表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛の形

作者: 悠夕

生存報告。生きてます。

 皆さんは1984年に、台湾の炭鉱で起きたとある事故をご存知だろうか。

 94人の作業員が生き埋めになってしまい、暗闇の中で93時間も過ごすことになってしまった、というものである。

 ただ、全員が同じ場所に生き埋めになってしまったわけではなく、全員が全員死亡したわけではない。

 炭鉱に生き埋めになること93時間。水無し酸素なし食料なし光なしの状態で、周宗魯(しゅうそうろ)さんは生き延び無事生還した。

 この人は生に関する執着心がすごかったんだろう。全く光のささない炭鉱の中────そんな中でわずかに空気の(かよ)う場所を見つけ一酸化炭素中毒を免れ、かぶっていたヘルメットに尿を貯めて唇を潤し、岩から滴る水で乾きを癒していたそうな。

 そして問題は食べ物だ。無論食べ物なんてものは炭鉱の中にあるはずがない。

 ……が、それはただ〝一種類〟を除けばの話だ。

 周宗魯さんはひとりだけで生き埋めになっていた、なんてことはなく。一緒に4人の同僚と一緒に生き埋めになっていた。

 ここまで来れば察しの良い方はお気づきだろう。

 確かに生きる上でソレ(、、)を行うため、殺害に至ってしまうのは仕方がないことだ。現在日本にもそういう法律は設けられている。

 だがしかし、この話はここで終わらない。

 2014年、とあるテレビ局が生き延びた周宗魯さん────当時(よわい)86────に、事故から丁度30年だからと取材が入ったらしい。

 事故後彼は60歳あたりで神学校に入り、2016年現在も牧師として活動しているそうな。

「命ある限り、当時犠牲となった93人の命を代表して続けていきたい」

 と国内の布教活動について語っている。そして、

「ですがもう一度、事故当時に戻っても同僚の肉を食べると思います。生きるためですから」

 とも語っていたらしい。

 ここだけ見れば根は優しい、強い男性に見える。だがここで問題になるのが、事件直後のインタビューでの発言。


「息の切り終わった人間の肉は美味しくない。やはり生きている人間の肉は美味かった」


 ────と。


 ◇◆◇


 人ごみごった返すキャンパスを、流れを逆らうように駆けてく1組のカップル。

 早歩きより少し早いくらいのペースで進む彼氏を、彼女が2歩ほど遅れて追いかける形だ。彼女の息は既に上がり、疲労感が表情から見て取れた。

「待って、待って大智(たいち)……ちょっと、速い……」

 上がった息に邪魔されながらも抗議の声を上げる彼女に、彼氏────和乃(かずの) 大智は足を止めた。

 大智は汗ひとつかかず、苦笑を浮かべている。

「なんだよ、もうバテたのか。莉愛(りあ)は相変わらず体力がないのな」

 莉愛と呼ばれた彼女は大智のもとまで駆け寄ると、膝に手をついて不満そうに頰を膨らます。眉毛あたりで切りそろえられた前髪が汗で額に貼り付き、不満ついでに疲労感も大智に申し立てていた。

「急ぐ理由、ないと思うんだけど」

「急ぐ理由?そんなの簡単だよ。時間は有限、無限じゃないからな」

 腰に手を当て何故か得意げに言う大智に、げんなりする莉愛。この人はいつもこう、と内心溜息を吐きつつも、仕方ないと苦笑してしまうのは惚れた弱みだろうか。

「いつも言ってるよね、それ。時間は有限って……口癖みたいに」

「……む」

 言われて、思わず顎に触れて記憶を遡る。ジョリジョリと剃り残しの短いヒゲに触れて唸っていると、莉愛がクスクスと笑い始めた。恥ずかしげに大智の頰が淡く、赤く染まる。

「なに、もしかして無自覚?」

「そんなことはー……ない、と、思うけど」

 途切れ途切れに返しながらも回る大智の思考。

 確かにさっきのアレは大智自身も座右の銘として生きている自覚はあるが、それほどまでに口にしていただろうか。

 しかも誰かの格言として使ってるわけじゃなく、自己流の考え方というか。悪い言い方をしてしまえば、自作のポエムを頻繁に口にしていたことになるわけで。


「ああもう、いい。うるさい。ほら、行くぞ」


 咳払いを誤魔化すようにひとつ挟んで、未だ声を上げて笑う莉愛の腕を掴んで駆け出す。

 込み上げる恥ずかしさと共に、「今後は使うの控えよう……」と固く心に決める大智であった。


 ◇◆◇


「おまえら今日も仲良いのな、ホント。死ね。あわよくば爆裂四散して犬の餌にでも成り下がってくれ。おまえらの行く末は犬のフンだ、犬のフン」

 目的地であるサークル室の戸を開けて、一番に投げつけられた罵声に大智は思わず眉を(ひそ)めた。

 隣の莉愛は大して気にしていないようで、苦笑を浮かべて罵声を軽く受け流した後、定位置である窓際のパイプ椅子に腰を下ろす。


 ……これは遠回しに『相手は任せたから』と言われてるんだろうか。


 顰めた眉をそのままに大きなため息。口から出かけた『めんどくせぇ』を咀嚼して飲み下し、後ろ手に戸を閉める。

「お疲れ様です藍田(あいだ)先輩。相変わらずひどいご挨拶で」

 いつもの事だけど、と小声で付け足すと藍田 (まこと)はタイヤのついた椅子の背もたれに体重を預け、床を蹴って滑っていく。

「うるせー。幸せな野郎を妬んで何が悪い。独り身の特権じゃねえか馬鹿野郎」

 切りそろえられた短髪が特徴の頭を壁にゴッとぶつけ、大きくため息を吐く藍田。

 それを見て大智はため息まじりに、これ以上まともに取り合っても無駄だと諦め、戸の前から離れて棚の前へ歩み寄る。

 大智の視線にあるのはただひとつ、この世にたったひとつの愛機である一眼レフだ。

 一見、店に立ち並ぶモノと同じ────というか全く同じなのだが、なにより思い入れが違う。ヤマダ電機で売り物と並んでいても、一発で見分けられる自信が大智にはある。それくらいに愛している、と誰にだって胸を張って言える程だ。

