15.ルッカの話。
「リュータってね、実は病気がちで弱い子なんだ。私ね、そのたびに凄くあたふたしてたの」
「……そうか」
「私、竜の赤ちゃんのことなんて詳しく知らないからね、どうすればいいんだろうっていつも慌てて、お薬もたくさん買って、できる限り傍にいて、そしてずっと祈るの。神様、リュータをお願いって」
「……」
「リュータったら、弱い子なんだけど、丈夫なの。お医者様に見せたり、お薬をあげたら、きちんと治ってくれるの。本当に心配ばっかりかけるけど、この子は強いの」
「……」
ルーシェルは、自分の手を握る小さな手が、いつの間にかちょっとだけ逞しくなっていることに気がついた。
そして、このルーシェルの知らない二年間のことに思いを馳せた。
「リュータはね、実は食いしん坊さんで、可愛い顔して色んな物を食べちゃうの。ちょっぴり困ったさんなんだけど、でも、私はリュータが好き」
「……そっくりだ」
「何?」
「……いや、続けてくれ」
「……うん」
ルーシェルは、知らない思い出ごと、人を愛せることを知っている。エリのことだって、知らない思い出ごと彼女のことを愛している。
だから、ルッカが知らない二年間を歩んだとして、それを受け入れることだって、きっと可能である。
「リュータったら、私の生活を丸っきり変えちゃってね。てんやわんやさせちゃって、私、参っちゃった」
「……」
「あのね、リュータったら、見てると可愛いんだ。何をさせても必死なの。ちっちゃい目をきょろきょろさせて、何でもかんでも見つけちゃうし触っちゃうの」
「……」
「もう、何だか目を離せなくって、可愛くって笑えてくるの。そしたらリュータ、私のことを見て、きゅ? って首をかしげるの。私が何で笑ってるのか分からないみたいで、リュータったらそのままじーっと覗き込んできてね。……お父様?」
ああ。
本当にそっくりだ、とルーシェルは思った。
「私、リュータを拾って、本当に何もかも変わっちゃったみたい。――私、自分のことが何者なのか分からなくて、生きてるっていうより生かされているって気がしてて、ずっと生きてて辛かったの」
「……ルッカ」
「でも、リュータと過ごしているとね、そんなことが全部吹き飛んじゃって、もう大変だったの。もう破茶目茶で、ついていくので精一杯。私の中の悩みが全部、つまんなくなっちゃった」
ルーシェルは、たまらずそっとルッカを抱き締めた。
「……お父様?」と見上げる顔が、ルーシェルの胸の奥の感情を刺激して溢れさせて、仕方がなかった。
(ああ、エリ。この子は、ルッカは、間違いなく僕と君の子だよ)
ルーシェルはふと、昔は自分も抱っこが下手くそだったことを思い出していた。
エリに怒られるぐらいだったのだから、ルーシェルは相当不器用な父親だったに違いない。
今だって、手が震えるほどには下手である。
「ルッカ、お前は、強くなったな……」
「……泣かないでよ、お父様」
「実はな、昔にお母様も、そんなことを言ったことがあるんだ……」
「わ、私……その、泣かせたくないよ……」
見れば、ルッカのほうの瞳にも、涙が溜まっていた。
何でお前が泣くんだ、とルーシェルは言葉にしようとして、声にならなかった。
(エリ、聞いてくれ。ルッカはとても強くなっている。きっと、もう僕よりも強くなっている――)
しばらく、ルーシェルは上を見上げて、声がつまっている原因を溜め息で誤魔化した。
もっとはっきり喋れば、きっと声は震えないと思った。
「聞いてくれ、ルッカ。お前の名前はルクレーティアなんだ」
「……うん」
「僕とエリと、二人でゆっくり考えたんだ。意味はね、"光に満ちた"って意味なんだ」
「……うん」
「僕は、ルッカが産まれてきて、何もかもが変わってしまったんだ。叶わないと思っていたから、僕は、凄く嬉しくて……!」
「……パパ」
「ルッカ、僕は、僕は……!」
ルーシェルが泣いたのか、それともルッカが泣いたのか。
どっちが先に涙を溢したのかは、誰も分からなかった。
二人が抱き合っている姿を邪魔するものは、どこにもいない。
しばらく二人は、そのままずっと動かなかった。
◆ ◆ ◆
「……よう、金貨一〇〇〇枚のビッグビジネスくん。【王国七剣】相手に五体満足で何よりだ」
「おいおい、出会い頭にそいつはないぜ勝負師くん」
