第3話
太陽は雨雲に遮られたまま沈んで行き、夜の闇が街中を覆う。
時計の短針は6を指しており、教室の蛍光灯に結は照らされる。
長時間シャープペンシルを握っていたせいで中指が痛くなってきているが、気力を振り絞って最後の問題の数式を書き写し終えた。
「終わったぁ~。ああぁぁ~疲れたぁ~」
シャープペンシルを開けているノートの繋ぎ目に置き、頭を机の上に突っ伏す。
溜まった疲労を吐き出すように口で何度も大きく呼吸し、自身が書き写したノートの文字が視界に入る。
志保のノートは色の付いたボールペンを使い、図形を書くのにもキッチリと定規で真っ直ぐに書いてあるが、書き写しただけの結のノートは黒字一色で後半に進むに連れて殴り書きになって行く。
図形も線がブレブレの手書きで書いてあり、お世辞にも見やすいノートとは言えない。
ゆっくりと上半身を机から起こし、シャープペンシルを筆箱に入れてノートと教科書と一緒にスクールバッグへ詰め込む。
椅子から立ち上がった結はぶら下げているスクールバッグを抱えて、クタクタになりながりも教室から出ようとする。
壁際にある蛍光灯のスイッチをオフにして教室が真っ暗になった。
扉を閉じて、非常階段の入り口を示す緑色の光りが照らす廊下を歩いて職員室を目指す。
部活をしている生徒以外は既に帰っており、真っ暗な校舎の階段を降りて1階に付く。
薄暗い廊下を再び歩きガラスから光りの漏れる職員室まで来ると、塗料で灰色に塗られた灰色の扉のノブを掴んて横へスライドさせた。
「失礼しま~っす」
部屋の中へ入った結は数学教師の柳のデスクを探す。
中に人は数人しか居らず、ノートパソコンのキーボードを叩いていたり、備え付けの白い電話で話をしている。
入り口から奥にある柳のデスクへ向かった結だが、出席簿と数学のプリントが置いてあるだけでそこには誰も居なかった。
「ヤナギン居ねぇのかよ。どうすっかな?」
スクールバッグのファスナーを開け、先ほど出来上がった自分のノートを取り出し表紙を見つめる。
数秒考えた末、結はノートを邪魔にならないように出席簿の上に置いた。
「コレでよしっと」
要件を済ませると出口まで小走りで行き、職員室から出て行く。
雨の冷たさが空気に乗って伝わり、結は本校舎から少し離れた場所にある体育館を目指す。
アスファルトは雨粒を弾き、排水用の溝には絶え間なく水が流れて行く。
体育館の扉は締め切られているが、中からシューズが床とこすれ合う音やバスケットボールをドリブルする音が漏れている。
バスケットボール部員の甲高い声が雨音に混じって聞こえてくるが、興味のない結は振り向きもせず更衣室のドアノブを捻る。
電気の付いていない更衣室は薄暗く、化粧や香水の甘い匂いも漂う。
コンクリートの床と壁は無機質で、志保の使用しているロッカーを開けた。
ロッカーの中身も彼女の性格が現れており余分な物は一切なく、ハンガーに掛かっているジャージと長傘しか入れていない。
「相変わらずキレイなこって。アタシとは大違いだ」
結のロッカーの中身は正反対で、中には授業で使う教科書やノートが順番もバラバラで置かれている。
使った後に洗濯もしていないシワだらけの体操服とジャージが絡みあい、力任せに閉めているスチールの扉はキズ付き、至る所がへこんでいた。
長傘の手元を掴みロッカーを後にすると、家に帰るべく今度は革靴を置いてある下駄箱に歩く。
向かう途中で誰ともすれ違う事もなく、踵の潰れた革靴に履き替え志保に借りた長傘をさして雨が降る校舎の外へ出た。
水色の傘布が雨を弾きリズムを奏でる。
話し相手も居ない結は口を閉ざしたまま無言でガードレールの敷かれた歩道を歩き、時折ヘッドライトとワイパーを作動させた車が通り過ぎて行くだけ。
街の中心にほど近い場所でありながら、雨の日の夜に人通りはほとんど見当たらない。
「今日のテレビ何だっけなぁ?最近の帰れナインはつまんねぇし、12時のアラレトークまでどうしよう?志保の家、時間潰すモンないしな」
独り言を呟きながらテレビ番組の事を気にする結の背後から、誰からいきなり飛び込んできた。
「うぉっ!?」
重心が崩れて前のめりになりながら右足を前に踏み出し、なんとか体が倒れるのを防ぐ結の腰にずぶ濡れの少女が抱きついている。