 先ほどアレだけ時間は有限と急いでいたのはこいつの為だし、憂鬱な学校に来たのもコイツに触れるためだけと言っても過言ではない。

 ……まあそれを逆手に取られ、莉愛には「学校に来る理由ができるならいいよね?じゃあそれ、サークル室に置きっぱなしで」と命じられてるのはまた別の話。

「ああ、会いたかった……」

「大智、それ素直に気持ち悪い」

 藍田ならまだしも彼女である莉愛に引かれ、心に若干の傷を負い空いた手で胸を庇う。これもヤキモチだと思えば可愛いものだが、今回はどうやら本気の様子。

 本気ならどうしようもないだろう、と会話を逸らすべく、大智は藍田に会話のベクトルを変更。

「つーか先輩、そんなこと言うなら先輩も相手を作ればいいじゃないですか」

「あー……彼女なあ。オレにゃ相手がいねぇよ」

「居るじゃないですか。超身近に」

(もり)は専門外」

 はて、と呟いた大智に藍田は心底嫌そうな表情を顔に貼り付けた。

 このサークルは大智の手元にあるカメラからわかる通り写真サークルだ。藍田、大智、莉愛を含め4人のメンバーで形成されている。先ほど藍田の口から出た森という名前はもうひとりのサークルメンバーであり、大智と莉愛の1個上の先輩にあたる。

 このサークルは大智達が入ってくる前はたった2人のサークルだった。2人はその頃の付き合いらしいし、ピッタリだと大智は思ったのだが割と本気で嫌な様子。

 余談だがこのサークルが形成されたのは藍田のひとことからで、このサークル室を確保したのも藍田の交渉あってこそらしいのだが、


 ────この人、サークルの中で一番やる気ねえんだよな。


「おまえ今失礼なこと考えたろ」

「いや、そんなことないッス」

 見事に心中を見抜かれた大智は空いている左手を全力で左右に振って否定。疑いの視線を未だ向ける藍田から逃げるように、大智が再び切り出した。

「まあ森先輩が苦手って気持ちはわかりますけどね」

「だろ?1年間一緒に活動してる俺だって、節々から漂う金持ちオーラにまだ慣れきってないからな……」

 言いながら、共に苦笑を浮かべる男性陣。

 だがその2人の様子に、話をちゃっかり聞いていたらしい莉愛は愛用のデジカメを片手に首をかしげた。

「何でですか?森先輩、超良い人なのに。綺麗だし」

「まあ綺麗なのは認めるんだけど……」

 なんだかなあ、と口ごもる大智。

 確かになまじ美人ではある。あるのだが、なんというか────


「わたしがなぁに、大智くん?」

「うわぁ!?」


 回り続ける大智の思考を遮る、聞き慣れた声。

 咄嗟にかけられた声に間抜けな声を上げ、思わず愛機を宙に放って壁際に後退。

 そして焦ったように飛んだ愛機をキャッチして、引きつった笑みを浮かべながらも森と向き合う。

「いや、なんというか、別に」

「あははは、相変わらず和乃くんは面白い反応するね」

「相変わらず先輩は気配を消すのが上手いですね……」

 楽しそうに笑う森と対照に、おっかなびっくり苦笑を浮かべる大智。

 さっき藍田の口にしていた『金持ちオーラ』もそうだが、この謎の隠密スキルも大智が森を苦手とする理由のひとつだ。

 毎度のように気配を消し、音すら立てずに戸を開いて背後に回り込んで声をかけてくる森。正直心臓に悪いしやめてほしいと頼んでいるのだが、森は「だって面白いし」の一点張り。

 その隠密スキルに並び、見るからに高そうな腕時計と、一度たりとも同じものを履いてきたことがない靴────漫画のようなお嬢様口調では話さないものの、以上から滲み出る金持ちオーラも健在。今日も今日とて森 (あかね)は絶好調だ。

 ちなみに大智の愛機は全額森のポケットマネーにより支払われた物であり、大智は余計に頭が上がらない。

「俺彼女に貸し作る前にこの人に作ってるってホント……」

「別に返さなくていいのに。莉愛ちゃんにもデジカメ買ってあげたし。入部?祝いとかそんなのだよ」

 大智の思考を読んでか、楽しそうな笑顔を浮かべる森。

 バツが悪そうに頭を掻き毟る大智をよそに、振り返った森はサークル室の中央に位置する長机に両手を置き、


「さて、和乃くんの面白い反応も見れたことだし。今日も活動始めますか」


 活動開始のひとこと。今日も今日とて、平和に活動が開始した。


 ◇◆◇


 活動が始まった頃には高かった陽も、終了時刻まで来れば既に沈みかけていた。

 莉愛と大智しか居ないサークル室は緋色に染まり、窓際に腰掛けた2人の影が長く、緋いキャンパスに黒色の絵の具をさしていく。

「綺麗だねえ」

 何気なく呟いたのは莉愛だった。山に沈んでいく夕焼けを眺めつつ、ポロっと出てしまったような感想。

 カメラのレンズ越しに夕焼けを見ながら、大智は静かに頷いた。

「そうだなあ……何度見ても、何度撮っても飽きない」

 大智の言葉に遅れて、サークル室に響くシャッター音。それを聞いて、莉愛がからかうように笑った。

「また夕焼け撮ってる。それで何枚目?」

「んー……わからん。たぶん、両手じゃ数え切れないくらいには撮ってるかな」

 大智と莉愛がこのサークルに入ってから、早い事もう半年になる。

 巡り、移り変わる景色の中、毎日飽きることなく大智は夕焼けの写真を撮ってきた。

 綺麗な瞬間をどんな形であれ残しておきたい。大智はこの綺麗な光景が、この日ばかりのものだと考えるのだ。

 僅かな部分でも日を追うごとに変わっていく。ならこの瞬間を撮っておかなければ1人の写真撮りとして損である、と。

 ……だが大智の胸に渦巻く理由はそれだけではなく。


「そっか。でも私、大智の撮る夕焼け好きだから」


 心中を覗かれたような突然の言葉に、大智は息を詰まらせ思わず視線を夕焼けから莉愛に移す。

 莉愛はしてやったり、と言いたげな笑みで大智の目をまっすぐと見つめていた。

 大智が写真を撮る、もうひとつの理由。それは惚れ込んだ相手が褒めてくれるからだった。

 だいいち、この写真サークルに入ったのだって莉愛の誘いがあってこそだった。

 ふと自分の待ち受けを覗いた一目惚れをした女に、「あなたの撮る写真、綺麗じゃん?私と一緒にさ、よかったら写真サークル入って欲しいんだけど」だなんて頼まれてしまえば断りようがない。