しばらくして。
アルとルヴィルは、二人の目の届かないところで出会っていた。
そこには、ラナと、ジョザたちも足を運んでいて、全員が何やら訳知った顔をしていた。
「……で、お前の言った儲け話ってのはこれかい? アタシには感動の再会にしか見えないんだけどよ」
「嘘じゃないぜ、価千金は間違いない。俺は賭けに勝ったんだ」
「どっからどうみても骨折り損のくたびれ儲けって奴じゃねえか」
「とんでもない。酒と一緒におつむまで飲んじまったか?」
軽口の応酬はルヴィルもアルも、まさしく冒険者といったところであった。
が、ルヴィルがしつこく催促するので、アルは種明かしをした。
「実は、鍛冶屋のキュクロが言ってたのさ。問題の本質から目をそらしてるってね。それを俺は代弁したまでだ」
「で、そいつがどうしたのさ」
「何、王様に喧嘩を売るには、こいつは最高の物件でね。いつの間にか喧嘩売りが恩売りになってるって算段さ」
「危険なんか犯して、恩を売って割になんて合うのかい」
「恩は金で清算できないからな。金ならいくらだって稼げるが、王家への恩は金では買えない。コネが欲しいときには最高の相手なのさ」
そんなアルの説明を横から聞きながら、ジョザはいかにも面白くない、という顔をしていた。
ルヴィルはよく分からない、という表情だったが、それで正解であろう。
ジョザから言わせてみれば、このアルの描いた絵とは、恩売りが成功する前提でしか語られていない。
「何だ? ジョザは不服か?」
「俺は、坊主がそんなに行き当たりばったりな博打をしやがるとは思わなかったが」
「は、流石はジョザだな。娘を探すという王様の手伝いをすれば、どう転がっても、無条件で恩が売れることを知ってる――賢い人間らしい、無難な選択だ」
「ルヴィルから聞いたが、お前は気まぐれ人間なんだろう? こいつは大きな気まぐれだな、アルヴィス」
「賢い気まぐれって言ってくれ。金貨一〇〇〇枚分のビジネスさ」
アルはそう言ってのけると、隣のラナと「なー」「ねー」といちゃつき始めた。
暇さえあればいちゃついているらしい。
これには流石に、ルヴィルもジョザも呆れてしまった。
「重要な点は三つ」
アルの声は明朗であった。
「一つ、この勝負には負けがないことが確定していた。ルーシェルがルッカを説得するか、ルッカがルーシェルを説得するか、あるいはお互いに納得しないか――そのいずれでも俺の立場は美味しい」
「何がだ? 結局ルーシェルが折れなかった場合、お前はただの厄介な奴ってことで恨みを買うだけだぞ」
「ルーシェル派にはな。だが、【王国】の貴族はルーシェル派だけとは限らない」
「!? お前、あの親子を売るのか!?」
「まさか、売りはしないさ。――が、ルーシェルの王位を失脚させる絵を描くことぐらい、自由だろ?」
へらっとそんなことを言ってのけたアルは「そうすれば親子水入らず、王家なんて面倒なやつらに茶々を入れられなくて済むし、意外と親子円満に終わる」と減らず口も極まっていた。
「ま、それは最終手段。つまり、親子が何度も話し合って、それでも跡を継ぐか継がないかで喧嘩が収まらないときの方法だ」
「お前な……」
「だってそのときは、王家もアークライト家も何もかもから引き離してあげないと、親子はすれ違ったままだろ? むしろ俺の提案は、親子のための提案なんだよ」
随分とスケールの大きな絵ではある。
お陰でアルの発言は今一つ現実味が伴っていない屁理屈に聞こえる。
が、貴族社会では往々として、この手の屁理屈が正当化されて、政治を引き起こすことがある――と知っているジョザは、やや薄気味悪い気持ちをぬぐい去りきれずにいた。
目の前の男なら、やってのけるだろうか。
その確証は、ジョザにもない。
「二つ、俺は負けない。悪いけど『勇者』とは職業柄、何ども戦ったことがあってね。互角程度には戦える自信があったのさ」
――空気が固まった。
勇者と戦う――事もなげに口にされた台詞だが、冷静に考えてみればおかしい言葉だ。
勇者をドラゴンと置き換えてみれば分かりやすいかもしれない。ドラゴンとは職業柄何度も戦ったことがある、ドラゴンと互角程度には戦える――常識はずれもいいところである。
「それに俺、卑怯な手だったら千も万も思い付くんだ。実力で勇者と渡り合えるって言うのに、卑怯な手をたくさん使っていいなら、それこそ赤子の手を捻るってやつだ」