結の制服が、濡れた少女の腕で色が濃くなっていく。
腕を振りほどいて振り向くと、結よりも年の若い少女がそこに居る。
「うぇぇ~、ベタベタじゃねぇか」
「お姉さん、一緒に遊ぼ!!」
「はぁ!?バカじゃねぇの!!ってか誰だよお前!!」
「お願い。変な人が付いて来るの」
「変なひとぉ?」
結の傘の中に入り込んでくる少女はゆっくり視線を後ろに向ける。
少女に合わせて結も視線の先を見ると、黒いレザージャケットを着た男が少女と同じように傘も指さずに立っていた。
その場から1歩も進む素振りを見せず、結と少女を凝視しており見るからに怪しい。
口元が動いており何かを話しているが、距離が離れているのと雨の音でかき消されて聞こえない。
何をしているのかがわからないのが返って結の恐怖心を煽る。
「キモッ!?」
「さっきからずっと付いて来るの。何かあったら助けてもらえって学校の先生が言ってたから……」
「そう言われても困るんだけど、あんなキモいヤツ。アタシも一応女だからさぁ」
「うぅぅ……」
雨に濡れた少女の瞳からは水滴に混じって涙がこぼれ落ち、冷えてしまった頬に温かいモノが流れていく。
喉奥から聞こえてくる悲痛な声は雨の音にはかき消されず、結は少女を泣かせてしまった事に同様し取り乱してしまう。
なんとか泣き止まそうと精一杯の対応をするが、年下にどのように接すればいいのかを結はあまり知らないせいで言葉は乱暴だ。
「あぁ、泣くな!!アタシは面倒なのは嫌いなんだ。家までなら付いて行ってやるから!!」
「ほ、本当に?」
「何回も言わせんな。で、お前ん家どこなんだ?さっさと行くぞ、もう夜なんだし」
「うん!!」
咄嗟に1歩後退るが、泣き止んだ少女はまた結の体に抱きつき紺色のブレザーがまた濡れる。
間接的に濡れたブレザーの水がワイシャツにまで染みこみ、小麦色の柔肌に張り付く。
傘を指しているとは言え長い間雨の中に居るせいで、アスファルトを弾いた雨がクタクタの革靴と靴下に入り込んでくる。
濡れる体と少女の事をうっとおしく思いながらも、後を付けてくる男を横目で一瞬だけ見て結は歩き出した。
(ケロっとしやがって、ウソ泣きかよ。最近のヤツはそんな事もできんのか?器用な事で)
笑顔に戻った少女は傘に入って結の隣を歩いている。
瞳から溢れていた涙は既に止まっており、絹を裂いたような声も聞こえない。
心の中で悪態をつきながらも傘を持ちながら歩道を進み、結は隣の少女に声を掛けた。
「で、アンタ名前なんて言うの?」
「名前?う~んと…… 秋雨宇美!!」
「宇美ちゃんね」
宇美は少し上を見上げて考えると自分の名前を名乗った。
名前が出るまでに時間が掛かった事に疑問が過ぎったが、些細な事だと結は考えず、もう1度悟られないように後ろの男を見る。
少し頭を右へ傾け視線を後方に向けると、男は一定の間隔を空けて2人の後を付けて来る。
(やっぱり付いて来てるな)
ストーキングされているのを確信した結は、男を振り切る為に歩幅を広げ歩くスピードを上げた。
水たまりを踏むリズムが早まり、弾かれる雨水が増々革靴の中へ染みこんでいく。
周辺に人影はなく、車道と遠くの背景にはビルやマンションの明かりがあるだけで隠れられる場所もなかった。
覚悟を決めた結は隣に居る宇美を抱えて路地を左へと曲がる。
「逃がさない……」
後を付けてくる男は視界から途切れてしまった2人に追いつくべく走り、結が曲がって行った路地を進む。
追いかける事に集中していた男は油断しており、先で待ち構えていた結に反応するのが遅れてしまう。
折り畳んだ長傘の柄を両手で握り大きく振りかぶった結は、力の限りスイングし男の頭部へ長傘をぶつけた。
「このぉ、クソヤロウがァァァ!!」
「なっ!?」
甲高い音を鳴らして長傘の骨が折れ曲がり、中軸のシャフトもそれてしまう。
男の姿勢は大きく崩れ、受け身も取れずに雨に濡れるアスファルトへ倒れて意識を失った。
倒れた男は起き上がる素振りを見せず、結は攻撃した男には目もくれず宇美の手を握ってこの場から一目散に逃げ出す。
「逃げんぞ急げ!!」
既に濡れていない所を探す方が難しい程に全身が濡れてしまった結は、もう雨の事など気にせずとにかく前へ向かって走った。