 趣味半分、好きな褒めて欲しいという欲半分。そんな、真面目に写真を撮ってる相手に聞かれれば怒られてしまうような理由で大智はシャッターをきっている。

「……好きって褒めたって、何も出ないぞ」

「えー、そっかぁ。気を良くしてジュースでも奢ってくれるかなーって思ったんだけど」

「ああ、何か出ると思って褒めてたのね……」

 恒例のやりとりだと思って返した大智は思わず苦笑を浮かべる。まぁそういうおちゃらけたところも莉愛の美点だ、なんて思ってしまう辺り惚れた弱みというか、末期というか。

 莉愛は「さて」なんて呟くと、パイプ椅子から立ち上がる。椅子をたたんで壁際に立て掛けると、手を挙げて緩く振った。

「じゃあ大智、私はこのあと人と会う用事があるから。先に帰るね」

「ん、おぉ。わかった。鍵は俺がかけとくよ」

「はーい、お願いね」

 また明日、といつもの挨拶を交わしながら、サークル室から出て行く背中を見守る。

「ひとりで帰宅は寂しいけど……まぁ」

 呟いて、愛機を棚に戻してカバンを背負いサークル室を出て、後ろ手に戸を閉める大智。恥ずかしげに笑いながら鍵を挿し、ため息をひとつ。

「また明日も会えるし。別にずっと一緒にいたいわけでもなし」

 ずっと一緒にいたい、というのはあながち間違いではないが。相手の用事まで無視して一緒に居させるのもどうかと大智は思う。

 互いの意思を尊重しつつ、ゆっくりと。これが一番長続きする、と未だに寄り添う両親は言っていた。

 また明日も、いつも通り。ゆっくりと歩こう。

 そんないつも通りの明日に想いを馳せて、大智はサークル室を出た。











 ────もっとも、そんないつも通りの明日は来なかったのだが。


 ◇◆◇


「────は、莉愛が?」

 六畳一間のあまり飾り気のない部屋に、大智の震えた声が響く。

 大学に入ってなんとか借りた家。この家に住むのは大智のみで、大智の震えた声に応えるものは居ない。

 大智の耳元には赤いカバーのスマートフォン。声と同じく手も震え、目は見開かれて虚空を見つめている。

 休日ということで惰眠を貪っていた大智は、ある一本の電話で意識を引き戻された。

 半ば寝ぼけつつ出た電話の相手は莉愛の母親。電話で告げられた内容は、


「莉愛が、死んだ……?」


 思考を覆っていた眠気が一瞬で吹き飛んだ。

 りあがしんだ?脳内その六文字が反響し、ゆっくりと、ゆっくりと脳が現実を受け入れていく。

「し、死因は?なんで莉愛は」

 ようやく現実を受け入れた大智は声を裏返しながら問いかける。だが電話の向こうの母親は、大智を遠ざけるような冷たい声音で言った。

『……それは貴方には言えないの。貴方に莉愛の亡骸も見せるわけにはいかない』

「はぁ!?なん、なんで……何でですか!俺だって他人じゃ────」

『お願いだから。私の言うことを聞いて』

 優しかった莉愛の母。

 もう貴方は家族のようなものよ、と初めて会った時に言ってくれたことをよく覚えている。

 そんな暖かかった母親の、拒むような声音。

 大智は何も言い返せず、無言で電話を切るしかなかった。




 しばらく何も考えられず、大智は布団の上で天井を見つめていた。


 ────莉愛が、死んだ。


 その事実が大智の心を蝕み、穴を開けていく。

 心の穴から色々なものが流れ出ていくような感覚。大智という人間の大部分を占めていた莉愛の存在が、急に抜け落ちて……今の自分には何もないような気までしてくる。


 優しい笑顔を思い出す度涙が溢れる。

 暖かい言葉を思い出す度涙が溢れる。


 もう莉愛はその口で名前を呼んでくれることもないし、笑いかけてくれることもない。

 手を繋いだ時の柔らかさ。伝わってくる暖かさ。写真を褒めてくれた時の笑顔。

 いつまでも忘れたくないと願ったそれ達が、今は忘れたくてたまらない。

 思い出が心を傷つけ、傷つけ、傷つけて。もう痛みに耐えきれない。


 声も出さずに泣いている大智を、インターホンの音が現実に引き戻す。

「……なんだよ」

 扉の向こうにいる誰かに悪態を吐きつけて、どうにかやり過ごそうと布団を被った。

 どうせセールスなんかだろう。いないと解れば引き上げてくれる。

 と思った大智だが、もう一度鳴り響いたインターホンと、

「和乃さん、いらっしゃらないんですか?」

 自分の名前を呼ぶ声に思わず首をかしげた。

 聞いたところセールスマンでは無さそうだ。自分の名前を知っているなら、かえって出ないほうがめんどくさいことになるだろう、と頰の涙の跡を拭いて玄関に向かい、静かに扉を押し開いた。

「…………はい」

 扉の向こうにいたのはスーツを身にまとった男の2人組。

 片方は長身の男で眼鏡。あまり特徴のない男だが、賢そうなイメージを受ける。

 片方は対照的に、背の小さい男。やや童顔で、初対面で高校生と言われても信じてしまいそうだ。

 その2人が大智の真っ赤な目と、頰の僅かに残る涙の跡を見て思わず視線を俯かせた。

「……お取り込み中申し訳ありません。私達はこういう者でして」

 言って、2人が取り出したのは警察手帳だ。

 手帳にはそれぞれ2人の顔と名前が刻まれている。長身の方は『日比(ひび) 雛翔(ひなと)』童顔の方は『佐々木(ささき) 佑輔(ゆうすけ)』というらしい。

「……警察の人が何の用ですか」

中野(なかの) 莉愛(りあ)さんについて聞きたいのですが」

 早く帰って欲しい一心だった大智だが、莉愛の名前が刑事から出てきたことで目の色が変わる。

「莉愛のことについて……?別に何も話すことはないと思うんですけど」

「……見た所中村さんの死については知っているみたいですね。中村さんが殺害されたかもしれない、というのは聞いていませんか?」

「…………は?」

 莉愛は、誰かに殺された?