「……不遜な野郎だ」
「それに、正直危なかったらラナに出てもらう予定だった。一対二、しかも片方は千年妖精。どんな敵が来ようが余裕ってやつだ」
――またもや、空気が固まった。
千年妖精、という言葉にこの場の有識者たちがぎょっとしたことは言うまでもない。
それこそ千年妖精は、あまり知名度こそないものの、ドラゴンよりも恐ろしいとされている。
「だから、今回のビジネスはどう転んでも美味しいし、全く命の危険はなかったのさ。首を突っ込むだけ得って奴だ」
「……話がでかすぎて付いていけん。馬鹿馬鹿しい」
「何を言ってるんだ、ジョザ。お前は知ってるんだろ? 俺はプランによってはお前も抱き込む予定だったんだよ」
「何がだ? どうやって?」
「スネイク一味。隠れ家。情報。……これで分かるだろ?」
「――――――――」
ジョザは絶句してしまった。
アルの言わんとしていることをなんとなく理解してしまったからだ。
かつてアルが引っ捕らえた迷賊たち――スネイク一味の六名は、その内一名が脱走して隠れ家にいるらしい。
が、抜け目のないアルは、マーカーデバイスを彼らに埋め込んで、万が一脱走されても位置を探査できるようにしてから、ギルドに身柄を渡したのだ。
そうでなければ六名もの迷賊をわざわざ苦労して地上まで連れてこない。
脱走してほしかったのだ。
脱走してもらって、スネイク一味の隠れ家の情報を手に入れたかったから、わざわざ生け捕りにして、ギルドに身柄を預けたのだ。
即ち、そのスネイク一味の隠れ家の位置情報を、アルは握っていることとなる。
「分かるだろ? 情報屋のジョザくん? 迷賊を脅して動かすのもあり。或いは、この情報を流したのは情報屋ジョザだって噂を流すのもあり。それが嫌なら……ってお前を脅すのもありだ。――やりようなんてたくさんあるものなんだぜ?」
「……俺が情報屋? 俺は勝負師だ、坊主」
「お前は情報屋だろ? ルヴィルが言ってたぜ。悪いがあの空き家での会話は盗聴済みなのさ」
「……ルヴィル、このツケは高くつくぞ」
ちっ、とジョザの鋭い舌打ちが響いたが、アルは意地の汚い笑みを崩すことはなかった。
ルヴィルもまた、あの時の一言を耳敏く拾っているとは思わず、苦笑いを浮かべる他ない。
見た目は一五歳そこいらの子供なのに、アルという男は、どうにも食えない奴らしい。言ってることはふざけていることばかりなのに、先程からジョザたちは手玉にとられてばかりであった。
「お前、早死にするぞ」
「こちとら百年生きてるんでね。ちょっとしたやんちゃには慣れてるのさ」
野性味を帯びた貪欲な笑みを浮かべるアル。
その傍で、ラナが「素敵……」と惚れるような声で寄りかかっていた。
一体何が素敵だというのか。
底知れない奇妙な威圧感を身に纏う少年と、それにうっとり惚れている妖精、という一種奇妙な光景を見て、ここにいる皆は言葉を失っていた。
ジョザだけが、冷静に――面白くなさそうに、言葉を続けていた。
「……三つ目は何だ?」
「ん、それか? 大したことはない」
「勿体ぶるんじゃない。お前はろくでもない奴だ。どうせろくでもないことだろう」
「正解。三つ、俺は無条件で名声を得る。【王国七剣】を負かした男ってね。ここから先のビジネスをかんがえたら、最高の名刺じゃないか」
アルの身の程知らずな言葉に、いよいよここにいる全員は、これがアルヴィス・アスタなのか――と何となくその片鱗を感じ取ることとなった。
王と戦って勝つことを前提に考えている。
しかも、それを肩書き代わりにすら使おうとする始末。
随分と都合のいい発想で物を考える、そんな大胆な男――それが、目の前の数理魔術師アルヴィスであった。
「……ま、金貨一〇〇〇枚云々はおいといて、本当の理由は気まぐれなんだけどな」
ちらり、とアルはどこかに視線をやって、そんなことをぽつりと呟く。
隣のラナに聞こえるかどうか、という小さな声であったが、耳と勘のいいラナにはその呟きの内容が分かってしまったようで、彼女は「知ってるよ、気まぐれさん」と笑っている。
アルの視線の先には、抱き合う親子がいて、そしてそのまま、どこかへと歩いていた。
アルはそのまま、その姿をそっと見守ることにした。