第一章 氏族長会議(5)
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冷気が、天幕を包んでいた。
深夜。タァハル部族に近しいタイウルト部族の許から帰った使者を迎え、トグリーニ部族の長老達と、氏族長会議の為に訪れた氏族長達が、天幕に集っていた。
三十人はいるだろうか。それぞれ独特の衣装に身を包んだ男達は、概して青年から壮年の男達が上座に坐り、長い顎髭を生やした高齢の男達が、下座に坐り分けていた。
眼光するどく逞しい男達こそ、氏族の命運を背負う族長達であり、勇者や賢者といった称号を受けている。顎髭は、長老と呼ばれる者達が生やしている。
遊牧民の社会を象徴するかのように、椅子に座った者達の中に、女性の姿はなかった。
唯一人、タオが、男達に茶を配り、明かりを絶やさないようにする為に、部屋の隅に立っていた。こんな重要な場面に立ち会ったことのない彼女はかなり緊張していたが、使者の報告を聴いている兄に気を配ることを、忘れてはいなかった。
上座に坐る氏族長達の中央に、トグル・ディオ・バガトルは居た。黄金の鷲獅子の旗を背にしている。長身を黒衣に包み、漆黒の辮髪を肩から背に流したその姿は、ともすると、闇に沈んで見えた。眼を閉じ、無表情の仮面に感情を隠している。狼のように精悍な横顔は、どの男よりも存在感があった。
その貌がまた、苦痛に歪むのだろうか……。
妹の心配を全く意に介していない兄が、タオにはもどかしかった。
氏族長達に判らないはずはないのだが、礼儀上、使者の言葉をハル・クアラ部族と〈森林の民〉の言葉に訳し終えた後で、ジョルメ若長老が立ち上がった。まだ二十代のこの男だけが、長老達のなかで顎髭を生やしていない。
「お聞きのとおり、タイウルト部族からの返事は、三度とも同じです。三度目には、使者を殺すと脅しました。もはや猶予なりません。奴等がタァハル部族に同調して挙兵する前に、手を打つ必要があると考えます」
「先日、我々の本営を襲った連中……あれは、タイウルトではなかったか?」
オルクト氏族長の問いに、ジョルメは重々しく頷いた。トグルは眼を閉じ、腕組みをして聴いている。
「あれは離れ者です。タイウルト部族が唆したのでしょう。夏祭りを終えて間もない本営に火を射掛けるなど、挑発としか思えません」
「問答無用ということか。どうなさる、安達(同盟を結んだ氏族長のこと)・トグルよ」
オロス氏族長の呼びかけに、トグルは瞼を持ち上げた。真夏の草原を想わせる鮮やかな碧眼が現れる。氏族長の呼びかけが質問ではなく確認であることを、承知している眼差しだった。
「安達よ」
ジョルメに代わり、老いた長老・カブルが口を開いた。氏族長達に丁寧に頭を下げながら、彼は、しわがれた声で言った。
「我が勇者、賢者らよ。長老会が打てる手は、尽くし終えたように思います。言葉より偉大な力をもって我等を導いて下さらんことを」
「……『言葉は、剣より偉大であるべきだ』」
長老達に敬意を表してオルクト・トゥグス・バガトル(オルクト氏族長)が言い、カブルは、再度、深々と礼をした。氏族長たちを補佐する長老会が、その臣下に下ったことを意味する問答だ。
沈黙が場を支配した。おもむろに、ハル・クアラ部族の長が言った。
「トグルート部族(トグリーニの東方での呼び名)が、タァハル部族と戦を始めるということは――」
壮年の族長は、白いものが混ざり始めた口髭を擦りながら、鋭い視線をトグルに当てた。
「キイ帝国の大公と皇帝が親征を開始する機会を、与えることになりますな。ルーズトリア(キイ帝国の首都)を取り戻すため、リー将軍とハン将軍に戦いを仕掛けるでしょう。その点は、考慮に入れて下さっているか?」
「無論、予想している」
トグルが、初めて口を利いた。アルタイ山脈の東に本営をもつ誇り高い部族の長に、相手の言葉で滑らかに応じた。