 頭の中で事故死と処理されていた大智は思わず聞き返し目を見開く。

「莉愛は、殺されたんですか。事故死じゃなくて」

「ええ。昨夜未明、『萩の公園』の草むらで遺体が発見されまして。遺体の様子が、明らかに事故のソレではなく……昨日の夜、和乃さんは何処にいましたか?」

 莉愛のことを最後まで聞けると思っていた大智は、内心舌打ちをひとつ。


 ……ここでこの質問ということは、俺も犯人のリストに載ってるということか。


 その事実に思わず奥歯を噛みしめる。

 愛していた……いや、今も愛している人を殺したと疑われている。それだけで怒りが湧きあがり、冷めていた頭を急激に加熱していく。

「俺が莉愛を殺すわけないじゃないですか。俺は莉愛の彼氏なんですよ」

「一応、なので。中野さんの友人には聞き回っていますから。既にサークル仲間の藍田さんにもお話を聞いてきた後ですので、どうか……」

 怒りを露わにする大智に焦る低身長の刑事。

「一応、っつったって疑われてるんじゃないですか。気に入らない……俺は昨日家にいましたよ。母とも電話したあとすぐに寝たんで、疑うなら母に電話してください」

「……そうですか……にしても、奇妙な話ですよね」

 本当にすぐに寝たのか、やら根掘り葉掘り聞かれるかと思ったが、大智の憤った態度に耐えかねたのか話題をすり替えた長身の刑事。

 大智は軽く舌打ち混じりにため息を吐くと、目だけで続きを促す。

「殺人鬼ならぬ食人鬼ですから。こんなの現在日本でそうそうないですよ」

「……食人鬼?」

 問い返す大智に応えたのは低身長の方。

「遺体の方が奇妙なことになってまして。凶器はおそらく刃物で、心臓をひと突き────ここまでは別に普通なのですが、あちこちの肉が包丁で削がれてまして。右足なんてほとんど肉は残ってなくて、あちこちに噛みちぎったような歯型が……」

「おい佐々木、喋りすぎだ」

「あ……すみません、先輩」

 ペラペラと話し出した低身長刑事を、頭を軽く叩いて制止する。

 そんな光景を横目に、大智の胸には怒り反面、なんとも言えない気持ちが渦巻いていた。


『貴方に亡骸も見せられない────』


 冷たく遠ざけた莉愛の母。アレは優しさだったのだ。

 おそらくそんな遺体を見せられればショックで立ち直れない。正直この先、生きていける自信だってない。

 そんな遺体を見て莉愛の母は、俺に気を遣って────

「……すみません、和乃さん。また日を改めます」

「なんで急に、そんな……」

 急に気を遣われて戸惑う大智から、警官2人は目を逸らす。一瞬首を傾げた大智だったがすぐその意味を理解した。

 ゆっくりと扉を閉めて、頰を流れるソレを拭き取る。

「また、俺、泣いて…………」

 湧き上がる感情は行き場をなくし、涙となって流れる。

 思わずその場に座り込んで、再び声を押し殺しながら泣く大智。手は額に押しつけられ髪はぐしゃぐしゃに掻き乱れる。

「情けねえ……クソ、クソ、クソ……」

 だが悲しみが過ぎ去って、代わりに湧き上がるのは怒り。

 黒い感情が次々と湧きあがり、空っぽになった大智の心を塗り替えていく。


『凶器はおそらく刃物で、心臓をひと突き』


 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。


『肉は所々削がれていて、体のあちこちには噛みちぎったような歯型が』


 絶対に莉愛を殺したやつを見つけ出す。ぶっ殺す。ただじゃおかない。

 殺す、殺す、殺す。殺してやる。


 ドス黒い感情を糧に、再び大智は動き始めた。


 ◇◆◇


 殺す。見つけ出す。殺せないにしても絶対に見つけて警察に突き出してやる。

 そう決まればまずは情報収集だ、と涙を拭って部屋着から着替えた大智だが。

「……情報収集だっつっても誰に何を聞けばいいんだろう」

 早くも差し掛かった難関に舌を巻く。

 今更あの刑事2人に話を聞くのは選択肢としてはNOだ。探りを入れすぎて、こっちが犯人として疑われてしまっては元も子もない。

「なら集める前に整理、か」

 回り出す大智の思考。

 昨日、莉愛に最後にあったのはサークル室。夕方にまた明日、と別れたのが最後だ。


『じゃあ、この後人と会う約束があるから』


 去り際に莉愛が言った言葉。こう考えると、大智の後に会ったソイツが莉愛を殺害したと考えても良いだろう。

「こんなことになるなら誰に会うのか聞いておくべきだった……くそッ」

 相手の意思を尊重して、あまり我を通しすぎないように。

 この半年近く貫き通してきたスタイルが、今になって大智の首を絞めている。

 昨日の自分を殴りたい衝動に駆られ、代わりに壁を殴りつけた。

「クソッ!!」

 大智の叫びは誰もいない部屋に響き、虚しさを更に加速させていく。

 よくよく考えれば大智は莉愛の付き合ってる友人をあまり知らない。


 ────ああ、何でこんな所で日和って、踏み込むのをやめていたんだろう。


 思考が回る度に自分に対する嫌悪感が思考を蝕み、悪い方、悪い方へと沈んでいく。

 だがそんな大智を、スマートフォンの着信音が現実に引き戻した。

 壁を殴って痛む右手をなんとか伸ばして、床の上のスマートフォンを手に取る。画面には『森先輩』の文字。

「……もしもし」

 慰めの電話かと渋い顔を浮かべながらも、どんな情報でも今は惜しいと電話に出た大智。大智の声は心なしかトーンが落ちていて、電話の向こうで森が少し息を飲んだのがわかった。

