第2話
『急行列車が到着します。黄色い線の内側までおさがり下さい』
駅の係員のアナウンスがスピーカーから響き渡り、携帯電話をいじっていたり耳にイヤホンを付けて音楽を聞いて待っていた人達が電車に乗る為に準備を始める。
朝の待機列はどこも行列が出来ており結と志保は階段を降りてすぐの列に駆け込んだ。
全力で走ってきた2人は額から汗がにじみ、肩で大きく息をしながら電車が来るまでの僅かな時間に体を休ませる。
「はぁっ、はぁっ、はぁ~っ、間に合った」
「ひ……酷いよ結ちゃん、1人で勝手に走って行っちゃうんだもん。私も……疲れちゃった」
「でも……はぁっ、間に合っただろ?」
「そうだけど、結ちゃん走るの早いから」
息も切れ切れに会話する2人、そうしている間に電車がホームへ到着し、ブレーキの掛かる甲高い音が耳に入って来る。
線路と鉄の車輪が通る音も交じり合い電車は少しずつ減速していく。
完全に停車した電車は数秒もすると各車両の扉を一斉に開放し、待機していた列が雪崩のように中へ入る。
列の最後尾に並んでいた2人が入った頃には椅子は全て占領されており、結はつり革に捕まって電車の走る揺れから体を支えた。
「志保、昨日の数2の課題出来た?」
「うん、出来たよ。ちょっと難しかったけど」
「ちょっと、ねぇ。お願い志保、昼休みに答え見せて!」
「またなの結ちゃん!? ちゃんとやろうよ?」
他力本願の結に志保は呆れるが、結は自分1人で課題を進めた所でほとんどが空欄か間違っており担当の教師に怒られるのはいつもの事だった。
真面目に机に向かい合い教科書を読んで勉強するなど遊び盛りの彼女には耐えられない苦痛であり、最近では結とは違い学力が優秀な志保に頼りきっている。
幼い頃から常に一緒だった結に志保は断る事が出来ず、最後にはいつも心が折れて手伝ったりしてしまう。
今回の件も結に注意するが口調からも態度からもそこまで厳しいとは言えず、当の本人にはほとんど効果がなかった。
「いや、昨日の夜はマップスが出ててさ。どぉしても見なきゃダメだったんだよ」
「でも、それなら始まる前とか終わった後にも出来るでしょ?」
「9時からは片棒の最終回も見ないとダメだし。シャワー浴びて携帯いじってたら時間がなくってさ」
「遊んでばっかりじゃまた柳先生に怒られるよ?」
「たかがヤナギンだろ? 大丈夫だいじょうぶ」
「もう、しょうがないなぁ」
勉強をしろと言う志保の言葉は届かず、結は素知らぬ顔で電車が着くのを待った。
線路の繋ぎ目を通過する度に段差を渡る音と振動で車内が揺れ、つり革を掴んでいる結は右腕に力を入れて体を支えたが隣に居た志保が、揺れに流されて志保が体に寄りかかってくる。
「キャッ!! ごめん結ちゃん」
「大丈夫か? ちゃんと捕まってろよ」
「うん、ごめんね」
志保は結の体から離れて頭上にぶら下がっているつり革にもう1度手を伸ばした。
2人の体は振動に揺られながら電車は次の駅へ到着し、停止した時に慣性で車両前のめりに揺れが椅子に座っていたサラリーマンや学生が立ち上がる。
2人もつり革から手を離し、電車から降りようと扉の前まで移動した。
開いたと同時に人の集団は降りて行き、出口にホームを目指す者や乗り換えに急ぐ者など様々。
結達はホームに向かって人々の流れに沿って歩いて行き、階段を登ると駅の長い通路に差し掛かる。
その時に結を目掛けて走ってくる人物の存在に気がつくが、避けようとする暇もなく結はまたぶつかってしまった。
「いっ!?……たくない?」
「失礼しました。ご無事ですか?」
ぶつかって来た相手は俊敏な動きで結の背中に手を回し両足を抱え上げた。
結の尻は地面にぶつかる事はなく、抱え上げてくれている相手の顔は統制の取れた美しい顔で、蒼味の掛かった髪の毛は後ろで束ねられている。