「貴殿には、トゥードゥ(キイ帝国の要塞都市)から目を離さずに居て欲しい。ハル・クアラよ。オン・デリク(大公)が長城の北へ野心を伸ばさぬよう、目を光らせていて頂きたい」
「…………」
「貴殿が北へ移動を開始する夏までには、こちらの片を付けると約束しよう。オン大公がカザ(キイ帝国の要塞都市)へ手を伸ばすことがあれば、直ちに兵を差し向けよう。リー女将軍に、夏までルーズトリアを抑える力がないとは、俺は思わぬが」
「我々が貴公を裏切り、後背より攻めたら、どうなさる?」
「そんなことを、するはずがない」
年上の部族長に、トグルは、わずかに唇を歪めて見せた。
「そうして、貴殿に何の得がある? タァハル部族と盟約を結び、我々を挟撃する可能性を仰っているのだろうが、賢明な策とは思えぬな……。我々がタァハル部を斃そうと、リー女将軍がオン・デリク(大公)を斃そうと、貴殿は痛くも痒くもない。だが、我々を失えば、貴殿はキイ帝国とタァハル部族に対する、守りの手を失う。――我々を斃せば、タァハル部族は、当然、この草原とキイ帝国を結ぶ交易路を求めるだろう。その際、奴等が貴殿らの利益を考えるという保証は、どこにもない」
「…………」
「逆に――我々が奴等に勝てば、貴殿は、より大きな盾と、ニーナイ国との交易路という富を得ることになる。リー女将軍が保ちこたえられた場合には、キイ帝国との交易路も確保されよう。実際に兵を動かすことなしにだ。どちらが得策であるかは、考えるまでもないと思うが」
ハル・クアラ部族長の表情は、トグルの答えに充分満足していることを示していた。油断のない眼差しは、若い盟主の無感動な横顔に注がれている。
「ニーナイ国を攻めるつもりはないと仰るのか?」
トグルの回答を聴いていた北方氏族の長が、手を挙げて訊ねた。トグルは、表情を変えずに顧みた。
「ない。そこまでしていては、次の夏までに片付かない。それに、ニーナイ国とミナスティア国は、それほど恐れるべき相手ではない。タァハル部族を斃せば、話し合いで解決できる。――長老会の領分に、手を出すつもりはない」
「…………」
「その代わり、タァハル部とタイウルト部族は、一兵も残すつもりはない」
トグルの宣言に、長老達が一斉に頭を下げた。氏族長達の間に、緊張が走る。
タオは固唾を飲んだ。トグルの眸に感情の動きは窺えなかったが、一同を見渡す眼差しは厳しく、揺るぎなかった。
〈森林の民〉の長の一人が、口を開いた。
「勝算はおありか? 夏までに、全て片をつけるという」
「その為に、お集まり頂いたのだ」
トグルの声は低く、単調だ。しかし、口元に浮かんだ嗤いが獲物を狙う狼のようだと思ったのは、彼の妹だけではなかったろう。
「ハル・クアラ殿に申し上げた話を、いま一度くり返そう。この作戦は、我ら民族の生き残りを懸けたものだ。座して滅びを待つわけにはゆかぬ。従って、目的は征服ではなく、我等が敵の抹殺だ。利益は、我らが勝利した後から来ることを、まずご了承頂きたい」
氏族長と長老達は、一様に、真剣な表情で頷いた。
トグルは、淡々と続けた。
「タァハル部族を斃すことによって得られるものもあろうが、それは、第一段階に過ぎない。我々にとってさらに貴重なものが、ニーナイ国にはある。お判りであろう。――それが得られなくとも、リタ(ニーナイ国の首都)からブルカン岳(アルタイ山脈の聖峰)を繋ぐこの草原の、一時的な平和は確保される。それが第二段階だ……。我らがその平和を維持できれば、草原を通る交易路の利益を分かち合える」
「了解した」
オルクト氏族長が、力強く頷いた。黒い口髭に埋もれた唇には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「目先の利益に捕らわれず、長く同盟を維持できれば、得られるものも大きくなるわけだな。具体的には、どれほどの勝算を持っておられる?」