『もしもし?ごめんね、こんな時に……』

「いえ、良いです。自分で立ち直ったんで、慰めの言葉とかも。いらないんで」

 自然と口から出る言葉が冷たくなるのが大智自身にもわかった。

「で、先輩。どうかしたんですか」

 心の中で申し訳ない、と手を合わせつつも、先を促す大智。

 そんな大智に森は戸惑う様に間をおいて、


『莉愛ちゃんって殺されちゃったんだよね。朝、警察の人から聞いたんだ。それでわたしね、サークル終わった後に藍田と莉愛ちゃんが会ってたの見ちゃって。もしかしたら、って────』

「────────」


 森の言葉に目を見開く大智。

 ……藍田先輩が莉愛に会っていた?

 だけど藍田先輩が莉愛を殺すとは思えない、理由もないし藍田先輩がそんなことをするとは思えない。と、思考が現実から逸れていく大智。

 だがそれに対して、心の何処かで藍田が犯人だと決めつけている自分もいた。


 藍田が、莉愛を殺した。

 藍田が、莉愛を奪った。


 許せない。許さない。許すわけにはいかない。

 なら、直接会ってとっちめて────

『和乃くん?』

 突然自分を呼ぶ声に我に帰る。

 混乱し始めた頭を緩く振って、深呼吸をひとつ。充分落ち着く時間を作ってから、大智は切り出した。

「藍田先輩が犯人にしろ、犯人じゃないにしろ……今は情報が欲しいです。だから、藍田先輩にまずは会わないと」

『待って、和乃くん。ひとりで行く気?危ないよ。わたしも行く』

 今すぐにでも家を出ようとした大智を電話越しに感じたのか、制止の声をかける森。

 歯痒さを感じながらも再び床に座り込み、大智は頭を掻き毟る。

 だが、予想以上に前に進めた。

 待ってろよ、藍田先輩。今すぐ俺がそっちに行ってやる。

 大智の口元は悲しみに歪むわけではなく、楽しそうに、嬉しそうに、笑顔で歪んでいた。


 ◇◆◇


 数十分後、大智は森と並び住宅街を歩いていた。

 ひとりじゃ危険だと言い張る森に折れて、結果数十分後に藍田の家がある住宅街に集合、という形になって今に至る。

 隣で森が何やら気を遣って色々と話しているものの、大智の心境はたったひとつ。


 ────殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。


 前も見えず、何も聞こえず、ただただその3文字だけが心と頭に反響し、大智を前へ前へと突き動かしている。

 更に数十分後歩いた頃だろうか。2人の足は、『藍田』と書かれた表札のかかった家の前で止まっていた。

 一見ごくごく普通の一軒家だ。茶色の壁と紺色の屋根が特徴的な家で、見た所あまり家が出来てから時間は経っていない。

「ここ、だね」

 隣で静かにつぶやく森に頷いて、覚悟を決めるように一呼吸置いてから大智がインターホンを押し込む。

 家の中にインターホンの機械音が響き、代わって沈黙が訪れた。

 数秒経って、ザッと雑音が入り、インターホンから声が漏れる。

『……どちら様ですか?』

 聞こえたのは女性の声。年齢は40代から50代くらいだろうか。

 その声に大智が応えようとして、森が手だけで制止した。

『今の貴方じゃ冷静に話せないでしょう』と言いたげな目で大智を見てから、森がゆっくりと言葉を紡いでいく。

「藍田……慎くんのサークル仲間なんですが。慎くんは御在宅でしょうか」

『……慎?慎なら、昨日友達と出かけてくるって言ったっきり帰ってこないけど』

 その言葉で、大智は心にわずかに抱いていた最後の可能性を打ち砕かれた。


 莉愛が殺害される前、最後に会っていたのは藍田先輩。

 そして、昨日から家には帰ってない。

 家に帰らないということはやましいことがあるということだ。

 警察が家に来ることを見越して、やましいことがあったから帰れない。

 怪しい。怪しくない点を探す方が難しい。


 遠かった背中を一気に地を這って追い詰め、その肩をひっつかんだ気分だ。

 自然と大智の口元には笑みが浮かび、漏れそうになる笑い声を必死に抑える。

 ああ、気分がいい。もう少しだ。もう少しで、俺は、アンタを、莉愛を殺したアンタを、殺せる。

「んー……打つ手無し、か。電話も出ないし」

 突然、スマートフォンを片手に声をかけてきた森に驚きつつ、笑顔を内側に押し込む大智。一瞬で作ったような苦笑を貼り付けると、顎に指を添えて首をひねりつつ唸りながら言った。

「家にいない、電話にも出ないとなると何処にいるんでしょうね」

「んー……一応わたし、藍田が居そうな場所は知ってるけど……回ってみる?」

 考え込む大智の視線を覗き込むようにして問いかける森。

 その態度に大智は若干の不信感を抱いた。


 ────森先輩のことだし、俺のしたいことに気付いてるはずだ。

 なのに俺にどうして、ここまで協力してくれるんだろうか。


 大切なものを奪われ、歪みきり、誰かを疑うことしかできなくなってしまった自分の性根に苦笑が漏れる。

 だがその疑うような視線から言いたい事を汲み取ったのか森は苦笑を浮かべ、


「うーん……なんていうか。わたしとしては和乃くんがしっかりと、ケジメというか……少し下品な言い方をするとケツを拭いて欲しい?ってのが正しいのかな」

「ケツを拭くて……」


 森の口から出た言葉に、今日初めて心の底から面白おかしく笑みを漏らす大智。

 その笑顔を安心したように、暖かい視線で見守ると、突然森は大智の頰を撫でた。

「でもさ、わたしがこうやって一緒にいる理由はホントは違うの。わたしね、和乃くんに殺しをしてほしくないんだ」

「……え?」

 困惑する大智をよそに、頰を撫でた手でそのまま頭を撫でる森。優しい笑みは崩れず、次いで紡がれる言葉からは暖かさも消えない。

「和乃くんが藍田を見つけて、まぁ……グーパンチの一撃でも喰らわせて、警察に差し出して欲しいのは本当。もしも犯人が藍田なら、ね。でもね、今のままなら和乃くんが藍田を殺しかねないのはわかってるよ。ならわたしがこうやって一緒にいれば、いざという時はブレーキをかけてあげられるかな、って」