あまりに美しい表情に、抱えられている事も一瞬だけ忘れて結は見とれてしまった。
「お怪我は?」
「だ、大丈夫……です」
「よかった。可憐な女性に怪我をさせてしまったら申し訳が立たない」
女性は抱えていた結を両手から下ろしてあげ、結はその人の全貌をようやく見れる。
スーツを着こなし、手にはシルクの手袋をして、その姿は女性執事のように思う。
「時間を取らせてしまいましたね。私は失礼させていただきます」
「あっ……」
結の返事も聞かずに、スーツを着ていた女性は颯爽と走り去って行く。
後ろ姿を見つめる結に志保は心配そうに近寄った。
「結ちゃん、あの人誰なの?」
「わかんねぇ。でも悪い人ではなさそう」
「なんだか今日は良くない事が続くね」
「そうだな。取り敢えず早くガッコに行こ」
結は記憶の隅に留めておく程度にして歩みを再開した。
2人は横並びで学校へ向かって歩いて行く一方、スーツを着た女は短距離走のように全力疾走で駅を駆け抜ける。
///
雨雲はさらに濃くなり、灰色の中から雷が一瞬光り轟音を鳴らす。
水滴がシトシトと降り始めあっという間にアスファルトは濡れて行く。
時刻は午後3時に差し掛かり、各教室で6時限目の授業が行われている。
教室で授業を受けていた結は窓際の席から、空から降ってくる雨をぼんやりと眺めている。
数学教師の柳は教卓の上にサンダルを履いて立っており、開いた教科書を片手で持ちながら白いチョークで黒板に数式を書いていく。
チョークが黒板に当ってカンカンと削れる音がなり、生徒がシャープペンシルでノートに書き写す静かな音だけが教室中を覆う。
1日中各教室を回った柳の服はチョークの粉で汚れており、パーマの掛かった黒い髪の毛とズボンも粉まみれになってしまっている。
最後の1文字を書き終えた柳はチョークを置いて手に付いた粉を払い落とす。
「よぉし、問5の答えがコレだな。αとβを2解とする2次方程式は――」
柳が問題の答えを書き終えて解説に入る。
問題を既に解いて余裕の者や、まだ黒板に書かれた数式を書き写し終えていない者などバラバラだが、柳は構わずに続けた。
結はノートを広げてまだ1文字も書いておらず、問題の解説を聞く素振りすら見せない。
顎を手の平で支えて、止まない雨を窓からずっと眺めていた。
教科書を持った柳が歩いて近づいて来る事も気が付かず、窓の外を見たままの結の脳天に教科書の角が当てられる。
「痛っ~~~~!!」
「授業聞いてたのか香木原ぁ!!」
突然頭に走った激痛に結は両手で頭を抱えて、角が当たった部分の痛みを和らげようと何度も擦った。
結は痛みに瞳から少し涙を浮かべながらも、激怒する柳に1歩も引かずに楯突く。
「何すんだよ!! 寝てないだろ!!」
「寝ないのなんて当たり前だ!! 授業聞いてたのかって言ってるんだ!!」
「だからどうだって言うんだ!! こんなん体罰だろぉ!!」
「うっ!? ソレを言うか」
『体罰』の単語に過剰に反応する柳、昨今の教育現場では些細なことでも体罰と受け取られ、減給や最悪の場合は教員免許剥奪も有り得る。
結は『体罰』を武器にして、柳を追い込んでお咎めがないようにしようと考えた。
(ヤナギンのくせに調子付きやがって。ふっふっふ、でもコレで何も言えなくなったな。大勝利ってね)
心の中でほくそ笑む結だが、自身より倍以上年上の教師に体罰と言いがかりを付けて押し通すには無理があった。
白紙のノートが視界に入った柳は堪忍袋の緒が切れ、生意気な結に重たいペナルティを課す。
「よぉし、わかった。香木原、お前今日は居残りだ!!」
「はぁ!?」