「……タイウルト部族の兵力は、最大限見積もって十万」
半ば瞼を伏せ、トグルは、気だるく答えた。
「タァハル部に、五十万。これに対し、我らトグリーニ五氏族では、せいぜい十五から二十万の騎兵しか用意できない。しかし、二十六氏族すべての力を合わせ、更にハル・クアラ殿の助力を得られれば」
言葉を切り、トグルは、ゆっくり氏族長達の顔を見渡した。緑柱石の双眸に強い光が宿っているのを、タオは観ていた。
「優に百万の軍勢を確保できる。この兵力を、無駄なく用いることが出来れば――」
「……可能だな」
年配のロコンタ氏族の長が、静かに応じた。〈森林の民〉の長は、澄んだ黒い瞳でトグルを見詰めた。
「貴公の長大な作戦も、この草原の統一も、夢ではなかろう。……裏切り者が出なければ」
「力を束ね、有効に用いることの出来る、偉大な指導者が居れば」
オロス氏族長が呟き、思案気な面を長老達へ向けた。他の氏族長達も顔を見合わせている。
トグルの強風に耐える岩のような横顔から、その内心は窺えない。タオは、胸が締め付けられる心地がした。
場に居合わせた誰もが次の言葉を予想していたが、タオだけは、なおも運命が逆転することを祈っていた。
「安達・トグル」
氏族長達の意志を酌んで、オルクト氏族長が口火を切った。年下の盟主を見詰める瞳には、温かな理解と信頼があった。
トグルが、彼を見遣る。冷たく輝く緑柱石の瞳に、トゥグス・バガトル(オルクト族長)は囁いた。
「ディオ・バガトル。長老会の推挙に、氏族長会議は賛同する。――王として、我らを導いて下さらぬか」
「メルゲンの息子よ」
ハル・クアラ部族の長も口を開いた。〈森林の民〉の長達と顔を見合わせた後、豊かな髭を動かした。
「貴公の策に、我々は従おう。タイウルト部族を斃して仇を討ち、タァハル部族を屈服させ、汝ら《狼の末裔》に平和と繁栄をもたらさんことを。――貴公には、その才があるとみた。我らの期待を裏切らないで頂きたい」
『兄上!』 タオは、心の中で悲鳴をあげた。氏族長達の視線が、彼に集中する。
「条件がある」
トグルは冷ややかに一同を眺めた。
「俺の作戦は、貴殿等の協力がなくては成り立たぬ。王に立つからには、俺は、俺の持てる全てを民に捧げる覚悟があるが。貴殿等も協力して欲しい。……俺を信頼し、指示に従うと約束して欲しい。それが得られなければ、俺は、王位を引き受けるわけにはいかぬ」
「無論だ、安達よ」
オルクト氏族長が頷いた。仲間を代表して答える彼の頬には、ふてぶてしい笑みが宿っていた。
「トグル・ディオ・バガトル。貴公を推挙する充分な理由を、我々は持っている。己が選んだ君主に忠誠を誓わぬ臣下が、何処に居る? それに、貴公に氏族長会議を要請したのは、かの、シルカスの族長だ。居ながらにして千里を見渡すと言われた賢明なる者の遺言を、我々は信用する」
「……感謝する」
一瞬、トグルの眼が見開かれ、真夏の草原を映す眸に感情が過ぎった。眼を細め、彼はそっと囁いた。
「何よりの言葉だ」
オルクト・トゥグス・バガトルは無言で礼を返した。
トグルは無表情に戻り、一同を見渡した。
「作戦が完了し、ニーナイ国とキイ帝国と和約を結ぶまで――俺は、生きてはいないかもしれぬ。死なずとも、途中で職務を果たせなくなるやもしれぬ。その為に、予め、頼んでおきたい」
トグルが、部屋の隅に立っている自分の方を向いたので、タオはドキリとした。波打つ鼓動を抱いて呼吸を止める妹を見て、彼の目が、かすかに哂った。
『兄上?』
「俺が途中で死んでも、同盟は続行し、タァハル部を斃すまでは戦いを続けて欲しい。奴等を斃せなければ、平和は得られない。……その場合、王には、俺の子や血縁ではなく、氏族長会議のなかから能力のある者を選び立てて欲しいのだ。――タオ・イルティシ・ゴアより、イルティシ(第二位継承者)とゴア(未亡人)の称号を、取り去って頂きたい」