スクールバッグを宇美に持たせたまま、赤い長髪から水を滴らせ口から白い息を吐いて進み続けるとコンビニの店舗の明かりが夜の闇によく映える。
消耗するスタミナと冷え込んでくる体温を休ませる為に、宇美を連れトラックが数台止まれる程駐車場が広いコンビニへ向かう。
入り口まで来るとガラスの扉が反応して自動的に開き、入店を知らせる音楽が店舗内に鳴り響く。
入ってすぐに結は何を買うでもなく食事スペースの椅子へ腰を下ろし、大きな溜息を吐き自身が濡れてしまっている事を自覚する。
宇美も一緒に付いて来るとテーブルの上に持たされていたスクールバッグを置いた。
「あ~ぁ~、最悪。シャツまで濡れてるし」
「お姉ちゃん大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇよ、冷たいし寒いし。帰ったら母さんに怒鳴られる」
「でもカッコよかったよ。傘をバァーンてさ、あの人も1発KOだね」
宇美はあの時の真似で素振りをし笑顔で結に話しかける。
褒めて貰う事に慣れていない結は自分よりも年下の少女の言葉にまんざらでもなく、頬を少し赤らめると視線を床へ反らしてわからないように誤魔化す。
「ん?」
けれども視線を反らした先にあるのは握っている志保の長傘。
以前の姿は見る影もなく、全体が大きく曲がっており内側の骨も数本折れ曲がり傘布が破けてしまっている。
恐る恐る手を伸ばし傘を広げようと持ち手のレバーを押して見るが、中軸のシャフトが真っ直ぐでない長傘は10㎝も進むとつっかえてしまいこれ以上動かない。
借り物の長傘を買い換えるしかないぐらいに壊してしまった事に結は背筋を凍らせた。
「完全に壊れてる……強くやりすぎた!?それよりもどう説明しよう?志保は大丈夫、問題は母さんだ。壊したなんてバレたら小遣い抜かれる。志保ん家の親にもバレたらダメだ、怒ってなくても絶対に母さんに言う。どうしよう……」
長傘を壊した罪悪感よりも自分の小遣いの事を気にする結は、椅子に座ったまま握っている長傘をどのように誤魔化すかを思考を巡らせて必死に考えた。
視線を俯けたまま、口を小さく動かしぶつぶつと独り言を繰り返すもすぐに良いアイディアは思い浮かばない。
諦めた結は肩を落とし、顔面をテーブルに突っ伏した。
「ダメだ……」
「どうしたのお姉ちゃん?」
「アイツ殴ったせいで傘が壊れたんだよ。あぁ~、今月は小遣いナシかぁ」
「新品買って返せば?」
宇美の何気ない言葉に結の頭の中に閃きが起こる。
瞬時に体を起き上がらせてテーブルの上のスクールバッグからスマートフォンを取り出し、志保の長傘を検索し値段を調べようとする。
長傘の持ち手の部分には金具でブランド名が彫ってあり、液晶画面を親指で素早く何度もタッチしそのブランドの長傘のホームページが表示された。
ホームページには長傘以外にも財布やバッグも扱っており、普段は目が惹かれる結であるが今は目もくれずに傘の項目をタッチする。
「傘だけでも一杯あるな。どれだ志保の傘は?」
数が多い事にイライラしながらも画面を下へスクロールさせて同じ型、同じ色の傘を血眼になって探す。
宇美は肩が触れ合うくらい結に近寄り、液晶画面を覗き込み一緒になって傘を探した。
指で触れる度に画面が水滴で少し濡れてしまうが、気にせずに結は画面を触る。
人差し指が3回上下に動いた時に志保の傘が画面中央に表示され、2人は同時に声を上げた。
「コレじゃない?」
「あった!!形も色もおんなじ。値段は!?」
目的の物を見つけた結は興奮しながら長傘の画像をタッチし、数秒読み込むとさらに大きく細かな部分が詳細になった画像が表示される。
画面もまた下へとスクロールしていき、購入画面のすぐ近くに値段が表示されていた。
そこに書かれている文字を見て結は驚愕し、体から力が抜け落ちてしまう。
「13900円……」
「どうしたのお姉ちゃん?」
「たかが傘がなんでこんなに高いんだよ……」
「うん?」
両腕は肩からぶら下がっているだけで、力の入っていない右手からスマートフォンが床にこぼれ落ちる。
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