 頭から手を離した森は大智に向き合い────


「好きだった────うぅん。好きな相手が間違いを犯すのを止められて、なおかつその人の役に立てるなら万々歳じゃない?」


 ────照れ臭そうに微笑んで、言った。

 その暖かい言葉が、言葉の暖かさが、大智を駆り立てていた復讐心を蝕んでいく。

 未だ藍田を殺そうとする心と、森を尊重しようと叫ぶ心が拮抗し、頭の中をかき回していく。


 そうだ。俺が藍田先輩を殺したところで何になる。この心は満たされるだろうけど、同じ罪を背負うだけだぞ。


 いや、俺は大切な人を殺されたんだぞ?ならその命で詫びたって足りない。1度の殺害じゃ足りない。何度も何度も何度も何度も死体を滅多刺しにしてやらなければ気が済まない。


 勝負のつかない自問自答。永遠と繰り返されるそれに大智は、

「……ありがとう、ございます」

 拳を強く握りしめ、視線をうつむかせながらそう応えるしかなかった。


 ◇◆◇


「クソ、ダメだ。見つからない……」

 膝に手をつきながら肩で息をする森と大智。街中を走り回った2人は冬にもかかわらず、汗をダラダラと流していてTシャツが汗で肌に張り付いている。

 空に浮かぶ太陽は半ば沈みかけ、藍田がいると思われる最後の候補────大智たちが通う大学を、緋色に染め上げていた。

「……ここで、最後」

 息も途切れ途切れに呟く大智。その心境は荒れ狂い、森の告白から続けられる自問自答は決着がつかずにいる。

 頭が痛い。頭が処理できる容量をとうに超えていた。

 まだ藍田がこの街に居たとすれば、俺はどうするのが正解なのだろう、と。

「……和乃くん、どうするつもりなの?」

 悩み、強く握られている大智の拳を優しく包み込む柔らかい感覚。

 森はそっと大智の手を包み込み、不安そうな目で大智を見上げている。

「俺、は……」

 まだやり直せるぞ、という声。

 もう引き返せないぞという声。

 その声を両耳に受けて、大智は、

「……殺しそうになったら、止めてください。俺まで同じ罪を背負うことはない」

 覚悟を決めたように森に告げ、サークル室へと一歩を踏み出した。

 嬉しそうに微笑んだ森を連れて、一歩。

 莉愛を連れ歩いた道を、森を連れて歩いていく。


 莉愛は浮気だって怒るかな。

 でも俺、(すが)る場所が欲しかったんだ。

 莉愛が居なくなって、心にぽっかり穴が空いて。

 代わりにそこを、心の大部分を埋めようと必死で。

 代わりに空いた心を満たしたのは殺意だった。

 これまでに、誰にも抱いたことのない程の殺意。

 殺してやる、殺してやると連呼する心。

 確かに空いた心は満たされた。だけど、それじゃあ少し悲しすぎるから。

 この人に縋っても、怒らないでくれるかな?