『兄上……!』叫ぼうとして、タオは声を出せず、両手で口を覆った。トグルは、彼女を見ていない。
「それは、我々が決めることではない」
長老と氏族長達の反応を確認してから、オルクト氏族長が悠然と答えた。
「最初の命令となさればよいのだ、王よ。既に、全ての権限は貴公にある。どうぞ、立って我等に命じて頂きたい。タァハルとタイウルトを斃せと。我等は、貴公の手足となる」
「ラーシャム」
頷いたトグルの面から、初めて緊張が融けた。彼は、掠れた声で囁いた。
「……しかし。俺が過ちを犯そうとする時には、その手は俺を止めるものであることを、忘れてくれるな」
「無論だ、王よ」
氏族長達は相好を崩し、互いを見て頷き合った。長老達も、安堵の色を隠せない。
氏族長達が各々立ち上がったのを合図に、会議は終わりに近付こうとしていた。
身を起すトグルに、オルクト氏族長は片手を差し伸べた。
「さて。戴冠を、我が君……。民に貴公の存在を知らしめて下され。古き狼の血が今も健在であることを、敵に思い知らせてくれよう」
トグルの精悍な頬に、当惑したような、照れたような苦嘲いが浮かんだ。
やがて、その笑みは氏族長達の間に伝染し、一つの確かな意志を形作った。共通の目的で結ばれた男達の――その中心に、トグルは立っていた。
もはや、何者にも、動かすことは出来ない。宿命に対して、人間の持つ力の限界を知りながら、全てを尽くして打ち砕こうとする、男達の意志だった。
それを、タオは、物悲しい気持ちで見守っていた。
「長老達に命ずる」
トグルは、毅然と声をあげた。長老達が面を伏せる。
「只今より、評議会の任を解き、各氏族への帰還を許可する。本来の職務へ戻り、氏族長の意志を全うすべく力を尽せ。……出兵の配分は、追って報せる。民の意志を統一し、役割を果たすことのみを考えろ。これより、全自由民の三権は、氏族長会議が掌握する」
長老達は無言のまま改めて一礼すると、天幕の入り口付近へ下がり、族長達のために道を開けた。
「安達よ」
トグルは、不敵な眼差しで一同を眺めた。
「不肖ながら、メルゲンの息子が王を務めさせて頂く。作戦遂行の為の協力を要請する。……問題は多くあろうが、少しでも良い解決策を得られるよう、知恵を貸して頂きたい。――力を。我ら《狼の末裔》の存続の為に」
氏族長達は頷いた。トグルは、彼等の表情を確認すると、外套を翻して歩き出した。前方を見据える姿には、作り物でない王者の威厳が現れていた。
「作戦の詳細を決めよう。場所を、我がユルテ(移動式住居)へ移す。一刻(約二時間)後に集まって頂きたい。――戴冠と作戦の始動は、三日後だ」
トグルに従い、氏族長達も動き出した。長老達が、頭を下げて見送る。
初秋の闇の中へ、男達は出て行った。続いて、長老達が。こちらはやや興奮気味に、自分達の今後の仕事について話し合っている。
タオは、黙って見送っていた。――しばし、茫然と立ち尽くす。
予想していたが、夢か芝居を観ている気分だった。出来れば、そうであって欲しかった。
兄が、これまで以上に遠く感じられる。言葉と仕草の一つ一つが、まるで、世界と彼を繋ぐ糸を敢えて断ち切ろうとしているかのようだ。作戦が終了するまで己は生きてはいないかもしれないと言った、彼の瞳の穏やかさが、彼女には不安だった。
『兄上。ハヤブサ殿を、どうなさるつもりだ……』
隼の憂いを帯びた皓いうなじを、タオは想った。深い湖色の瞳を……その水面に映る月光は、トグルの瞳の透徹さに通じた。彼女達には届かない、遥か遠くを見据えている。
タオは、首を横に振った。口の中に残る苦渋を呑み下す。この時、彼女は、自分が誰よりも無力であると感じていた。