「今日中に55ページから70ページまでやれ。出来なかったら数学の単位はやらん!!」
「えぇ!? ちょっとま――」
結が異議を唱える前に呼び鈴が鳴り、声は遮られてしまう。
聞く耳を持たない柳は結の言葉など無視して一方的に言い渡す。
「今日は終わり。香木原、今日中だからな。日直!!」
「きり~つ!!」
日直の一声で全員が席から立ち上がり、数学の授業は終わってしまう。
課せられたペナルティに呆然と立ち尽くす結に柳は何も言わずに教室から出て行った。
最後の授業が終わり他の生徒は掃除や帰宅、部活動に行く為に各々が動き出すが、結はずっと立ったまま動かない。
同じクラスの志保は、カバンに荷物を詰めると立ち尽くす結の元へ歩み寄る。
「どうするの結ちゃん?」
「ど……どうしよう志保!? ヤナギンのヤツ多分本気だ!!」
「でも、さっきのは結ちゃんが悪いよ」
「そんな事言ったって!? 志保、一生のお願い、手伝って!!」
志保の両肩をガッチリと掴み懇願するが、優しく手を触れてくれるだけで救済は差し伸べてくれなかった。
「ごめんね、今日は用事があるから帰らなきゃいけないの」
「そ、そんなぁ」
「本当にごめんね。ノートなら貸してあげられるから」
そう言うと志保は自分の席へ戻り、机の上に置いてあるカバンの中から1度入れた数学のノートを取り出す。
ノートの表紙には志保の手書きで数学とマジックで書かれており、パソコンで印刷したかのように綺麗に書いてある。
小走りで戻ってきた志保は持ってきた自分のノートをしっかりと結の両手に手渡した。
「はい、コレ。夜には家に居るから持ってきて。あと、外は雨降ってるから風邪引かないようにね。私の置き傘使ってもいいから」
「う……うん」
「じゃぁ頑張ってね。帰りに結ちゃんの好きなチーズケーキ買ってくるから、一緒に食べよ」
時間が迫っている志保は結に言い残すと1人で帰って行く。
教室に残された結は遠ざかって行く彼女の姿を見つめるが、廊下に出るとすぐ見切れてしまう。
助けてくれる人は誰も居らず、諦めた結は大きくため息を付いて自分の椅子へ座った。
「はぁ~、しゃあねぇ。やるか」
教科書と貸して貰ったノート、何も書いていない真っ白な自分のノートを机の上に広げる。
引き出しから筆箱を取り出しファスナーを開け、シャープペンシルを握り頭を2回親指で押し込んだ。
先端から芯が数ミリ伸び、柳に言われた範囲の問題を渋々解く。
「クソ、めんどくせぇ」
教科書に印刷されている文字を読み、後は何も考えずに志保のノートに書いてある数式を丸写ししていく作業を繰り返す。
けれども3問目までを書き写した所で握っていたシャープペンシルをノートの上に置き、机の横にぶら下げているスクールバックからスマートフォンを取り出した。
液晶画面を親指だけで操作し、メールと表示された部分に触れる。
「み~み~み~」
独り言を呟きながら宛先に『宮野 志保』を選び、次に本文を打っていく。
1年以上使用しているスマートフォンの操作はスムーズで、短い文章なら数秒で入力できる。
『チーズケーキ、固いやつでお願い』
入力の終わった文を送信と表示された部分を押して志保へと送る。
「これでよしっと」
送信されたのを確認した結はスマートフォンをスクールバックに入れようとするが、それよりも早くに志保から返事が返って来た。
スクールバックに入れかけた手を戻し、液晶画面に表示される返事の内容を読む。
『わかった、楽しみにしててね』
内容を見た結は表情を緩ませ、握っているスマートフォンをスクールバッグに放り込む。
シャープペンシルを握り直し課されたペナルティを再開させた。
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