 ────掌に返ってくる暖かい感覚。


 今、莉愛を殺した相手を裁くから。ちゃんと裁くから。ほんの少しの浮気を、許してほしい。


 ────その暖かさと森の言葉の数々に、緊張の糸が緩んだ瞬間だった。


 サークル室の引き戸に手をかけ、力を入れようとした瞬間、それはやってきた。

 後頭部を襲う衝撃。一瞬視界が黒く染まり、奥歯を噛み締めて視界にかかる暗闇を消し去る。

 だが足から抜けていく力には気を使えず、無様に音を立てながら床に倒れこんだ。

「いったい、なにが……」

 状況を理解できない大智は掠れた声で呟き、辺りを見まわそうと体をよじる。

 遅れてやってくる痛みと、頰に粘り着く生暖かい感覚。

 その全てに大智は荒れていた心を更に掻き回され、痛みが、絶望が、増していく。

 1番の絶望の要因は、痛みでもなく血液でもない。目の前に広がっている光景だった。


「なん、で」


 絶望を最後に、大智はどうにか握りしめていた意識を手放す。意識が、砂になって指の隙間から落ちていように。

 闇の中に、深く、深く。


 ◇◆◇


 微睡む意識が引き寄せられたのは鼻腔を突き刺すような(にお)いだった。

「ッ…………」

 頭の痛みを堪えつつ、大智は薄目を開く。

 まだ霞む視界に捕らえたのは赤色。どす黒いそれは夕焼けとは程遠く、綺麗とは言い難い。

 赤い何かを見つめること数秒。ようやく大智の頭が正常に稼動して、自分の状況を理解した。

「なんだよ、これ。なんで……」

 椅子に手足を強く縛り付けられ、血が上手く回ってないのか手足の感覚はほぼない。

 そして大智がいるのは赤い絨毯と白い壁の部屋。その部屋には大智は見覚えはなく、ただただ首をかしげることしかできない。

「……いや、違う」

 壁付近だけ白いままの床を見て、大智は気づいしまった。


 絨毯なんて敷かれておらず、もともと白い筈の床が一部だけ、大智の周りだけ赤く染まっていることに。

 そして意識を引き戻した悪臭の正体が、今背後にあることに。


 目を向けたい半分、意識が警告を鳴らしている。

 目を向けてはダメだ、と。ここで目を向けたらおまえは平常では居られなくなる。

 だが大智の葛藤は、

「だーめ……しっかり、見てあげて」

 突然聞こえた声にかき消されてしまったのだが。

 聞こえてきた声に肩を跳ねさせた大智。大智の頰が突然暖かい感覚に包まれ、グイ、と首が後ろに向かって向けられる。


「あ、あぁ、ああ」


 そこにあったのはひとつの肉の塊。

 いや、肉の塊じゃない。人だ。人の、死体。

 原型をほぼ留めていないソレからは所々、白い骨が無残に飛び出している。

 内臓は辺りに飛び散って酷いものだ。もっと見てられないのは唯一原型をとどめている顔。

 顔は血液がまだらに模様を作り、片目は抜き取られたのか存在せず、空洞が虚しく大智の目をまっすぐ、まっすぐと見つめている。

 その見覚えのある顔と髪型に心当たりがある大智は、耐えきれずに胃液を床に撒き散らした。

「あい、だ、せんぱい……?」

 憎くて憎くてたまらなかった相手の名前を、ゆっくりと、涙混じりに呼ぶ大智。

 涙ながらに状況を理解しまいと首を振る大智を見て、楽しそうな笑い声が上がった。

 死体から目を逸らして次に目に入った笑い声の主も、大智の見知った顔で。


「和乃くん、よく眠れた?」


 何がなんなのか、わからなくなった。


 なんだ、なんなんだ。俺が何をしたっていうんだ。急に彼女が死んで犯人が身近な人かもしれなくて等々追い詰めたと思ったらこのザマだ。しかもその犯人かもしれなかった相手は今俺の背後で死んでいるんだぞ。

 心をひたすら埋め尽くす無念。無念。無念。情けない。俺は仇を討つことすらできずに、俺は、俺は、なんで。

 もう、嫌だ。何もかも。


 状況を理解しまいと思考をひたすら放棄しようとする反面、何処か冷静に達観していた大智の脳は、気絶する寸前の光景を突きつける。


 戸を開けようと手に力を込めた瞬間、返ってきたのは硬い鍵の感覚。

 一瞬気が抜けたのと同時に走る鈍痛。

 視界が真っ暗になって、力が抜けて、何が起きたのか理解しようとした時に視界に入った犯人。

 犯人の綺麗な靴は大智の血に染まり、手には血が滴るトンカチがあって。

 口元は罪悪感に浮かぶわけではなく満面の笑みで。狂ってる、だなんて思う前に意識は落ちた。

 そんな、犯人の、名前を、

「森先輩、なんで」

 大智は、涙を流しながら、嘘だと叫ぶように呼びつけた。

 大智の涙ながらの呼びかけに応える森は満面の笑みを浮かべている。加えて頰を淡く染めて、まるでこの状況を喜んでいるかのよう。

「なんで、何でって?なんでわたしがこんな事をするのか聞いてるの?」

「ああ、そうだよ。何でだよ森先輩。なんで、なんで俺はこんな事になってる?俺が何をしたっていうんだよ!!」

 今までの鬱憤を込めて、八つ当たりするように怒鳴り散らす大智。

 森は気にすることなく怒鳴り声を受け止め、なおも笑顔を浮かべて、大智の頰に手を添え、

「和乃くんのことが愛おしくて愛おしくてたまらないから」

「……は?」

 理解ができなかった。


 俺が憎いからじゃなく、愛しているから?


 理解が追いつかない大智を他所に森は、熱のこもった声で、狂ったように語り始める。

「そう、愛おしいから。愛らしいから。愛らしくて、愛らしくて愛らしくて哀らしくて哀らしくて哀らしくてたまらないから!可哀想な貴方を見る度快感が走る。絶望に歪んだ顔を見るたびにイッちゃいそうになるの!わたしね、堪えるので必死だった。もっともっともっともっと絶望に、もっともっともっともっと押しつぶされて、もっともっともっともっともっとダメになるまで待とう待とうって、思ったのに、耐えるので、必死で!!」

 興奮のあまり口の端から垂れる唾液を拭う暇もなく、森は語っていく。

「でも、もうね。我慢しなくてもいい……そう、もういい感じに熟したから。その絶望が、冷めないうちに……」

 ようやく興奮が冷めたのか唾液をぬぐって、息を整えながら熱い視線を大智に向ける森。その視線から逃れようと顔をそらすのだが森に頰を押さえつけられ、顔が、耳元に寄った。


「……冷めないうちに、頂かないと」


 耳元で囁かれたやけに現実味を帯びたソレに、大智の背中に寒気が走る。

 寒気が思考を急激に冷やし、警告音を鳴らし始める。

 このままじゃやばい、と。心では理解しているのだが逃げられない。

 縄を解こうと必死にもがく大智。その足の上に森が股がって腰を下ろし、鼻が触れるような距離にまで顔を近づけると熱のこもった息を吐きつける。

「…………でもね、まだ足りないの。だから、最後の仕上げ」

 至近距離にまで顔を近づけたまま、ポケットから何かを取り出す森。

 取り出したものは1枚の紙だ。何の変哲も無い紙が2つ折りにされていて、開くと何か文字が書いてある。

「これね、わかる?莉愛ちゃんから貴方への手紙。これ貴方への最後の言葉なんだよ?」

「……え?」


 待て、なんで先輩がそんなものを持ってる?


