあ」
しかし、アラルは凍るような眼差しを前方に向けているだけだった。タオも聴いていない。
オルクト氏族長は肩をすくめると、星の光が届かない天幕の影に鋭い視線を走らせてから、二人を促した。
(注*)「メルゲン・バガトルは、儂より十五歳下」: 最高長老トクシンは、トグルの父メルゲン・バガトルの兄です。〈草原の民〉は末子相続なので、族長も末子が継ぎました。オルクト・トゥグス・バガトルも同じで、「トゥグス」は末っ子という意味です。