「ふふ。まだわかってないんだ和乃くん。可愛い……」

 優しく頭を撫でる森の手。落ち着くはずの行為が今は怖くて仕方なくて、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。が、それは叶わない。

 状況は進んでいく。大智の絶望へ、一歩、また一歩と。

「……知りたいでしょ、内容。読んであげるね……」

「やめろ、やめてくれ、聞きたくない、聞きたくない。もう、沢山だ……」

『大智へ。今貴方にこれを渡しているときは、私はどんな顔をしてるかな。たぶん恥ずかしくて、真っ赤になってるかもしれない。柄にもないことしてるんだもの、恥ずかしがるくらいは許してよね。私頑張ったんだよ?男の子がどういうの喜ぶのかわかんなくて、大智に隠したまま森先輩に相談して』


 ピースがひとつ、音を立てて嵌る。


『私さ、大智が初めての彼氏だったから。何していいのか、何をしてあげればいいのかわかんなくて。色んな人に色んなことを聞いて……森先輩には、迷惑かけちゃったな。今回のコレも森先輩の案だったりするし。他力本願だな、私』


 拒む大智の頭の中に、ひとつずつ、ひとつずつ。


『誕生日おめでとう、大智。大好きな大智に、これを送ります』


 ────ああ、そうだ……今日は俺の、誕生日。


「まぁそう、結局莉愛ちゃんは誕生日プレゼントを相談しに来て、こんなことになっちゃったわけで」

「何を白々しく言ってやがるんだよアンタ。莉愛を殺したのはアンタだったのか!」

「うん、そう。今の流れでわかってくれたよね?」

 目の前でビリビリに、莉愛からの手紙を引き裂いて笑顔を浮かべる森。

 ちぎられた紙は大智の膝の上に降り注ぎ、いつの間にか流れていた涙を吸って変色していく。

 森の笑顔に、バカにしたような態度に、怒りと憎悪と嫌悪と殺意が積み重なっていく。


 ────殺す、殺す、殺す。


 許せない。何処までも莉愛を侮辱するお前を許せない。

「なんでアンタそんなことを……なんでアンタ莉愛を殺したんだよ!!」

「ああ、もうわたしのことを先輩って呼んでくれないんだ……」

「ったり前だろ、質問に答えろ!」

 怒鳴り散らす大智に対して、未だ笑顔を浮かべる森。

 その態度が余計に癪に障った。ささくれ立った意識を引っ掴み、弄ぶようにこねくり回すその態度。さっきまでは暖かいと感じていた笑顔。

 その全てが憎らしくて憎らしくて、たまらない。

「なんでって、わたしが和乃くんを好きだから。食べちゃいたいくらいに好きだからだよ?」

「はぐらかすのはやめろ!俺のことが好きだ?食べちゃいたい?嘘ばっかり言いやがって」

「嘘じゃないよ。ホントのことなのに……」

 ふざけた態度の森をぶん殴ってやろうと必死に手足を振り回す。

 感覚がほぼない手足は思うように動かず、返ってくるのは椅子が虚しく軋む音だけ。

 その事実が虚しさに、怒りに、殺意に拍車をかけて、大智の表情を歪ませていく。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す!!ぶっ殺す!ぶっ殺してやる!!!」


「そう?憎い?殺したい?だってわたしずっと和乃くんに嘘ついてたもんね。犯人は藍田じゃなくてわたしでしたー!しかも疑われた藍田は今貴方の足元で死んでるの!どう?どんな気持ち?」


「殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる!!」


「そう、そう、そう。憎んで?もっとわたしを恨むの。心を埋めた殺意を和らげられて、生きる意味を一瞬奪われて、戸惑って、縋る相手をようやくみつけて、叩きつけられて、その叩きつけられた相手はその縋り付く相手だった────歪むでしょ?心が歪んでくでしょ?わたしの態度、憎らしいでしょ?」


「憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い!!全部俺から奪っていきやがって!藍田先輩も、彼女も、殺意も、縋り付きたかった暖かさも!!全部全部奪っていきやがって!!嬉しかった、嬉しかったのに……先輩から向けられた暖かさも、人を殺して欲しくないっていう温かい言葉も!!全部!!!」


「でもその言葉も全部、嘘だったんだけどね?全部全部、貴方を美味しく食べるための調味料。莉愛ちゃんの死も、貴方の恨みも、憎みも、藍田の死も」


「てめぇぇぇぇ!!!」


 叫ぶ。喉が裂けるほどに叫び声をあげて。顔を涙で、ぐちゃぐちゃにしながら。


「知ってる?和乃くん。死んだ人のお肉って美味しくないんだよ。食材は鮮度が大事だって言うじゃない?今貴方のお肉はね、とってもとっても美味しそうなの。だって────」


 大智が流した涙を愛おしそうに指で救い、笑いかける。

 森は嬉しそうな笑顔を浮かべたまま、肩口に顔を近づけて、


「────今の貴方は、最高に憎んで(生きて)るもの」


 大智の身体に、肉に、噛り付いた。


「あ、が、ああああああ!!」


 耳元から響く咀嚼音と痛みに吐き気がこみ上げる。

 信じられない。今、俺は、食われてる。

 同じ〝ヒト〟に、人間に、食われている────?


「あは、やっぱり美味しい……思った通り」


 口元の血液をぬぐって微笑む森に、大智は恨み言すら返すことができない。

 思考を埋めていくのは痛みだけ。


 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


 痛みが思考を染め上げて、堰き止めて、現実の理解を拒んでいく。


「そんなに叫んだって無駄……ここね、防音なの。お金持ちだからこんな部屋だって持ってるのよ?」


 耳が齧り取られた。血が、血が流れて、身体に震えが走っていく。


 ────痛い、痛い痛い痛い痛い。痛い痛い痛い……から、殺す、殺してやる。殺したい。殺すべきだ。今、ここで、殺す。殺して。


 次第に痛みは殺意に染め上げられ、大智の自我は飛んでいく。

 殺意にとらわれ叫ぶだけの人形へと成り代わっても、森の笑顔は消えることがない。


「殺す、殺す、殺す!!殺してやるぅぅぅうう!!」

「そう?ありがと……」


 殺意を抱え込んだまま森 茜に捕食され、


「和乃くん……大好き」


 心からの愛の告白を最後に、和乃大智は死んだ。

死んだ人間の肉は不味かった。逆説的に考えれば生きてる人間の肉は超美味い、と。

生きていることの定義は感情を抱くこと、と考えて。

何処かで『一番強い感情は負の感情だ』と聞いたことがある。

なら最高に負の感情を抱いている人間の肉は最高に美味いのでは?というちょっといかれた考えから生まれました。二万文字くらいにかけてお送りしました愛の形。哀の形やもしれん。

こんな話を書きましたが元気です。生存報告でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